ギフト 2

「何だそのツラ」
 秋野は傷んだものでも口に入れたような表情を浮かべ、哲を上から下まで眺めて溜息を吐いた。
「いや、なんというか──想像した」
「何をだ」
「素っ裸でおっかない顔して仁王立ちしてるお前が、スケッチブックを抱えた善良な人たちから一斉に目を逸らされてるところを」
「ああ? 何で素っ裸だ」
「モデルといえばヌードが思い浮かぶだろ。出来の悪い子供を持った親の気分だよ」
「てめえな」
 素早く蹴りを繰り出したが躱され、哲は思わず唸り声を上げた。

 
 仙田のところで餃子を食い、秋野へ渡してほしいと封筒を持たされ──俺はお使いにきた小学生じゃねえと断ったが無視された──渋々足を向けた秋野の部屋。舌打ちしながら中に入ると、背後で秋野が重たい扉を閉める音がした。
 普段なら中二階から出入りするのだが、今日は下が開いていた。ちょうど誰かを送り出したところだったらしい。哲とすれ違った人間はいなかったから、逆方向へ立ち去ったのだろう。
「仙田の用事っていうのはその話だったのか」
「そう。あとこれ、てめえに渡せってよ」
「ああ、どうも」
「ああ、どうも、じゃねえよ。要は俺に取りに行かせたんだろうが」
 秋野は片頬を歪めて笑い、哲が投げつけた封筒を受け取った。中身は書類の類らしい。案外重かった封筒をカウンターに放り、秋野は床に広がっていた布を取り上げた。床の上で商品でも広げていたのか、ラグマットとは程遠い薄っぺらな布だ。適当に畳んだそれを置いて代わりに封筒を取り上げた秋野は、階段に足を向けた。
「それで、ヌードモデルじゃなきゃ何だって?」
「だから、モデルイコール素っ裸から離れろっつーの、エロジジイ」
 後ろから階段を上りながら秋野の尻を蹴飛ばそうとしてみたものの、ひっくり返りそうになったから諦めて足を下ろす。秋野は気配を感じたのか肩越しに振り返り、哲の不満気な顔を見て笑った。
「正直に言うが、仙田が描きたいと思うほどの裸じゃないだろう」
「失礼極まりねえなてめえは、さっきから──手を描きてえんだとさ」
 秋野はソファに腰を下ろして封筒から書類を引っ張り出した。書類に目を落とし、数枚捲ってから哲に目を向けて片眉を上げる。
「手?」
「そう。なんか、解錠してるときの手を描きてえとかって、邪魔くせえな」
 隣に腰を下ろして秋野の脚を蹴っ飛ばす。無駄に長いから、ソファの半分よりこちら側にはみ出しているのだ。勿論ソファは──というか、この建物全体、そもそも地べたも──秋野のものだが、それはこの際どうでもいい。
「仕事んとき一緒に行きたいっつーんだけど、それはちょっとな」
 連れて行くこと自体は構わない。仙田に見られていても集中するから特に支障はないのだが、錠前を開けにきた人間がスケッチされているのを依頼人が見たら、一体何事かと思うだろう。
「だから、なんか適当なやつ手に入れて仙田んちに運んでくんねえ?」
「ああ、そういうことか。床が抜けない程度のやつを運んでおく」
「頼むわ」
「しかし、解錠してるときの手を描きたいって──何をしてたって手の形は変わらんと思うけどな」
「俺もそう思うけどよ……」
 書類を捲る秋野の長い指先をぼんやり眺めながら、哲は仙田との会話を思い出した。
 哲の手指の形はごく標準的だ。特別美しくもなければ醜くもないだろう。それならまだ秋野の長くて細い指の方が描き甲斐があるのではないかと思う。そう言ったら仙田は少し考えてから首を横に振った。
「いや、遠慮しとく」
「何で」
「うまく言えねえんだけど──あの人を描いても何も表現できない気がする。実物でないと」
 仙田は空になった餃子の皿を見つめてゆっくりと話した。まるで皿の上にたくさんの言葉がきれいに並んでいて、その中からどれをつまみ上げるか選ぶように。
「俺にとって人間的に謎なのは、あの人よりあんたのほう。俺はあんたが理解できねえけど、でも描ける。あんたの中の何かしらを写し取れる気がする。分かんないままね。だから仕事してるとこを描いてみたい」
 仙田は皿から哲に視線を向けた。
「でも、あの人はどの部分描いても駄目な気がする。ただの綺麗な何か、そういう感じになるんじゃねえかなって」
 正直言って、以前見た仙田の絵のすべてが、哲にとっては「ただの綺麗な何か」だった。しかし、哲には芸術のことなど何ひとつとして分からない。だから、仙田がそう言うならそうなのかもな、と思っただけだった。
「宇宙人じゃなくなったけどよ、あいつの言ってることは相変わらず全然分かんねえわ」
 秋野は微かに笑って頷いた。
「芸術家だからな」
「そういうこと」
 書類の上を滑る指先。
 どうせ描くなら形が綺麗なほうがいいだろうに。内面を絵にするなんて、哲にしてみれば信じられないことだ。多分、芸術家には実際にそういうことができるのだろうが、それにしても。
「俺なら俺の手なんか描きたくねえけど」
「それは自分のものだからだろ」
「自画像描く画家だっているじゃねえか」
「ああ、そうか──俺もそういうことは全然分からん。よく言うよな、何かを表現しようとして行動してるんだ、とか」
 秋野は最後のページを眺めて書類を封筒に戻すと、代わりに煙草のパッケージとライターを手に取った。石の擦れる音、揺らめく炎。赤く光った穂先はあっという間に灰に変わる。
「格好よく言えば、お前だって錠前を開けることで何かを表現してるかも」
「してねえ」
 哲がかぶせ気味に言うと、秋野は煙と一緒に息を吐き出しておかしそうに笑った。
「分かってるよ、そんなにおっかない顔で否定するな」
「てめえがなんか変なこと言うからだろうが」
「実際がどうであれ、適当に何とでも言えるってことを言いたかったんだよ。だけど、仙田は本当に描くことで何かを表現したいんじゃないのか」
「……」
「他人が皮膚の上に描いたものじゃ、足りなかったんだろう」
 銭湯で見たことがある仙田の姿を思い浮かべた。身体のパーツについてはほとんど記憶にないものの、印象的だったから刺青はある程度覚えている。勢いで入れちゃった、では済まない面積に刻まれた縺れ合う蔦模様。
 それが紙や皮膚の上に描かれたアナログなものであれ、デジタルであれ、哲にとっては変わらない。他人が何を表現しようとどうでもいい。仙田がどんなに素晴らしい才能を持っていようと、唯一無二の絵を描き上げようと、興味はなかった。
 秋野の指先から立ち上る煙が、まるで植物のように絡み合いながらどこかに流れていく。
 才能はギフト、天からの贈り物。仙田の絵を見てそう思う人間もいるだろう。仙田はどう思っているのだろうか。画才は賜物か、それとも呪いか。
「なあ、お前って刺青とかあんの?」
 口に出したら、秋野は絵のモデル云々をしたときの百倍くらい珍妙な表情で哲を見た。
「……」
「何だよ」
 秋野は哲の顔を凝視したまま煙草を吸い付け、ゆっくりと煙を吐き、眉間の皺を深くして呟いた。
「……お前、一体何回俺と寝たんだ……?」
 今度は哲の眉間に皺が寄った。そんなことを真顔で訊かれたって答えようがない。
「さあ? 数えてねえから知らねえよ。それが何だ」
「何だって……刺青の有無くらい分かるだろうに」
「お前な、てめえみたいなおっかなくてでっけえのに乗っかられて突っ込まれてる最中に、呑気に観察してると思ってんのかよ」
「突っ込まれてる最中に呑気に煙草吸ってるだろ」
 乗り出して秋野の煙草を掻っ攫う。他人の銘柄でも煙草は煙草だ。勢いよく吐き出した煙は、あっという間に散っていった。
「吸ってるけど呑気には吸ってねえ、失礼な」
「失礼なのか」
「知らねえよ」
「まったく」
 唇の端を歪め、秋野は哲から煙草を取り返した。
「刺青はない」
「ふうん」
「今から確認するか?」
「要らね……痛え!! マジで痛え、噛むなクソ虎!」
 いつの間にか煙草を灰皿に放り込んだ秋野に首根っこを掴んで引きずられ──いつものことで、事前に察知するには動きが速すぎる──変な体勢で押さえつけられて耳を齧られた。甘ったるい愛撫みたいなものではないから真面目に痛い。
「元気だな。ないなら何だ。気になるのか」
「あってもなくてもどうでもいいっつーの」
 秋野を押し退けどうにか身体を真っ直ぐにしたが、あっという間にまた引き倒された。覗き込んでくる薄茶の目の色は、影になったせいで普段より黒っぽく見える。
「どうでもいいのか──まあ、今まであるかないかも知らなかったくらいだしな」
「ああ」
「そんなに素早く肯定するんじゃないよ」
「今あるのは別にどうでもいい」
「今あるのは?」
「ああ」
 頷いたら、秋野は不思議そうに目を瞬いた。角度が変わったせいで瞳が一瞬金色に見え、また酒のような茶色に変わる。
「これから入れるのは?」
「駄目だ」
「駄目なのか」
「これから入れんのはなし」
「何で」
「俺のだから」
「何を言ってるんだ」
 秋野は笑って哲から手を離した。また引っ張られないうちに身体を起こし、自分の煙草を取り出して銜える。
 笑われてもおかしくはない。秋野が殴られようが、女に引っかかれようが、気にしたことなどないのだから当然だ。それなのに、今でも時折思い出す。包丁を振り回す男の姿と、頭蓋の中で鳴り響く何かに押し潰されそうになった数分間。秋野の皮膚と肉を裂いて血を流させたあの男を許せないと思った。
 女のきれいなネイルに持っていかれる微細な皮膚片と、流れた血──それから違う名前の戸籍──とでは一体何が違うのか、いくら考えても分からない。
 煙草を持っていないほうの手で秋野の手首を掴み、目の前に掌をかざしてみた。煙を透かして眺めるそれは、やっぱりどう見ても自分の手より整っている。
「なあ、嬉しくねえもらい物ってあるよな」
「もらい物?」
「プレゼントつーか、そういうやつ」
「ああ、あるな。それがどうした」
「どうもしねえ。なんとなく、そういうのをもらったらどうするもんかなと思って──まあ、どうでもいいわ」
 親指の付け根の膨らんだところに噛みついた。秋野は痛いよ、と抗議したものの、特別抵抗もしないでされるままになっていた。
「いらない物じゃなくて欲しい贈り物はあるのか?」
「す……」
「すげえ開け甲斐のある錠前と、殴り甲斐のある相手以外」
「……先に言うんじゃねえよ」
「それ以外言わないからだよ、馬鹿だね」
「てめえはあんのか」
「お前以外?」
「死ね、くそったれ」
 思いきり手の甲を齧ってやったら、軽く頭を叩かれた。勢いで穂先の灰が崩れたが、秋野が差し出した灰皿が受け止めた。まったく、そんなところもいちいちむかつく野郎だ。
「そうだな──絵が欲しい」
 灰皿に吸い殻を押し付けて消す。
「ああ? エ? エって何だ」
「だから絵画、紙に描いた絵だよ」
「ああ……」
「仙田の絵が欲しい。お前の手を描いた──ああ、まだ描いてないか、これから描くやつ」
「そんなもんどうすんだよ。飾ったりすんなよ、気色悪ぃ」
「飾ったりしない。だけどな、お前を写し取ったものを、俺が俺以外の誰かのところに置いておくと思うか? 哲」
 痩せた虎みたいな笑みを浮かべると、秋野は腕を伸ばしてサイドテーブルに灰皿を置いた。哲の吸い殻から微かに立ち上っていた煙が揺れ、消える。秋野の長い指がゆっくり哲のほうへ伸びてくる。
 ソファではなく、水底に沈められるように錯覚する。塞がれた口が空気を求めて喘ぐ度に、注ぎ込まれるのは別の何かだ。視界が揺れ、そこにあるものに爪を立てて引き寄せた。一瞬、それが何か分からず困惑し、馴染んだ手触りと体温で理解した。薄茶、金色。黒。秋野。
 哲の指──錠前屋としての能力。
 それから、綺麗な指のろくでもない男。
 望んで手に入れてはいないもの。でも、いらなくはない。
 身体の中に詰め込まれた異物に憤慨すると同時に安堵する。こうして内側に仕舞いこんでしまえばいい。そうしていれば、その間は、失くしたときのことを考えずに済むだろう。
 最後のひとかけら、なまえのひとかけら、骨のひとかけら。与えられたギフトの、何もかもを。