untitled – TBD 30

 まったく、口から心臓が出るかと思ったぜ。
 江田がそんなつもりで発言したわけではないのは分かっているが、しかし焦った。
 桜澤は用を足して手を洗い、ついでに顔も洗って一息つき、備え付けのペーパータオルで水気を拭った。
 ここは建て替えられたばかりの新しいオフィスビルで、地階が丸ごと飲食店階になっている。つまり、手洗いはそれぞれの店にはなくて、ビルの広いトイレを共同で使うスタイルだ。
 清潔なのは当然、広くてお洒落。観光客やランチ客も当て込んでいるから、まるでホテルのトイレのようだ。照明は便所だっていうのにムーディーな間接照明、手洗い場の鏡は壁一面に張られ、少し酔っ払った自分の上半身がまるごと映っている。
 最近はどこも清潔で綺麗だ。古い雑居ビルの居酒屋なんかに行くと、まだいくらか昔懐かしい便所もあるにはあるが──そんなことをぼんやり考えていたら会社のビルのトイレを思い出し、ついでに先輩社員を思い出し、少しだけキスのことを思い出したらドアが開いて鏡に土屋が映ったので、桜澤の心臓はまた口から飛び出しかけた。
「うわっ、びっくりした!」
「何でだ」
 土屋は不機嫌そうに言って、問い質すようにこちらを見た。
「いや……だって急に入ってくるから」
「個室ひとつきりのとこでなきゃ入口でノックなんかしねえだろう、普通」
「そうだけど」
 だけどどうだと言いたかったのかは自分でも分からなかった。土屋が大股で近寄ってきて、気が付いたら個室の枠に押し付けられていたからだ。
「ちょ──、やめ、またかよ!」
 首を振って逃れつつ思わず口走ると土屋が怪訝な顔をしたが、とりあえず棚上げすることにしたらしい。ぐいと顎を掴まれ、抵抗虚しくあっさり唇を塞がれた。
 ぬるりと潜り込んで来た舌に身体が震える。押し付けられる男の身体の感触には奇妙な安心感があった。骨の硬さも、筋肉の形も、その温度も知っている。すべて舐め取ろうとするかのように絡みつく舌の動きも。
 別の便所で──まったく、何だってんだか──唇を重ねてきた別の男のそれより、土屋のキスが好きだと思う。
 だけどそれは多分、誰としているかではなくて、馴染んでいるかいないかの違いだろう。そうでなければ説明がつかない。土屋の方が半年のアドバンテージ。多分、土屋は桜澤の感じる場所を知っているというだけだ。
 つーか、そもそも何で土屋とキスしたかったんだ、俺?
 酔いも手伝い蕩けた頭にぷかりと疑問が浮かび、掘り下げようとした瞬間になんだかわけが分からない感覚が訪れ桜澤は悲鳴を上げかけた。
 言ってみれば身体が平行移動した感じ。不快な感覚は一瞬で消えたが、妙な圧迫感を感じて目を開ける。覆いかぶさる土屋はさっきと変わらないが、なぜか四方から壁が迫ってくる──要は、そこは個室の中だった。
 文句を言おうとしたら、物音がしてさっきの感覚に説明がついた。誰かトイレに入ってきたから、半ば抱えられて、個室に押し込まれたのだ。
 何だよもう、と気が弛んだら身体も弛み、バランスが崩れる。咄嗟に壁に掌を突いたが踵が滑って足が上がる。土屋が伸ばした手が慌てることなく桜澤の腰に回って身体を抱え上げ、壁と自分で桜澤を固定した。
 薄っぺらな、壁とも言えない壁一枚隔てた向こうで酔っ払いが鼻歌交じりに用を足していて、ムードもへったくれもあったもんじゃない。勿論土屋との間にそんなものが必要なわけではないが、それでもだ。
 土屋が微かに笑ったのを唇で直接感じる。すぐそこに立っているはずのどこかの酔客の立てる物音は徐々に遠くなり、桜澤は、土屋の身体に必死でしがみついた。
 セックスみたいな濃厚なキスに身体のあちこちが充血し、目を閉じていても目が眩んだ。頬と首がやたらと熱い。
「──あんまり長く席外すと相原が探しに来ちまうな。戻んねえと」
 首筋に舌を当てられて思わず声を上げ、ぎくりとしたが、土屋がそう声に出したから、酔っ払いはすでに出て行ったのだと知れた。
「じゃあさっさと」
「なあ、俺ら、最近やってねえよな」
 土屋の唇が耳を這う。耳朶を甘噛みされ、穴に舌を突っ込まれて身体が跳ねた。ねっとりと舐め回されて下腹がぞわりと疼き、桜澤は無意識のうちに土屋に抱えられた腰を捩った。
「んっ──やめろって……! そもそもそんな何回もやったわけじゃねえし、最近とかそんな──つーか、戻んねえとってお前が」
「なあ、サクラ」
「そこで喋んな! 人が来る前に早く出……っ」
「ここでやるか?」
 実際にそんなことはされないと分かっていても、耳に押し込まれる掠れた声に膝ががくがく震えた。頭を抱え込むように引き寄せられて、もう一度、キスされる。
 長く激しいキスの後、土屋がゆっくりと身体を離し、個室のドアを後ろ手に開けた。土屋はまだ壁に貼り付いたまま動くこともできない桜澤を見て、「風俗よりイイだろ」と低く呟き意地悪く笑った。