untitled – TBD 37

 その顔を見た瞬間、一ノ瀬は、ああ玉砕コースだ、とすぐに思った。
 但し「その顔」とは、付き合ってくれと言った後の驚いた顔ではない。

 

「今日は酔ってないよ。さっき桜澤くんのお墨付きももらったし」
「──そうっすね」
 暫く沈黙した後、桜澤はムール貝の酒蒸しを指で押さえ、貝殻の間に箸を突っ込んで中身を引っ張り出した。
 好きだから付き合ってくれなんて、同性に言われて驚かないはずはないと思ったが、桜澤は意外に冷静で、取り乱すことも一ノ瀬を詰ることもなかった。
 真剣な顔で、黙々と貝から身を取り出す。四つ目をやっつけたところで、よく考えたら中々グロテスクな食い方ですよねえ、とか言いながら、剥き身を次々と口に放り込んだ。
「グロテスクかな」
「あ──、ああ、いえ、そういう婉曲表現じゃないっす。いやほんとに、全然」
 桜澤は首を振りながら黒い貝殻を皿に置く。真っ白な皿の上の黒い貝は、中身を抜かれてなんだか寂し気に見えた。
「質問してもいいですか? 一ノ瀬さん」
「どうぞ、勿論。答えられることなら何でも訊いて」
「訊く前に分かんないっすよね、それ」
 屈託なく笑った桜澤は、また貝をひとつ皿に取り、しかし箸はつけずに一ノ瀬を見た。
「何で俺なんでしょう」
「……」
「あ、明文化された理由が必要で、理論的に説明してもらわないと納得できないとか、そういう意味じゃないんですけど」
「うん、それは要求されても難しいよね、感情だから」
「一ノ瀬さんが、元々男も恋愛対象だっていうなら、なんていうか抵抗ないんですよね。付き合うかどうかって話じゃなくてですよ。好き、って言われて腹に落ちるかって話で」
 貝殻の間に捻じ込んだ箸を押し広げ、桜澤は手元に視線を落として瞬きした。
「うん。言ってることは分かるよ」
「でも違いますよね? 一ノ瀬さん、男が好きな人じゃないでしょう」
 一ノ瀬は煙草を銜えて火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
 平日の日中は吸わないことが多いから止めてしまおうかなとも思うのだが、きっかけがない。
「あのね、桜澤くんって見た目と違うよね」
「そうですか?」
「うん。なんていうか、細くて今時の子って感じで、男っぽくない。あ、女っぽいってことじゃないよ」
「はい」
「明るくて人懐こくて──ってあげればきりないけど、要するに、それも桜澤くんの一面で、別に装ってないのは分かるんだよ。でも、なんか、一枚はぐった下にもっと硬くて、冷たい部分がある気がして」
 桜澤の顔を見て、慌てて付け足す。
「いや、なんか一般人の間に紛れ込んでる殺人鬼みたいに言っちゃったけど、ごめんね! そういう意味じゃないから! 冷たいって、冷酷ってことじゃないから!」
 はは、と笑った桜澤の手元の箸の先は、まだ貝の中に突っ込まれたままだ。
「いつもの桜澤くんも好きだよ。けど、そういうとこも好きだと思って」
 桜澤はありがとうございます、と言って笑った。
「こういうのって難しいね。プレゼンなら得意なんだけど」
「そうでしょうね──」
「あ、でも土屋の方がうまいよね」
 他意はなかった。ただ、常日頃からそう思っているから言っただけだ。
 その時の桜澤の顔。それを目にした瞬間に、ああ、と思った。
 ああ、これは俺、玉砕だなあとぼんやり考える。
 もしも桜澤が土屋のことを好きだというなら、多分即座に振られているだろう。分かりやすく、他に好きな人がいる、と。だから、多分そういうことではない。そういうことではないけれど、でも、多分自分はそこには食い込めない。
 煙草を灰皿に押し付け、眼鏡をはずし、蔓の部分を持ってぶらぶらさせた。上の空な様子で揺れる眼鏡に目を遣りながら、桜澤はぼそりと呟いた。
「好きとか特別って、なんでこんな……簡単にいかないんすかね」
 特別、なんて言ってないよ。俺は好きって言っただけ。
 好きと特別はどう違うの? 君は、どっちが心に刺さったの?
 冷たい顔で貝をこじ開けその中を覗き込む桜澤に、一ノ瀬も訊ねてみたかった。
「桜澤くん」
「……はい?」
「俺、女の子とは経験豊富なほうだと思うし」
「はい?」
「引き際には気を付けようっていつも思ってるんだよね。勝ち目のないことには手を出さない主義で」
「……」
「自分から言っといて何だけど、答え、分かっちゃったからもういいよ」
 桜澤は一ノ瀬に目を向けないまま、暫くそのまま黙っていた。それから、静かな低い声で囁くように口にした。
「──してもいいっすよ」
 何を、とは訊ねなかったし桜澤も言わなかった。
 桜澤は突然箸を置き、貝殻を手づかみして無理矢理こじ開けた。魚か何かのぱっくり開けた口のように開ききった黒くて硬い二枚の貝。
「……俺にしてみたらラッキーだけど、でも、やめとこうか」
 手を伸ばして、無惨にも引きちぎられたムール貝の身を指で摘んで口に入れた。当たり前だが、それはしょっぱくて、ほどよく酒と磯の香りがして美味かった。
「あのね、言っとくけど、俺そんないい人じゃないよ」
 桜澤の強張った頬が微かに引き攣り、何か言おうと口を開きかけて結局黙る。
「ここぞとばかりにつけ込みたいし、それもいいかなって思う。そうやって、絆されて俺の方向いてくれればいいなって期待もあるし。けど、この流れで──桜澤くんのその感じだと、結局最後に損するのは俺だよね」
「……すみません」
「そんで、一番損するのは他の誰でもない桜澤くんだよね?」
 手に入るなら傷つけてみるのもいいけれど。そうして滅茶苦茶に甘やかしてやってもいいけれど。
 どう頑張ったって見込みがないなら、手を出す前に引くのが見栄っ張りな大人ってものではないか。衝動に負けて、力尽くでこじ開けてしまう前に。
「飯もの食おうかな、俺。お茶漬けとか。桜澤くん、何か頼む?」
 桜澤は一瞬泣きそうに顔を歪めて、テーブルに頭突きするんじゃないかというくらいの勢いで頭を下げた。
 おいおい、男らしいなあ、と笑いながら、一ノ瀬はゆっくり眼鏡をかけ直した。