untitled – TBD 33

「もうお前とはキスしねえ」
 噛み癖発動までは至らない、半分酔っ払いかけたくらいの中途半端な状態で部屋に押しかけて来た桜澤は、何故か床に正座して、据わった目でこちらを見上げながらそう言った。
「……何でだ?」
 煙草を銜えて火を点け、口に出すまで約三十秒。
 土屋が「で」くらいまでしか言っていないのに、酔って忍耐力を失くしたのか、桜澤は「答えるまでが長え!」と喚いて自分の正座した腿をぴしゃりと叩いた。
「どうでもいいけどしねえったらしねえの!」
「キス以外はいいのか」
「そんなわけねえだろ、全部だ、ぜんぶ!」
「そんなんじゃはいそうですかとは言えねえな」
「つーかお前がどう思おうと関係ねえし──」
「関係なくねえだろ、一人でキスとかその先ができるわけじゃねえんだし」
 意外な切り返しだったと見え、桜澤は数秒固まって土屋の顔を凝視した。
「そりゃそうだけど──」
「……サクラ、ここ来る前誰と飲んでたんだ?」
「ああ? 江田だけど」
「ふうん」
「……何だよ、俺が誰と飲もうがそれもお前に関係ねえし」
 桜澤は正座を崩して胡座を掻き、猫背になって自分の後頭部をわしゃわしゃと掻き回した。
「俺の勝手だし」
「誰と飲むかは確かにお前の勝手だけど、さっきと同じでそれも関係なくはねえ」
 煙を吐き出す土屋の顔を見上げて桜澤は僅かに首を傾けた。髪はまるで事後の寝乱れみたいになっていて、酔った目元は険しいが、潤んでいる。ほんのり血色が浮いた目元と首筋がやけに艶めかしく見えた。
 そんな姿で、本意でないとは言え一度ならず抱かれた相手のところにやって来て、もう寝ないとか言われても。だが、桜澤はそういう駆け引きをするような性格ではないから、自覚はまったくないのだろう。
「──この間も言ったけど、お前のやりてえってのはお前の都合だろ」
 桜澤は顔を俯けたまま煙草を取り出し、呟くように言う。
「それは誰だってそうじゃねえのか。誰かとやりてえって思うのは自分の欲だろ。相手のじゃねえ」
 桜澤が何を言いたいのか土屋にはよく分からなかった。そういえば前にもセックスに理由がいるとか何とか言うから、素直に答えたら怒っていた。
 桜澤にとっては──勿論土屋にとってもだが──同性と身体を繋げることは当たり前のことではないのだから、それが気になるというなら勿論理解できる。だが、桜澤がそこを衝いてきたことは実は一度もなかった。
「だってお前さあ……何でも面倒くせえじゃん」
「それが何だ」
「奈緒美ちゃんとだって、嫌いじゃないけど面倒だから別れたって言ったよな?」
 奈緒美のところから戻って初めて桜澤と寝た日のことだ。桜澤は暫くパニック状態だったものの、土屋をぶん殴ってベッドから落としてからは落ち着いて、奈緒美のことも色々訊いてきたから問われるままに話していた。
「なのになんで俺とは寝てえんだ。種類は違うけど面倒くせえのは一緒だろ。ほんっとに意味わかんねえ」
「俺が面倒くせえのは恋愛ってやつだ。駆け引きとか、自分のこと分かって欲しいとか、相手に自分の思うように行動して欲しいとか──諸々引っ括めて全部だ。お前相手にそういうの必要か?」
「いらねえけど、それはだってお前」
「だからお前は面倒くさくねえ」
「……あのな。それ、おかしいだろ。江田も相原も面倒くさくねえだろ、その理屈だと。あいつらでもいいってことになっちまうだろ、それじゃ」
 土屋は暫し口を噤んだ。その通りだったわけではなく、何と言えばいいか考えていたからだ。通じたのか、それとも単に眠くなったのか知らないが、桜澤も何も言わずに黙っていた。
「サクラ」
「あ?」
 顔を上げた桜澤の唇に、火を点けないままの煙草がぶら下がっているのをぼんやり眺めた。
「初対面からずっと、お前だけ特別だった」
 桜澤の口から煙草がぽろりと落ち、桜澤は無言でそれを摘み上げた。
「やりてえとか思うようになったのは、それは本当に最近だけど」
 土屋は桜澤に歩み寄り、目の前にしゃがんで身体を屈めた。桜澤は土屋を見上げ、瞬きした。
「……圭史」
 初めて下の名前を呼んだ。桜澤は何とも言えない気の抜けた顔で固まっている。すげえ間抜けなツラだと指摘したら、多分またものすごく怒るだろう。
 土屋は半開きの唇に右手の親指を這わせ、左手で桜澤のうなじを引き寄せた。
「キスしてえ」
 桜澤の唇から微かな吐息が漏れ、土屋の指の先に触れた。