ギフト 1

「絵のモデルを」
「嫌だ」
 姿かたちを変えたせいで頭までどうにかなってしまったのか。くだらないことを考えながら、哲は電話の向こうから聞こえる声を途中で遮った。
「まだ最後まで言ってねえのに」
「絶対最後まで聞きたくねえよ」
「別に全裸で寝そべってくれなんて言わねえから──っていうか、何だよ」
 ドアが開いて仙田が現れた。
「そこにいるなら言えばいいのに」
「着いた」
 今更ながら言ったら、仙田は少しだけ口元を緩めてドアを大きく開けた。

 

 哲が書類やその他諸々の偽造屋をしている仙田と知り合ったのは数年前だ。親しいわけではないものの、顔を見る機会はそれなりにあった。見知った顔のひとつであったはずの仙田は、しかし今ではほとんど別人に見える。
 ふた昔くらい前のパンクロッカーみたいな外見で常にテンションが高く、口を開けば喧しく、本気だか冗談だか分からないことを常時べらべら喋っている宇宙人みたいな男。
 哲がぱっと思い浮かべる仙田はそんな感じだったが、それはあくまでも仙田が演じるキャラクターだったらしい。父親との確執が消滅とは言えないまでもかなり目減りしたらしい今、仙田は長年被り続けていたものを捨てて素に戻っている。今の仙田は口数もテンションもごく標準的、ついでに見た目も同様だ。
 哲は変化が受け入れられないというほど仙田をよく知っているわけではないので、慣れてしまえば気にならないだろう。ただ、慣れるほど頻繁に会わないから、正直なところまだ違和感だらけだった。
 仙田は数秒間哲をじっと見つめた後、口を開いた。
「顔に出てる」
「何が」
「違和感半端ねえなあって思ってんのが」
 隠すつもりもないから当然だ。特に気を遣うようなことでもないし、間柄でもない。
「まあな」
 スニーカーを脱いで部屋に上がる。その辺適当に座って、とローテーブルのあたりを指された。ソファはなく、座布団替わりと思しき平べったいクッションがいつか置いてある。哲はそのうちのひとつに腰を下ろして胡坐をかいた。
「なあ、あんたアルコールなら何でも飲めるよな?」
「大体は。すげえ甘いのは嫌だけど」
「ああ、俺も」
 仙田の部屋で飲むのは初めてだ。といっても、外で飲んだことがあるわけではない。秋野に無理矢理連行されて一緒に飯を食ったことくらいはあるものの、四六時中わけの分からないことを喋っているやつとゆっくり飲む気になるわけもなかった。
 しかし、今こうしているのは仙田が言わば「普通になった」からではなかった。
 仕事のことで仙田と話した、と秋野から電話があったのはついさっきだ。
「ああ、そうかよ。切るぞ」
「まだ本題に入ってないんだが」
 二週間ぶりに聞く秋野の声は当然ながら二週間前と変わらない。本人に言うと調子に乗るから言わないが、相変わらずいい声だ。ただし、声の良さと人柄の良さは、まったくもって比例しないということは誰よりも哲の身に染みている。
「何だよ、一杯飲んで帰って寝るんだからさっさと言え」
 バイトを終えて店から出たところで電話が鳴った。秋野が登場したり電話をかけてきたりするのは、大抵監視されてるんじゃないかと疑うようなタイミングで、今回も同じだった。エリは毎度哲の身体のどこかにGPSが埋め込まれていると騒ぐのだが、最近は哲もその説に傾きつつある。それどころか、あの野郎のことだから、自前の監視衛星のひとつかふたつは持っているかもしれないとも思い始めたくらいだ。
「これから仙田のところに寄れるか?」
「ああ? 俺が? 何で」
「お前に用事があるらしいぞ。ついでに飲んでいけ」
「何でお前が俺に他人の部屋で他人と飲んでけって指図をすんだよ、俺の親でもねえ他人のくせに」
「俺が他人の何だって? 面倒な文句の垂れ方をするんじゃないよ、馬鹿だね。位置情報は送っておく」
「あのな」
 位置情報は送って、あたりでかぶせたのに通話はさっさと切れていて、結局断り損ね今に至るのだ。
 絵がどうとか言っていたのは聞かなかったことにして、渡されたグラスにビールを注ぐ。哲もそうだが、一人暮らしの野郎なんて大抵缶から直飲みだから珍しい。もちろん、哲の知り合いがそうだというだけで、仙田のほうが多数派だという可能性もある。
 冷凍食品だからと前置きして出てきたのは餃子で、上手に焼けてきちんと羽もついていた。
「おお、すげえ」
「あんた副業とはいえ料理人だろ、気を遣わなくても」
「俺が気を遣って褒めるタイプに見えるか?」
「──まあ、見えねえけど」
 仙田は微かに笑みを浮かべた。鬱陶しそうな前髪がなくなったから、顔全部がよく見える。アッシュブラウンに染めた短髪、ピアスは耳にも唇にもひとつもついていない。顔回りの変化はそれだけ。それでも、目の前の顔は見知らぬ誰かのものに思えた。
「食って。餃子しかねえけど」
「どうも。いただきます」
 仙田はビールを飲み、餃子を食った。その間無言なのは当たり前だ。しかし、相手が仙田だと思うと妙に静かに感じてしまう。
「──なあ」
「ん?」
 哲を見る切れ長の瞳は間違いなく見慣れた仙田のそれなのに、おかしなものだ。呼びかけておいて餃子を口に入れた哲を不思議がるふうもなく、仙田は餃子を飲み下してグラスを傾けた。
「うっかりあっちになっちまうことってねえの?」
「あっちって」
「前の、あの宇宙人みてえな」
「ああ……」
 そんなふうにはっきり訊かれることはあまりないのかもしれない。仙田は驚いた顔をした後苦笑して、それからおかしそうに声を上げて笑った。
 前髪が隠していたのは顔立ちの一部ではなくその内側だったのかもしれない。今は仙田をよく知らない哲にさえ、驚くほど簡単に表情が読める。もっとも、読まれていいものだけがそこに浮かんでいるのだろうが、以前の大袈裟な笑顔からは何ひとつ透けて見えるものがなかったのだから、大違いだ。
「いや、ねえかな──てか、宇宙人て」
「俺はずっとそう思ってた」
「そんなひどかった?」
「ひどかった。つーか何年もそうしてたら、そっちが癖にならねえの」
「いや、意外にするっといなくなったよ」
 餃子を取り皿に移して少しそのまま眺めた後、仙田は箸を持つ手を顔の前にやって動かした。
「でも、こう、前髪払うのは時々無意識に」
「あー、ラーメン食うときとか?」
「そうそう、ラーメンのときはつい。ロングからショートにした女の子みたいだよな」
「ふうん。でもそんなもんか」
「俺自身はすぐ馴染んだけど、周りは結構引いたみたいで」
 特に当時付き合っていた女が仙田の変化についていけなかったらしい。替え玉を疑われ、次には別れるための言い訳と疑われ、そうまでして別れたいのかと詰られて修羅場になったとか。
「まあ、ああいう俺を好きだと思ってくれたわけだしな……」
 哲にしてみればあの宇宙人のほうがいいなんてどうかしていると思うが、好みは人それぞれだ。
 餃子を箸でつまんだら、隣の餃子とべったりくっついていてうまく剥がせなかった。なるべく静かに引っ張ったものの、皮の一部が剥がれ、取り残されたほうにでかい穴が開いた。
「あの人は?」
「あの人?」
「ほら、ああ、ええ、何だ、か……葛木、さん?」
「いまだに名前怪しいわけ……?」
「思い出したじゃねえか」
 仙田は溜息を吐いて首を振り、穴の開いた餃子に目を向けたまま呟いた。
「葛木は真っ先に慣れたんだよな」
「へえ。何となく変化が苦手なタイプに見えるけどな」
「俺も。こうなる……っていうか、戻る前に、色々あったし」
 興味はなかったので催促はしなかった。仙田も分かっていたらしく口を噤んでいたが、結局少ししてからまた話し出した。
「俺はこれ、刺青入れたのすげえ後悔してるんだけど、葛木に言わせたらそのままでいいとかそうでないと俺じゃないとかそういう──何だろうなあれ、説教?」
「知らねえよ、聞いてねえし」
「だよな。まあだから、要は葛木からしてみれば今の俺は変わっちまった仙田なわけ」
「ああ」
「それが、ちょっとして……二、三日くらいしてから会ったときかな。俺の顔見るなり、最初はびっくりしたけどさあ、よくよく見てみたら、意外に同じ顔じゃん! つって」
「……」
 数秒堪え、哲は結局吹き出した。仙田の不満そうな顔がおかしかったからでもあるし、人となりはよく知らないものの、いかにも葛木が言いそうな内容だったからでもある。
「そんな笑うとこじゃねえと思うけど」
「いや──それは今まで顔を見てなかったのかとか色々……」
「それは俺も思いました!」
 以前を彷彿とさせる勢いで言いながらビールを呷り、仙田は哲を軽く睨んだ。
「笑いすぎだから」
「悪ぃ……」
「そういうわけでモデル頼むのは決定だからな」
 別の意味で吹き出しそうになり、哲は思わず咳き込んだ。