untitled – TBD 34

 今を遡ること八年と少し前。
 内定者ガイダンスとかいうものが開催されたとき、土屋は珍しく風邪をこじらせて寝込んでいた。
 人事の担当者に連絡すると、他にも欠席者はいるし、高熱をおしてまで出席しなくても大丈夫だということだった。それより熱は大丈夫か、食べているのか、病院へ連れて行こうかと親身になって心配され──内定辞退を回避したいがための心配だったのかもしれないが──却って恐縮して電話を切った覚えがある。
 大学の友人でたまたま同じ会社の内定を取った江田にはお前でも恐縮することなんてあるのかと本気で驚かれたが、それはさておき。
 とにかくそんな事情で、土屋が同期と顔を合わせたのは入社式が初めてだった。
 集合場所の本社会議室に入った途端、話し声がぴたりと止む。別に珍しいことでもないから土屋はろくに周囲も見ないで空いている椅子に腰かけた。
 身長と、威圧的な雰囲気のせいだとよく言われる。江田曰く、顔面偏差値が高いだけに仏頂面に迫力があるのだそうだ。だが、だからと言っていつまで経っても集団に溶け込めなかったということもないし、どうせ最初だけだから、気にしてはいなかった。
「なあなあ」
 目の前に人が立ったので目を上げると、痩せた男が立っていた。まだ似合わないリクルートスーツも、野暮ったいネクタイも自分と同じ。同期の一人だ。身長は人並みだが、首も身体も細くて顔も小さい。少女漫画に出てきそうな細っこい奴だった。奴は前置きも名乗りもなく突然言った。
「二メートルくらいあるよな?」
「ねえよ」
「うっそだあ」
 何で嘘を吐かなきゃいけないんだ、と思ったが、面倒なので口には出さない。
「ねえよ」
「マジで? 立ってみて、な」
「何で」
「何でも」
 抵抗するのも面倒で立ち上がった。土屋の身長は百八十八センチある。目の前の同期は見たところ百七十前半。二十センチも三十センチも違うわけではないのに、そいつはでけえなあ、いいなあと大口開けて土屋を見上げて間抜けな笑顔を披露した。
「……お前、名前何て言うんだ」
 そいつに興味があったわけではまったくなかった。ただ、まるで物のように立っているのに飽きただけで、どうせ何か話すなら、いずれは訊ねることを訊ねようと思っただけだった。
「サクラザワケイシ」
「ふうん」
「音だけ聞いたら偉そうだろ」
「──何でだ」
「えっ、分かるだろ? 分かんねえ? ほらー、警察の警視みたいじゃん。警部補、警部、警視、警視正」
「ああ──」
 考えもしなかった。というより、下の名前は聞き流していた。桜澤は能天気に笑って、「まあ、多分みんなサクラって呼ぶと思うけどな」と続けた。
「そうなのか」
「サクラザワってちょっと言い難いからだと思うけど、中学高校大学ずっとそうだったし。俺は別に名前で呼ばれてもいいんだけどなー。てか覚えたか?」
「ああ?」
「だからあ、俺の名前」
「サクラザワ」
「……お前、土屋さあ」
 名乗った覚えはなかったが、内定者ガイダンスを欠席したから逆に名前だけが知れているのだろう、と気が付いた。もう一人の欠席者は確か女子だと人事の担当者が言っていた。
「多分だけど、何でも半分しか聞いてねえだろ」
 桜澤は真顔だったが、そこには嫌味も、揶揄も何もなかった。ただ、さっきまでの笑顔とはまるで印象が違ったから、面食らった土屋は何も言えなかった。
「まあ、半分だけでも覚えたならいいよ。俺、お前みたいに正直な奴、好き」
 桜澤は最後に土屋の肩のあたりに軽く拳をぶつけ、今度みんなで飲みに行こうぜー、と行って離れて行った。誰とでもすぐに打ち解けるタイプなのだろう。所謂お調子者タイプとも違う気がするが、人懐こい印象だった。
 愛想がいい質ではないが、土屋も案外友人は多い。特に親しい奴も何人かはいる。それでも、何でも半分しか聞いていないなんて言った奴はいなかった。
 土屋の他人への興味の薄さを、そこまで端的に言い表した奴は。
 それでもいいと言った。サクラザワの前では、半分だけの自分でもいいのだろうか。どんな奴かも知らない。馬が合うかどうかも、分からない。それでも、例え好きにはなれなかったとしても、サクラザワの前では楽になれそうな気がした。
 多分、呼ぶことはないだろう。それでも、覚えたことには変わりはなかった。半分だけで事足りる。それでも。
 人事の社員が数名会議室に入ってきて、ざわめきがぴたりと止む。入社式のアジェンダ、その後の流れ、明日からの動き。流れてくる情報を半分だけ聞きながら、土屋は、サクラザワの名前の残り半分を胸の内で一度だけ呟いた。