untitled – TBD 7

 桜澤は滅多に怒らない。もちろん、当たり前に腹を立てたりはするが、本気で機嫌が悪くなったり、そのせいで態度が悪くなったりすることはほとんどない。
 だから、つい甘える。
 自分の不機嫌さを容赦なくぶつける相手は誰にとっても大体が家族だろうが、土屋の場合は数年前からそこに桜澤が追加されていた。
 日常的に怖いとか、きついとか言われるし、自覚もある。元々周囲に気を遣うタイプではないが、それでも一応、社会人として最低限の我慢や妥協は心得ているつもりだ。
 だが、桜澤には剥き出しの感情をぶつけてしまうことがたまにあって、そういう時、桜澤は不機嫌な顔で黙ってどこかに消えるのが常だ。
 やり合ったらもっと腹立つだろ。
 以前、何で何も言い返さないで消えるんだと訊いたらそう答えた。
 ああ見えて桜澤もかなり気が強いから、本気で喧嘩になったら多分結構ひどいことになると分かっているのだろう。土屋よりよほど大人だ。で、会社なら行く先はいくらでもあるが、飲んだ翌日、同じ部屋にいたりしたらどうするか。
——見られてんだけど
 メッセージが届いた。
——誰に
 返したら、少し間があって返信が来た。
——店員
 土屋の部屋から徒歩五分もかからないところにあるコンビニが桜澤の避難先だ。避難というと桜澤が一方的に逃げているようだから語弊があるが、とにかくいつもそこへ行く。顔見知りの店員もいるらしく、土屋の——桜澤のではない——頭が冷えたころに戻ってくるのだ。
——不審者だと思われてる
——いつものヤツはいねえのか
 少し間があって、また返事がきた。
——いない
——また
——見られてて
——絶対なんか
——誤解されてる俺万引きとか
 細切れで次々着信するメッセージに返信した。
——そこ出れば
 その後何の返信もなくなったから戻ってくるのかと思いきや、十分待っても帰ってこないから土屋は溜息を吐きつつ腰を上げた。だらだらと歩いて行ってコンビニに入ると、桜澤が一番奥のレジの前に立っていた。
「サクラ」
 振り返った桜澤は、店員に向き直り、少し話してようやくこちらにやってきた。
「迎えに来た」
「……」
「いねえんだろ、仲いい店員も」
「いや、休憩で裏にいた」
 桜澤が肩越しに振り返る。さっき桜澤がいた奥のレジに入っている男は、土日以外も、平日の遅くに見かける顔だ。多分大学生か何かのバイトだろう。土屋よりは小さいが、背が高くて細身の、今時の若いやつだ。土屋と目が合うと会釈して寄越す。
「何だ、じゃあ」
 迎えに来る必要なかったな、と言いかけた土屋の視線を追って桜澤が振り返る。店員は桜澤に目を据え、小さく笑った。
「——行くぞ」
「あ? ああ、うん」
 腕を掴んで向きを変えさせ、手を離して背中を押しながら出口へ向かう。
「あ、そういえば俺、今日の晩飯」
 自動ドアを潜りながら桜澤が振り返る。
「わざわざここでコンビニ弁当買って持って帰んのかよ」
「や、じゃなくて、レトルトとか」
「奢ってやるよ、晩飯くらい」
「何で?」
「怒らせたから」
 桜澤は立ち止まって少しの間黙って土屋の顔を見上げた後、ぱっと笑った。
「じゃあ何か、美味いもん食おう」
 屈託ない桜澤の笑顔を見ながら頷き、煙草を銜えて火を点ける。なんか飲み物でも買ってくればよかった、と戻ろうとした桜澤の背を、自販機でいいからと軽く押しやってまた歩き出す。
 細めた目。甘えるように見えた小さな笑み。
 自分だって結局桜澤に甘えているくせに。
 そのことが癇に障っただけだと内心で呟いて、土屋は桜澤の後頭部に目を向けた。風が吹いて桜澤の髪がひと束揺れ、土屋の吐き出す煙もどこかへ流れて消えていった。