untitled – TBD 39

 ゲリラ豪雨というやつだった。
 梅雨でもないこの時季に一体何でそんなすごい雨が降るのか、自然というのは偉大だが不可解だ。
 あと少しで染みてくるんじゃないかと危機感を覚えるくらい濡れそぼった折り畳み傘の縁が水分で下がっている。風がないのが幸いだが、それでもアスファルトに跳ね返った雨のせいで、桜澤のスーツは膝までびっしょり濡れていた。
「下ろしたてだっつーのに台無しだな、まったく」
 独りごち、絞れそうに水分を含んだ傘を適当に畳みながら階段を昇る。手元に気を取られていたから、部屋のドアに凭れて立つ人物に直前まで気づかなかった。
「……雨降ってんのか」
 土屋は布地の色が変わるくらい濡れた肩や膝下を見て、そう呟いた。土屋はどこも濡れていないから、雨に当たらなかったらしい。
「──ああ、急に」
 せっかくの金曜も台無しだな、と言いかけて、嫌味に聞こえるかもしれないと思って口に出すのを止めた。
 江田と飲んだ後土屋の部屋に寄って、結局噛み合わなかった話を切り上げて自宅に戻り、それきりまともに話していなかった。
 会社の中ですれ違えば挨拶はするし、喫煙所で顔を合わせればごく普通に会話する。それでも、飲みに行くことも二人きりでくだらない話をすることもない二週間は、どちらかが出張だったりするのでなければ、結構稀なことだと言ってよかった。
「なあ、サクラ」
 圭史、とは呼ばれなかった。それが当たり前のことなのに、呼び方ひとつに過敏になっている自分が滑稽だと思う。
「何だよ」
「ミツコって誰だ」
「あ?」
「だから、ミツコ」
 土屋は大真面目だが、何故今そんなことを訊くのだろう。意味は分からなかったが、答えたくない話でもない。
「俺の知ってるミツコは、ちょっと前に死んだばあちゃんちの猫だけど。子猫んときからすげえ俺に懐いてて、死んだときはもうこの世の終わりかと思ったけど……って、え? 何でお前がそんなこと知ってんだ? 俺言ったっけ?」
 物凄く長く重い溜息を吐いた土屋は、暫し躊躇ってから口を開いた。
「お前の好きな女かと」
「はぁ? いや愛してたけどミツコのことは。けど女じゃなくて雌だし」
 桜澤はビジネスバッグを探って鍵を取り出し、土屋の前に立った。
「退けよ。開けらんねえだろ」
「ああ」
「土屋」
「入ってもいいなら」
「嫌だ」
 濡れた肩を掴まれた。見上げた土屋の顔は会社で見るそれと変わらなかった。いつもと同じ、何もかも面倒くさそうで、不機嫌そうで、おっかない。その顔を見上げながら、桜澤は口を開いた。
「お前とやりたい。でもしねえって決めたから、だから嫌だ」
 土屋の本気で驚いた顔を見ることはあまりないから、こんな状況なのにおかしくなって思わず吹き出す。桜澤の肩を掴んでいた手はそのままに、土屋は少し経ってから口を開いた。
「意味がわかんねえ。やりたくねえのかと……」
「そうは言ってねえよ──半分しか聞いてねえなあ、お前、相変わらず」
 土屋の手首を掴んで肩から外しながら続ける。
「まあでも、それがお前だからそれでいいけど」
 濡れた傘が床に落ちてべしゃりと気の抜けた音を立てた。ドアを背にしたままの土屋の腕に抱え込まれ、後頭部を掌で押さえられて身動きできない。乾燥したウールの匂いと、濡れたウールの匂いが同時に鼻をつく。そこにそれがあったから、土屋のスーツの裾を握って身体を支えた。
 味気ない蛍光灯で白っぽく照らされたマンションの廊下。
 誰が通るか知れないという心配よりも、しないって言ったろうが、という憤りのほうが上回って頭にかっと血が上った。
 右手のビジネスバッグを振り上げて土屋の体側に叩きつける。桜澤の舌に絡む土屋のそれがひくりとしたが、痛かったのか笑ったのか、どちらにしても一瞬のことだった。しつこくバッグで叩き続けたら、ようやく土屋の手が離れた。
「何遍も言ってるけど、俺は面倒くせえのは嫌いだし、恋愛は面倒くせえし、」
 土屋はドアに凭せ掛けたままだった背を起こした。真っ直ぐ立った土屋の顔に当たる光の角度が変わって、少しだけ目元の影が濃くなった。
「お前と付き合いたいとか思ってるわけじゃねえ。だけど、お前は誰とも違って俺にとっては特別だから」
 土屋が手を伸ばし、桜澤が握り締めたままだった部屋の鍵を引き抜いた。
「理由なんかどうでもいいから、俺が一番近くにいたい」
 好きだから付き合って。そう言った先輩の真面目な顔が目に浮かんだ。それから、寝てもいいと言った後の、彼の台詞を。
 おかしな格好の、おかしなひとだと思っていた。だけど、蓋を開けてみたら結局彼が一番真っ当だった。好きではないが近くにいたいと言うこの男より──自分より。
「──桜田門」
「何だって?」
 間抜けな声を出した桜澤を無視して、土屋は鍵穴に鍵を差し込んだ。シリンダーが回る音が狭い廊下にやたらと響く。
「何だよ桜田門って」
「お前、俺に名乗ったときに言ったろ。ケイシが階級の警視に聞こえて偉そうって」
「ああ──」
「あの時思ったんだよな。サクラザワだけに桜田門、って。言わなかったけど」
「……何で言わなかったんだよ」
 ドアを開ける土屋の背中を見ながら呟いた。土屋は肩越しに桜澤を数秒見つめ、唇を曲げて低く笑った。
「さあな。覚えてねえし──覚えてたとしても、何もかもきちんと説明なんかできねえよ」
 まるで自分の部屋のように勝手にドアを潜っていく土屋の背中を眺めていたらドアが閉まった。閉まったドアはすぐに開き、土屋が熱っぽい目で桜澤を見つめて言った。
「何してんだ、早く入れ」