untitled – TBD 31

「久しぶりだね」
 駅前の雑踏の中でもすぐに分かった。
 半年分髪が伸びた。目立って変わっているところはそれだけだが、きれいになった。女ってすごい、なんて思いながら、桜澤はうん、と頷き、それから「久しぶり」と付け足した。五年近く付き合って別れた女の横に立つ「彼」に会釈し真正面から顔を見た途端に理解した──正確には思い出した。
 どうして土屋とキスしてみたいと思ったか。

「好きな人ができちゃったから、別れたいんだけど、どうかな」
 今日はパスタが食べたいんだけど、どうかな、みたいな口調で由希は言って、呆気に取られる桜澤の顔を見上げ、首を傾げた。
「──飯食った?」
 動揺のあまり何故か飯のことを口にしたが、由希は当たり前のように「まだ」と答えて部屋に上がった。
「ランチ行ってもいいけど、先に話しちゃおうと思って」
「あー、ああ……昼にはちょっと早いしな、時間」
 どうでもいいことをもそもそ呟き、桜澤は腰を下ろして煙草を銜えた。小さなローテーブルの向かいに由希も座る。正座だ。否応なく本気度が窺え、更に動揺した桜澤は煙草に火を点けるのを忘れたまま吸いつけた。
「ええと、で──何で?」
「他に、もっと好きな人ができちゃった。本当にごめんなさい」
 由希はきちんと背筋を伸ばしてはっきり言うと、頭を下げた。
「一応訊くけど、マジだよな?」
「うん」
「……それって、二股っつーか」
「ううん、違うよ。その人には好きとか言ってないし」
「そ、か」
 ちょっと掠れた声が出たのは、どこかで安心したからだ。この女はまだ俺のものだ、そう思ったからだ。例えこの先三秒後にそれが終わるとしても、もう別の男のものなのだと後で知らされるのとは全然違う。
「一応聞くけど……俺の知ってるやつ?」
「ううん。仕事の関係。私が担当してるクライアントのパッケージデザインしてるイラストレーターさん」
 由希は広告代理店の営業をやっている。桜澤も知っているメーカーの商品名を上げた由希のいつもと変わらない顔を見ながら、その商品のラベルを思い出した。
 知らないやつならいいということはないが、知ってるやつよりはマシだと思いながら、火が点いていないままだった煙草を、灰皿の中に放り投げた。
「今更だろうけど──俺、なんか悪いとこあったかな。いや、そりゃあったと思うけどさ、そうじゃなくて決定的なやつ」
「ううん」
 由希は首を振って、桜澤の目を真っ直ぐ見つめた。
「なかったよ、何にも」
「じゃあ、ただそいつのほうがよかっただけ?」
「悪いとこ何もなかったから、かもしれないね。悪いのは私だよ」
 よくわからなかったが、何かすごいヘマをやらかしたわけではないというのは確からしい。そうか、と言って少し笑うと、由希はようやく足を崩した。表情が緩み、ああ、由希も緊張していたのだとやっと分かって、突っ張った身体が少しほぐれた。
「その人は、才能はあるけど人付き合いも下手だし、性格もちょっと、物言いとかもね。でもなんか、そういう困ったところが──見ててあげたいなって思えて」
「それはアレか、よく言う、あなたは私なしでも一人でやっていけるでしょってヤツか」
 おどけて言ったら、由希は「そういうのとは違うよ」と言って、困ったように笑った。いつもみたいに、片方にだけ浅いえくぼを作って。
「うまく説明できないけど、そうじゃないよ……一人で大丈夫なんて、そんなこと思ってない」
 四年半だかそのくらい付き合った。同棲話はタイミングの問題で出たり消えたり、でもそれはお互いいずれでいいと思っていたからだ。性格も、身体も相性はよかったはずだ。
 確かに、ある意味惰性になっていた付き合いではあった。いきなり別れ話を切り出されて怒鳴り合いにもならないならそうなる運命だったのか、なんて、自分を納得させるためだけに、胸の内だけで嘯いてみる。
「彼の写真とかあんの?」
「──何で?」
「いや、何となく。野次馬根性? 俺はどんな奴に負けたのかなあって」
 笑いながら言うと、由希はちょっと躊躇ってからスマホを取り出し、写真を表示してこちらに渡して寄越した。飲み会の席なのだろう、大勢がテーブルを囲んでいる。由希とは対角線上で、多分会話すらできない位置にそいつはいた。
 写真の男は、ただの偶然だが同期の土屋によく似ていた。そう言われたら、人物描写も土屋と共通点が結構ある。土屋もあんなふうで女と長く続かないが、あいつの良さが分かる女がいないのは不思議だといつも思っていた。
 そうか、由希はこいつがよかったのか。じゃあ多分、俺と土屋を並べたら、由希は土屋に惚れたのだろう。土屋の良さが分かる女がいたじゃないか、しかも身近に。
 そんなことをつらつら考えながら、由希の帰った部屋の床に大の字になる。昼飯を食う気はしなかった。煙草を吸うのも面倒で、転がったままでいたら眠たくなってきた。
 半分眠りながら、色んなことを考える。由希のこと、土屋のこと、会社のこと、また由希のこと。
 俺が女だったら、俺と土屋とどっちがいいかな。俺は土屋の顔が好きだな。やっぱり俺と土屋なら、土屋の方がいい男なのは間違いない。
 由希と土屋のキスシーンなんかを想像してみたが、うまいこと思い浮かばなかった。土屋は女にどんなキスをするんだろう。由希はあの男にこれからどんなキスをされるんだろう。
 半分眠りに落ちながらそんなことをぼんやり考え、眠りながら考えたことだから、結局そんなことはそれきり忘れた。
 目が覚めて、陽が傾きオレンジ色に染まった部屋で、桜澤は少し泣いた。