untitled – TBD 26

 久し振りに風邪を引いたら思いの外辛かったので、桜澤はその日、有休を取った。
 幸い、ずらせない約束も、提出しなければならない書類も、サブミットしなければならないシステム上の処理もなかったので、何本か電話するだけで済み、一度這い出たベッドにもそもそと潜り直して、目が覚めたら昼も過ぎて午後になっていた。
 微熱だったし、だるくてたまらないが鼻水が垂れ流れるとか咳が止まらないということもなかったので、病院には行かずに近くのスーパーに行くことにした。
 髪はひどい寝癖がついているしパジャマ代わりのスウェットだし、どうしようもない格好だが仕方ない。シャワーを浴びて身綺麗にできるくらいなら会社に行っている。マスクと上着とニットワッチでなんとか誤魔化し、誤魔化しきれずに若干不審者っぽくなったがまあそれもどうしようもない。
 スーパーの隣にくっついているドラッグストアで風邪薬と栄養ドリンクを買い、スーパーで冷凍のちゃんぽんと杏仁豆腐とおにぎりを三個買い、二リットルのミネラルウォーターも買ってよろけながら部屋に戻ったら、ドアの前にでかい男が立っていた。
「どちらさんですかね」
「そんなに高熱なのか、サクラ」
 その顔を見た百人が百人、心配なんかしていないだろうと考えるようなだるいツラで、土屋は言った。
「冗談に決まってんだろ」
「ああ、そう。病院は?」
「微熱だから行ってねえ。ドラッグストアで薬買ってきた」
 部屋の鍵を開けながら答え、のろのろと靴を脱ぎ、振り返ってドアレバーに手をかけた。
「外回り中だろ、土屋。起き上がれないほどひどくねえし、うつったら困るし、早く行けよ」
「午後休だから」
「はあ?」
 土屋はさっさと上がり込み、何やってんださっさと入れ、と住人のようなツラで言った。
「いや、つーか……」
 うまく頭が回らなくて結局鍵をかけて靴を脱いだ。桜澤がマスクを外し、上着を脱いだりしている間に土屋は手に持っていたビニール袋——まったく気づかなかったが持っていたらしい——から色々なものを取り出していた。ミネラルウォーターのペットボトル、ミニトマトのパック、レトルトの雑炊、桃缶、フリーズドライの味噌汁、その他諸々。
 こいつはこんなに気が利く奴だったっけ、と考えたら通じたのか、土屋は言った。
「見舞いに行くなら買って行けリストは江田に持たされた」
 なるほど、さもありなん。
 冷凍ちゃんぽんは土屋が鍋で温めてくれたので、それを食って、ついでに杏仁豆腐も食って薬を飲んだ。歯磨きから戻ってそのまま床に座ってだらだらしていたら、立って煙草を吸っていた土屋の足先で背中をつつかれた。
「おい、サクラ、ベッドで寝ろ」
「動くの面倒くせえ」
「運んでやるか?」
「要介護じゃねえんだっつの。朝から布団入りっぱなしだから入りたくねえんだよ」
「……」
 煙草を吸おうと思ったが、それすら面倒くさくて溜息を吐く。その場でうとうとしかけていたら、いきなり後ろに引っ張られて仰け反った。座った土屋の脚の間に、子供みたいに抱えられているのだと気が付くのに暫くかかった。
「土屋」
「何だよ」
「お前は座椅子かよ、離せ」
 桜澤の腹を抱えるように回された腕に手をかけて、それが剥き出しだったことに触れてから気付いて密かに息を呑む。勿論、剥き出しなのは肘から下だけ。洗い物をするのに上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲ったからだというだけだ。それなのに、微熱のせいか、それとも風邪薬のせいなのか、その手触りに妙に焦って手を離した。
 耳元に土屋の息が触れる。ぼんやりした頭が痺れ、膨れたような感じがする。色々なことが掴めなくなり桜澤はぎゅっと目を閉じた。
「さすがに今日は襲ったりしねえから寝てろ」
「今日はって——またするつもりかよ、お前」
 思わず目を開け、首を後ろに捻ったが、土屋の顔は見えなかった。
「もうしないとか一遍も言ってねえ」
 背中が暖かくてふわふわする。
「……前も言ったけど、お前が俺とやりたがる意味がわかんねえ」
「セックスすんのに意味が要るのか」
「女の子とすんのには要らないかもしんねえけど、だってお前」
 土屋は数秒黙り込み、相変わらずだるそうな口調で言った。
「お前が気持ちよくなってんのを見るのは楽しい」
「あのなあ、何だそれ」
 それ以上何を言ったらいいか分からず黙っていたら、土屋はちょっと身じろぎし、ニットワッチのせいでぺったりした桜澤の髪に鼻先を埋めて呟いた。
「心配すんな。今日は見てくれがくたびれすぎててまるでその気にならねえから」
 こいつはどっかおかしいし、おまけに嘘つきだ。
 腰のあたりに触れる硬いものに内心ちょっと苦笑しながら、睡魔が襲ってくるに任せて桜澤は目を閉じた。