untitled – TBD 27

 桜澤が残業を終えて帰ろうとしたら周囲はいつの間にか無人になっていて、人事の女性が二人残っているだけになっていた。彼女たちに挨拶して便所に寄る。用を足してすっきりし、ハンドドライヤーで手を乾かしていたら入口のドアが開いた。
「あれ」
「あ、お疲れ様です」
 入ってきたのは元ツルピカ眼鏡、今はすっかり大人の色気漂う似非ハーフ、一ノ瀬だった。今日のスーツはスリムではあるが程よく余裕もあるシルエットで、色は明るめのグレー。控えめな光沢のネクタイは渋いグリーンだ。七三ツーブロックもピタピタスーツもすっかり過去のものとなって、桜澤もようやく一世代前の一ノ瀬が二重映しに見えなくなってきた。
「一ノ瀬さん、さっきから席にいましたっけ?」
「いや、今戻ったとこ。打ち合わせの後軽く行こうって先方に誘われちゃって、断れなくて。でも会社の端末持って帰ったら週末も気を遣うから置きにきたんだよね」
 そういう一ノ瀬は手ぶらだから、一旦自席に寄って来たのだろう。
「そうっすか。確かに、言われたらなんか、食い物屋の匂いしますよね」
 桜澤が言うと、一ノ瀬はメタルフレームの眼鏡の向こうで、ちょっと目を細めた。
「そう? 酒臭いかなあ」
「いや、この距離なら別に」
「噛んでもいいよ?」
「は?」
「何でも噛んで確かめるんだよね? 桜澤くん」
 確かに変わった匂いがするとか言って一ノ瀬の手を噛んだらしいし、土屋にもそんなことを言われたが、普段から何でもかんでも齧って確かめているわけではない。
「いや、そんなことないです」
「そうなんだ? でも土屋も否定してなかったけど」
「土屋がどう言ってても違います!」
 断固として言ったら一ノ瀬はちょっと笑った。
「桜澤くんってかわいいよね」
「はあ?」
「それも、土屋は否定しなかったよ。ああ、っていうか、はっきり言葉にはしてなかったけど、丸分かりっていうか」
 不意に一ノ瀬の両手が伸びて頬を包まれ、気が付いたら唇を重ねられていた。何どうする間も言う間もなく、個室と個室の間の枠に押し付けられて深く奪われる。濡れた音を立てて舌を絡められ、土屋とはやり方が違うと考えて、そんな自分に結構慌てた。
「っ……ちのせさ──何してんですかっ! 酔ってるんでしょ!」
 思い切り顔を背けて腕を突っ張る。完全に離れはしなかったが、彫りの深い男前面は若干遠ざかった。
「そんな飲んでないよ。俺も桜澤くんを見習って、色々触って確かめてみようかなと思って」
「見習わなくていいし、つーか俺はんなことしてませんから!」
「そう? でも俺はするよ」
 にっこり笑った一ノ瀬が体重をかけてきて、桜澤の腕はあっさり折り畳まれた。顔が近づき、一ノ瀬の舌がゆっくり潜り込んでくる。言葉通り、まるで舌先で隅々まで触られ確かめられているかのようだ。両手で尻をしっかり掴まれ引き寄せられて、身体中を擦りつけられる。
「俺にされるの、嫌?」
「ん──っ」
 口元も身体も隙間なく重なり、角度を変えて舌を絡められ、朦朧とする。まったく、一ノ瀬にしても土屋にしても、何だってやたらキスの仕方がエロいのか。
 尻を掴んでいた指先がするりと滑り、前に回った。
「ちょ、あ……っ! いち──」
「一ノ瀬さーん! いらっしゃいますかあー!?」
 馬鹿でかい声とともに便所のドアがガンガン叩かれ、桜澤は文字通り飛び上がった。
「机の上の会社携帯がものすごくしつこく鳴ってますー! あれ多分お客様だと思──」
 一ノ瀬を突き飛ばした桜澤は、ドアを力の限り引っ張った。
「──うので出て、あら、桜澤さん! 中に一ノ瀬さんいます?」
 立っていたのは残業していた人事の二人のうち年嵩のほう、既婚、子供なし四十代の上山さんだった。どおりで男子便所のドアの叩き方にも遠慮がない。
「いましたいました中に! じゃあお先にっ」
「はーい、お疲れ様です。一ノ瀬さあーん?」
 とにかく急いで会社のビルを飛び出したが、もうすぐ駅、というところで便所に鞄を忘れたことを思い出した。スーツの内ポケットにスマホはあるが、財布から何から鞄の中だ。渋々元来た道を戻っていたら、向こうから一ノ瀬が鞄を二つぶら下げて歩いて来た。
「ああ、よかった! 桜澤くん鞄も持たずに飛び出してったから。会えなかったらどうしようかと思ったよ」
「すんません……」
「どういたしまして。それに、こっちこそびっくりさせてごめんね」
「はあ。あの、一ノ瀬さん」
「ねえ、桜澤くん。この後どっかで、続きしようか?」
 絶句した桜澤に一ノ瀬は柔らかく笑い、答えを促すように首を傾けた。少しの間桜澤の顔を見つめた後、一ノ瀬は、掴んだバッグを桜澤の前に掲げた。
「ごめんね、冗談だよ」
 差し出されたバッグを受け取ったら、一ノ瀬はじゃあね、と手を振り、にっこり笑って歩み去った。