untitled – TBD 28

「よう、一ノ瀬。久しぶりだな」
 転職前の会社でそこそこ親しくしていた男は勝手に始めていたらしい。カウンターにはすでに半分以上減ったビールのジョッキが突き出しの小鉢と並べて置いてある。
「一年くらい会ってなかったっけ?」
「そんな経つかな……それよりあれ止めたのか、お前」
「あれって?」
「黒縁眼鏡とツーブロック、七三の。お笑いタレントみたいな」
 一ノ瀬は思わず笑って、銜え煙草の友人を見た。
「女子には結構受けたんだけどなあ」
「一部女子だろ。まあ俺は別にどっちでもいいけど、今の方が似合う」
「そりゃあどーも。あ、生ひとつと──」
 オーダーを取りに来た店員に食い物も頼み、一ノ瀬は煙草を取り出した。そんなに吸う方ではないし、仕事に差し障ると思えばいくらでも我慢できるが、飲むときはやはり欲しくなる。
「で、そっちはみなさんお変わりなく?」
「こないだ会ってから後、特別おっきなことはねえかな。津田専務が定年になったくらい」
「あれ、もうそんな年だったっけ?」
「就任したときは若手専務だったけどな。そうだ、山科さん結婚したぞ。一ノ瀬、ちょっと付き合ってたよな? 昔」
「あー、付き合ってたよー。内勤嫌いで、仕事に身が入んなくて合コンばっかしてた頃に、何故か」
「お前総務ん時はほんっと合コン主催ばっかりしてたよなあ」
「あの頃はねえ、仕事暇だったし、若かったし。でもお前だって彼女できるまでは呼べば来たよな?」
「まあ、お互いな」
 友人は目尻に皺を寄せて笑い、煙を吐いた。そうして、一ノ瀬を上から下まで眺め回す。
「スーツとか髪型とか、また彼女に言われたんだろ? 変えてほしいって。前ん時だってそうだし、お前って案外一途っていうか尽くすっていうか」
「んー……彼女ではないけど」
 変えてほしいと言われたわけではなくて嫌だと言われたのだし、言ったのは女子ではなくて後輩男子だ。だが、まあ大筋では違わないから曖昧に頷く。
「付き合ってるわけじゃねえの?」
「うん、付き合ってない。ていうか、可愛いなあとは思うんだけどそれだけじゃないし──よく分かんないけど、もう好きになっちゃってんのかな、これ?」
「自分で分かんねえのか」
「そうなの、困ったことに」
 一ノ瀬はビールを呷って笑い、そうこうしているうちに運ばれてきた揚げ物に箸を伸ばした。
 今までたくさんの女の子と楽しい時間を過ごしたし、付き合ってきた。だが、同性相手に可愛いとか、挙句の果てに寝てみたいと思ったことなんか、勿論、未だ嘗て一度もなかった。
 桜澤を可愛いと思ったのは結構前だが、最初はあくまでも一般的な意味だった。だが、今は違う。いつもだるそうで、何に対してもどうでもいい顔をする後輩が彼に関してだけはちょっと目の色を変えるのも、やっぱりこういう気持ちなのだろうか。
「この間、勢いでチューしてさ。結構いい感じかなあと思ってホテルに誘ってみたけど、すっげえ困った顔されて、撃沈」
 はは、と笑う友人が煙草を揉み消し、箸を取る。
「それはお前、駄目ってことじゃねえか」
「うーん、でも今付き合ってるひともいないみたいだしなあ」
「ふうん。じゃあ押してみれば」
「そう単純な話でもないんだけどさ」
 一ノ瀬は、会社の妙にモダンなトイレでの一幕を思い起こした。断固として拒否されたわけではないが、それが自分への好意ゆえだと思うほど自惚れてはいない。嫌だと言いたくても言う暇がなかったのだろうと分かってはいるけれど、あのまま邪魔が入らなかったらどこまで許してくれたかな、とは思う。がむしゃらに突き飛ばされたりはしなかった。だったらほんの少しくらい見込みがあるのかも、なんて。
 桜澤の身体はキスにちゃんと反応していた。股間を弄ったときに漏らした甘ったるく濡れた声。口の中だけじゃなく、身体中しゃぶり尽くしたら彼はどんな声を出すのだろうか。
「……うわあ、お前が思い出させるから妄想が果てしなく広がってる、今!」
「馬鹿。そんなだから切れ目なく彼女がいても結婚できねえんだお前は」
 それはそうだよねえ、と同意してまた笑われ、一ノ瀬は苦笑した。
「でもさあ、それを言うならお前だって結婚してないじゃない」
「まあな」
「ずっと同じ彼女なんだろ? 俺が会社辞める大分前からだから──もう十年くらい付き合ってんの?」
「そうなるなあ、考えてみたら」
「結婚しないの?」
 微笑むばかりで答えない男の顔を見ながら、人間というのは面白い、とぼんやり思う。別に不倫でもなさそうなのに彼女とは結婚せず、それでも幸せそうな目の前の友人。ついこの間までは、隣の課の後輩でしかなかった桜澤と、彼に寄りかかっている土屋。
「まあ、薮内がそれで幸せなんだっていうなら俺は別にいいけどね。そうだ、あの人は元気? 桑島さん」
「ああ、すごく元気だよ」
 友人は頷いて、また幸せそうに微笑んだ。