仕入屋錠前屋と開かずの小箱

 目が覚めたら目の前に哲の寝顔があった。
 半分覚醒、半分眠ったままの秋野の頭の中を、色々なことがゆるゆると流れていく。
 どうして哲がここにいるのだろうか。昨晩、秋野がベッドに入ったときには間違いなくいなかった。それに、今まで気づかなかったということは、少なくともいつものようにドアを蹴っ飛ばしたりしなかったらしい。
 秋野は気配に敏感で、眠っていても誰かが近づいて来れば大抵目が覚める。しかし、今まで気づかなかったということは、昨晩の哲は注意して気配を消していたのだ。他の人間ならともかく、哲なら秋野を起こさないこともできそうだった。
 身体を動かし、明かり取りの窓を見上げる。まだ完全に陽が昇ってはいない。秋野は頬杖をつき、改めて哲に目を向けた。不機嫌そうな寝顔は普段と変わらない。ただ、顔色が悪い。上掛けを捲ってみたら、デニムにパーカー、上着まで着ている。靴を履いていたらまさに行き倒れだ。
 口を閉じているからかもしれないが、酒臭くもない。深い眠りでもなさそうで、瞼の下で眼球が時折動く。秋野は首を捻りつつ、とりあえずそっとベッドから抜け出した。
 秋野がシャワーから出てきても、哲はこちらに背を向け横たわっていた。せめて上着くらい脱がせてやろうと仰向けになっていた哲を転がし、腕から上着を引っこ抜こうとしていたら、閉じていた瞼が突然開いた。
「おはよう」
「……」
「珍しいな、お前が静かに入ってきてしかもベッドに──哲?」
 哲はぼんやりした顔で数回瞬きした後、溜息を吐いた。
「体調でも悪いのか?」
「いや」
「二日酔いか?」
「飲んでねえ」
 声はしっかりしているが覇気がない。哲は秋野を横目でちらりと見て、そのまままた目を閉じた。

 

「哲がおかしい?」
「ある意味いつもおかしいが、そういう意味じゃなく」
「お前って哲を大事にしてるのかしてないのか、時々分かんないよな」
 電話の向こうで呆れた声を出した耀司は「だけど」と続けた。
「何だ」
「うーん、もしかしたら昨日頼んだ仕事のせいかもな……」
 秋野は銜えていた煙草の灰を払った。
 アスファルトに落ちた灰は風に吹かれてすぐに崩れ、どこにあったか分からなくなる。今日は風が強く、セットしていない前髪が目にかかって視界を塞いだ。
 秋野は背後の建物になんとなく目を向けた。中二階に続く外階段とドアが見えるだけ。それ以外で目に入るものは、素っ気ない壁だけだ。
「仕事って、解錠の?」
「そう。親父の知り合いの、ほら、ナカマチアンティークってあるじゃん」
「ああ」
「あそこの依頼で宝石箱の解錠頼んだんだよ。突然来た話で、バイトの後急遽行ってもらったんだけど──」
 耀司の話を最後まで聞き、地面に擦りつけて消した吸い殻を拾って立ち上がる。秋野は小さく息を吐いて、中二階への階段を上った。

 

「昨日、解錠の仕事だったって?」
「ああ」
 哲はベッドに身体を起こして座っていた。ただ、いつもに比べるとやはり元気がないというか、声に張りがない。そして、いつまでもベッドの上にいるのも哲にしては珍しかった。
「今、耀司と話してきた。そんなに複雑な錠前だったのか? アンティークなんだろ」
「複雑かって言われたらまあ……古いもんだから今の錠前より作りそのものは単純だな」
「開かなかったんだってな」
「──ああ」
 哲の声のトーンが一段下がる。
 哲は錠前を開けること自体に喜びを感じる質で、依頼人を喜ばせようと思ってこの仕事をしているわけではない。だから、依頼を完遂できなかったことを気に病んでいるとは思えなかった。
 耀司の話だと、件のアンティークは錠前つきの宝石箱。かなり古いものらしくて、元々錠前の金属がかなり傷んだ状態だった。そういうわけで頼んだほうもまったく期待していなかったらしい。試さないで壊してしまうのも何だからダメ元で──という話で、解錠できなかったことに落胆はなかったそうだ。
 依頼人も気にせず、哲が責任を感じているわけでもないとしたら、考えられるのは職人としてのプライドが傷ついたとか。
「開かないものはどうやったって開かないって前に言ってなかったか」
 秋野が外に出ている間に吸ったらしく、灰皿に吸い殻が一本捨ててあった。部屋の中にはまだうっすらと哲の煙草の匂いが漂っている。
「言ったかもな。それが何だよ」
「落ち込んでるのかと思って」
「ああ? 何で」
「いや、例えばこう、俺に開けらんねえ錠前があるわけがねえ! みたいなそういうアレかと」
「こうとかアレとか、年寄りかよ。それに何だそれ、俺の真似か」
 哲がようやく僅かに口元を緩めた。魂が抜けたような顔つきがいつものそれに近くなる。
 向かい合うようにベッドに腰を下ろす。哲は眉間に皺を寄せたが、退けろとか邪魔だとかは言わなかった。そこまで元気がないだけなのか、一応迷惑をかけたと思っているのか。顔を見ただけではよく分からない。
「んなわけねえだろ。そりゃ大抵は開けるけど、絶対なんてあるわけねえし」
「どういうものが開かないんだ。やっぱり今回みたいに古くなって壊れかけてるものとか」
「錆とかで中の仕組みが壊れちまってたら開かねえな」
「それはそうだろうな」
「あとは、今まで見たこともない構造になってるとか──まあ、錠前はパターンがあるからそんなことほとんどねえけど」
 哲は少し遠くを見るような目をして、ああ、と呟き語を継いだ。
「そういやじいちゃんに見せてもらったアンティークで、そういうのあったな。すげえ天才とかなんじゃねえの? 個人が趣味で作ったみたいなやつで、もう全然わけわかんねえって、じいちゃんもお手上げだった」
「今回もアンティークだろう。同じパターンだったのか」
 一瞬動きを止めた哲は秋野を見つめ、それから髪の中に手を突っ込んで乱暴に掻き回した。
「今回のはまあ、見たときから無理そうだなってのは分かったんだ」
「傷んでたから」
「ああ。見るからに腐食してたからな。ちょっと中探っただけで剥がれてた感触あったし。けど、だからどうとかじゃなくて、なんつーか……すげえ気持ち悪かった」
「……気持ち悪い?」
 突然出てきた言葉に思わず首を捻った。掻き回したせいで、哲の髪は変な方向に突っ立っている。
「聞こえんだよ、なんか──ほら、解錠してるときって……数字とか」
「ああ、前に聞いた」
 哲の顔色は相変わらず白っぽい。いつもの哲なのに、少しだけ違う。多分、目つきにいつもの鋭さがないからだ。
 金庫を開けるとき、哲には何かが聞こえる。とはいえ、何も金庫が喋るわけではないらしい。ダイヤル錠がついているなら、数字の奔流のようなものが流れ込む。金庫の記憶のような何か。うまく表現できないのだと言って、哲はいつも説明を途中で切り上げる。
 そんなふうに放り出すのはあまり哲らしくないけれど、だからこそ、本当に表現が難しいのだろうといつも思っていた。
「俺には全然分かんねえけど、なんか物質のなんたらとか、電気信号だとか、そういうヤツなんだろうと思うぜ。科学的に説明がつくやつ」
「オカルトめいたやつも面白そうだけどな。ほら、よくあるだろ。映画とかで」
「……使ってた人間が見える! とか?」
「そう」
「そんなの超能力じゃねえか。ありえねえよ」
 片頬を歪めて笑った哲はいきなり横倒しになり、秋野の膝を枕にして寝転がった。
「おい」
「どこの言葉であれ声が聞こえたり、人間が見えたりもしねえ」
「そうか」
「ただ──なんか、嫌だ、と思うことがあんだよ」
 哲は額に手を載せ目を瞑り、少し経ってゆっくり目を開け秋野を見た。
「敵意とか悪意とか、俺に向けられた何かがあるっていうんじゃねえ。あっちはこっちを認識してねえ。それでも、なんかぐちゃっとしてるっていうか……触りたくねえって思わされる」
「汚いものに触れたくないみたいな?」
 少し考えて答えると、哲は頷いた。
「そう、腐った食い物とか、汚れた服とかみてえな感じ。触ったからって害はねえけど、生理的に拒否反応が起きるっつーかな。今回の箱は、そういう、すげえ嫌な感じがして」
 哲の指が伸び、秋野の前髪の先に触れた。掴むのでつまむのでもなく、ただ、毛先に触れている。
「それでもよ、依頼人に言えねえだろ。ねちょっとしてて触んのヤです、とかって。意味分かんねえし、自分でも。だからまあ、精一杯やったけど。開けられたくなかったんだよ、あれは」
「金属が腐食してるかどうかは関係なくってことか」
「そう、物理的な問題じゃねえのよ。すっげえのが流れ込んできて、何だろうな、あれ。俺には分かんねえ。嫌だってこと以外」
 映画や小説なら、人間の残留思念だとか何だとか説明されるだろうか。悲劇的な死を遂げた薄幸の美女がドレスを血塗れにして出てくるシーンが目に浮かぶ。
「それで、何でここに?」
 身体を屈めて頬に唇を寄せたら横面を張られた上に唸られた。あまりにも哲らしくて思わず笑ってしまう。哲は歯を剥き、奥歯をガチガチ鳴らして見せた。
「お前の顎はトラバサミか」
「ちょうどいいな、クソ虎がいるから」
「それで?」
 あまり話したくなかったのだろう。哲は舌打ちしたが、小さく溜息を吐き、秋野の顔を押し退けた。
「当てられたんだよ。吐き気がすごかったし、眠ったら変な夢見そうな気がして──うなされんの得意だろ、お前」
「別に得意なわけじゃない。失礼な」
「もし悪い夢見ても、同じ部屋に俺以外にもうなされてうんうん言ってる奴がいると思うと気が楽じゃねえか」
「全然楽じゃない。意味が分からん」
「俺も」
 哲は半分身体を起こしながら、秋野を膝で押し退けた。
「結局全然眠れなかったから帰って寝る」
「何だよ、一体一晩中何してたんだ」
「下で煙草吸ったりとか」
「だったら部屋に帰ればよかったのに」
「あと、お前が牛みたいな鼾かいてるのが面白くてずっと見てた」
「嘘吐け。俺の顔に落書きしたりしてないだろうな」
「してねえよ。つーかさっきシャワー浴びてたろうが。落書きされてたら気づくよな」
「ああ、そうか」
「ボケたんじゃねえの? おら、退けって」
「お前、髪がすごいぞ。外に出るなら直せよ」
「ああ? ああ」
 欠伸をしながら適当に手櫛で髪を整えて、哲は勢いよく立ち上がった。
「そんじゃあな」
「ああ。添い寝してほしくなったら呼べよ」
「いらねえよ」
 鼻に皺を寄せて吐き捨てドアに向かった哲は、ドアのレバーに手をかけたところで立ち止まり、振り返った。
「鼾はかいてなかったけどよ」
「うん?」
「見てたのはマジ」
「面白かったか?」
「いや。見惚れてた」
「……」
「なんてな」
「つまらんよ」
 哲はげらげら笑いながらドアを開け、出て行った。

 

 翌日の夜、秋野の留守中に耀司が訪れ──合鍵を渡してある──綺麗にラッピングされた小さな箱を置いていった。大きさはティッシュペーパーの箱くらいだ。
 嫌な予感しかしないと思いながら包みを開けると、案の定、アンティークらしい木製の箱が入っていた。ただ、錠前は腐食していなかったから、腐った食い物に例えられた不吉な箱とは違うらしい。
「何だこれは」
 哲は珍しく一度鳴らしただけで電話に出た。
「何だって何だ」
「箱が届いた」
「一瞬びびったろ」
「あからさますぎて怖がれないよ、馬鹿だね」
「なんだよ、つまんねえ野郎だな」
 箱の表面に触れてみる。濃い色の木の表面は長年の使用で滑らかになっていた。たくさんの人間が触れたのか、それともたった一人が大切にしたのか分からない。錠前も、木の箱も、秋野には何も語らない。
 多分哲には何かを語るのだろう。例えそれが哲に向けたものではないとしても、哲には理解できなくても。
「どうしたらいいんだ、これは」
「開けに行くから置いといてくれ」
「いつ」
「今」
 突然通話が切れ、無音になる。秋野は溜息を吐いて箱をベッドの上に置いた。腐食してはいないが変色した金属の錠前に目を向ける。これが開くのか開かないのか、哲には見ただけで分かるのだろうか。
 階段を上がるスニーカーの足音がして、ドアが思い切り蹴飛ばされた。昨晩の静けさはどこへやら、普段どおりの錠前屋だ。
「壊れる」
「手に入れろよ、得意じゃねえか」
 ドアを開けたら哲は秋野を肩で押し退けながら入ってきた。ソファの上の包装紙とリボンを見てにやりと笑い、ベッドにゆっくり歩み寄る。
「なあ、哲」
「ああ?」
「もし俺が」
「てめえが何だ」
 箱に──その錠前に目を据えたまま、哲は低い声で返事をした。
「お前が触るのも嫌な錠前で施錠されたどこかに閉じ込められ──」
「開ける」
 秋野を遮り、低いがはっきり聞き取れる声で錠前屋は口にした。
「……絶対に」

 

| 本編完結後、仕入屋錠前屋 a sequel のどこかの時点の二人 |