untitled – TBD 25

「なあ」
「ああ?」
「ミツコって知ってるか?」
「誰、ミツコって」
「いやだから誰か知ってっかと思って」
「会社の子?」
「知らねえ」
「はあ? 何だよそれ。範囲広すぎて分かんねえけど、俺の知り合いにミツコはいねえよ」
 江田がハイボールのグラスに残った氷をガラガラ言わせながら答える。
「ならいい」
 ハマチの刺身を口の中に放り込んで黙った土屋を少し眺め、江田は考えるような顔をしたが、結局煙草を取り出してから店員を呼び、お代わりをオーダーし、新しいハイボールが来るまで何も言わずに煙を吐いていた。
「なあ」
 と、口を開いたのは、今度は江田だ。
「ああ?」
 お互い語彙が少ねえなあと思いはしたが、いつもどおり返す。江田は珍しくちょっと躊躇いを見せた後、灰皿の中の吸殻をじっと見ながら言った。
「結婚すっかな、俺」
「何で?」
「普通そこはいつ? とかじゃねえ?」
「今の彼女、なんつったっけ? エミ?」
「誰だよそれ、優香だよ。エもミも合ってねえし」
「お前はユウカにそこまで惚れてるように見えねえ」
「……」
「だから何で、つっただけだ」
 面倒くさそうな土屋の物言いにいつものごとくイラっとしたらしい。江田は眉間に皺を寄せて土屋を睨み、数秒後、諦めたように息を吐いた。
「……結婚したいんだってさ、優香」
「ふうん」
「三十だし。あっちはあと何ヶ月かあるけど」
「お前はしたくねえのか、結婚」
「いや、したくないってことはねえよ。けど——」
 江田は言い淀み、テーブルの上に放ってあったライターを暫し弄んだ。
「こいつでいいのかなって」
「そういうこと考えるってことは、ユウカとは結婚したくないんじゃねえの」
「優香がどうこうっていうんじゃなくて……あいつを選ばなかったとしてもだぜ? これから先、迷わない相手と出会うことなんかあんのかな、とか思って」
 江田がいじっているライターはその辺のコンビニのものではなくて、どこかの飲み屋の名前が入っていた。嫌煙が流行りのこのご時世では珍しい。
「俺もあいつもお互い様だけどさ、完璧な相手なんているわけねえだろ? 何もかも自分にぴったり嵌る他人なんて存在するわけねえんだから。でも、だったら一体どこらへんで手を打つのが俺の人生にとって正しいんだよ、とか思っちまって。そう思わねえ?」
「俺が知るかよ」
 素っ気なく言って煙草を銜えた土屋を見て、江田はライターを放って寄越した。
「土屋も奈緒美ちゃんと別れたんだって」
「も、って何だよ」
「サクラも別れただろ、彼女と」
「ああ……そういやそうだな」
「やっぱなんかアレか、将来のこととか考える年になったからかね」
「いや、俺は別にそういうんじゃねえし。サクラは知らねえけど」
「じゃあ土屋は何で別れたんだよ」
 醤油に浮いた魚の脂をぼんやり眺め、煙を吐く。ライターを江田に返し、江田がそれをポケットに突っ込むのを何となく目で追いながら言った。
「面倒くせえんだよ」
「結婚が?」
 土屋は椅子の背に凭れ、天井に向けて煙を吐き出した。
「結婚だけじゃなくて、恋愛の駆け引きみてえなのが、全部。それに、女ってのは大体、こうしろああしろって言い出すだろ。言われたって俺は変われねえよ。つーか、変わったとして、そんならお前が好きだった俺って何だよって話じゃねえかよ。まあ、つっても、人間関係なんだから、相手に合わせることだって必要なのは分かるぜ。けど、分かってたってできねえんだからどうしようもねえだろ。そういうのが全部、面倒くせえ」
 江田は何も言わず箸を取り上げ、土屋の前の刺し盛りの皿からサーモンを取った。暫し無言のまま時間が過ぎ、土屋が煙草を灰皿に捨てたところで江田が煙草を銜えて言った。
「でも、さっきのミツコのことは知りてえんだろ? 誰なんだよ、それ」
「サクラが酔って泣きながら呼んでた名前だってよ」
「……」
 江田はぷかりと煙を吐いて、土屋に眇めた目を向けた。
「……土屋、いい加減にサクラ離れしろよ」
「意味が分かんねえ。親子じゃねえし」
「いくら面倒くさくねえからって、サクラと結婚するとか言い出すなよお前」
 あながち冗談でもなさそうに言って、江田は呆れたように首を振りながら溜息を吐いた。