untitled – TBD 38

 その客を見るのは久し振りだった。
 名前は知っている。普段から連絡を取っているわけではないけれど、なんとなくラインを交換したからだ。
 だけど──だから、というべきか──サクラさん、というその名前が苗字なのか下の名前なのかは知らない。
 多分、桜井とか桜庭とか、そういう苗字なのだろうけど。
 コンビニのバイトは時間帯によっては暇すぎて倒れそうになることがある。朝や昼飯時なんかは目が回るほど忙しかったりするが、深夜なんか、世界にこのコンビニだけが取り残されて、俺が生きてる人間の最後の一人、みたいなよくある設定に嵌りこんでたりして、と妄想したりする。
 そんな暇な深夜に、サクラさんはぶらりとコンビニに入って来た。
「こんばんはー」
 へらっと笑った顔は普段通りの、明るくて感じがいいお兄さんという感じだ。俺は大学の二年で、サクラさんとは十歳くらい違うようだが、彼はとてもそうは見えないくらい若々しい。もしかすると三十代の外見に関して、俺が無知なだけかもしれないが。
「ちょっとお久しぶりですね」
「うん」
 サクラさんは俺の前を通り過ぎて、奥の飲料のコーナーに歩いて行く。相変わらず細い背中を見送り、今日は煙草を買うのかな、と思いながら、彼の銘柄の場所を確認した。
 俺自身は喫煙しない──臭いがつくから彼女も嫌がるし、俺も積極的に吸いたいとは思わない──から、煙草の銘柄はよく分からない。それでも、サクラさんと、彼の友達だという人が何を吸うかはちゃんと覚えた。
「煙草、買います?」
 カウンターにペットボトルのほうじ茶と温泉たまごを持ってきたサクラさんに訊ねたら、サクラさんは子供みたいに「うん」と言ってこくりとした。
 俺は個人的なことは何も知らないけれど、この人には妙に庇護欲をくすぐるところがあって、ものすごく甘やかしたくなるときがある。年上だけど、弟か親戚の子か、そうでなければ急に懐いてきた近所の猫か犬みたいな可愛さというか。
 今が正にそんな感じで、何だか放っておけない気持ちになった。
「ひとつ?」
「ふたつ」
「吸い過ぎはよくないですよ」
「うるせえ」
 笑いながら乱暴な口調で言って、サクラさんはビジネスバッグをカウンターに置き、財布を取り出そうと下を向いた。
 笑っていたけど、いつもと様子が違うのは付き合いの浅い俺でも分かった。
 動揺しているか、すごく落ち込んでいるような顔。
 まるで泣いた後みたいに目が赤く見えるけど、蛍光灯は何でも赤みがかって見えるから、そのせいかもしれなかった。
 でも、サクラさんは大人の男だし、俺なんかには分からない仕事の悩みなんかも多いのだろう。それに、すごくいい人に見えるけど、コンビニの外で会ったことがないから本当のところは俺にだって分からない。もしかしたら、私生活でトラブルがあるのかもしれない。
「今日は、お友達のところですか?」
「ん? ああ、違うよ」
 財布を拡げながら、サクラさんは顔を俯けたまま「今日は」と言った。
「会社の先輩と飲んできた帰り」
「随分盛り上がったんですね」
 時間が遅かったのでそう言うと、サクラさんは苦笑した。
「それがさ、あんまり。あっちも楽しくなかったんじゃねえかなあ」
 受け取った札をレジの上に置き、釣銭を取り出す。
「それで、何かそのまま帰んのもなと思って一人で飲み直してたらこんな時間になって」
「そうなんですか。じゃあ何でここに?」
 サクラさんの家は駅を挟んで反対側だ。
 場所は知らないが、前にそうやって言っていた。だから、友達のところに泊まりに来るときにしかここには寄らないと。
 素朴な疑問のつもりだったが、サクラさんは誰かにぶたれてびっくりしたみたいな顔をして、すぐに取り繕って普段どおりの顔になった。
「ああ……何か歩きたいだけ。酔い覚ましっつーのか。今日天気いいし、星見えたりしねえかな」
 でも今日はすごく冷えてて、歩くのは辛いですよね、とは言わなかった。というか、言えなかった。
「じゃあ、またねー」
「おやすみなさい。ありがとうございました」
 サクラさんはちょっと笑って出て行った。まるで暗がりに吸い込まれるみたいに、自動ドアを通り抜けて、違う世界へ。
 サクラさんとは対照的に週に何度も見かける彼の友達のほうを思い出す。
 背が高くて、格好いいけど雰囲気が少しだけ怖い人。と言っても店員に対する態度はごく普通で怖くはないが、親しく話したこともないし、名前も知らない。
 数日前の夜中にやってきて、水とお茶と煙草を買って帰った。
 真っ青な顔だったから倒れるんじゃないかと心配だったが、足取りはしっかりしていた。
 サラリーマンって色々あって大変なんだろうな、就職どうしよう、とか思いながらスマホを取り出す。勤務中だが、どうせお客さんは一人もいない。
 サクラさんに「気を付けて帰ってくださいね!」と送ったら、すぐに既読になって「了解」とだけ返信が来た。
 理由なんかないけれど、なぜかものすごく寂しくなって、俺は鼻歌を歌いながら、モップでもかけようと動き出した。