untitled – TBD 24

 土屋が噛んで確かめるのは止めろとか、一ノ瀬がどうしたとかそんなメッセージを送ってきた。
 外出予定もなかったので、課長に呼ばれ話をしたついでに腹を下したと声高に宣言しておいて——快便だったが嘘も方便——トイレの個室に籠って便座に腰を落ち着け真剣に回想してみたところ、確かにそんなことをした記憶が蘇ってきた。
 ついでに、一ノ瀬にまた飲みに誘ってもいいかと訊かれて誘いたきゃどうぞと答えた記憶もついてきた。約束してねえじゃねえかと思ったが、それは別にどうでもいい。
 まあ大した粗相でもなかったようだと安堵して自席に戻り、課長に腹の復調も報告し、その日は恙無く勤務を終えた。
 冷蔵庫の残り物で野菜炒めを作って白米にぶっかけ、ビールと一緒にかっ込みながら録画してあった海外ドラマを観た。だが、一旦再生を止めて食器を片付け、煙草を吸ったら急に観るのが面倒くさくなった。
「あのさあ」
「何だ」
 相変わらずの態度で突然の着信に応答した土屋の背後から物音はしない。
「俺がやりてえなって思ったら、お前はどうするわけ?」
「……はあ?」
 果てしなく面倒くさそうな声の後、暫く土屋の声は聞こえなかった。
「——それはあれか、お前が俺に突っ込みてえって意味か」
「馬鹿かお前は!」
 桜澤は眉間に皺を寄せながら思わず喚いた。何をどうやったらあと僅かで百九十センチに届かんとするデカい男に突っ込む気が起きるというのだ。
「そういう意味じゃねえよ、あり得ねえし!」
「そりゃよかった」
 別によくもなさそうな普段通りの平板さで土屋は言った。
「俺が一ノ瀬さんを噛んだらどうたらとか、何でお前がそういうこと言うのか全然意味がわかんねえんだけど正直。何か知らねえけど俺と寝てみたらよかったってのはいいとして、てか別によくはねえけど、とにかくお前がやってんのは全部お前の都合っていうかお前がどうしたいかじゃねえか」
「……」
「俺が今やりてえっつったらやるわけ? 違うよな? 何か知らねえけど、そういうことじゃねえよな? 別に双方向の話じゃねえんだよな。だったら俺が誰とどうしたって関係なくねえか」
「……」
 何も返ってこないのは、返す言葉がないからなのか、聞いていないからなのか分からない。何が言いたいのか自分でも分からなくなって、「まあいいや、じゃあな」と一方的に告げ、桜澤は電話を切った。
 余計なことを考えたくなくて、やたらうるさいだけのバラエティー番組をぼんやり眺める。風呂を沸かして入り、湯船の中でうっかり居眠りして長風呂になった。ようやく上がってビールを取り出し、やっぱりドラマの続きを再生し始めたらドアホンが鳴った。
「……あれ、お前家にいたんじゃねえの」
 すでに日付も変わろうとしているというのに、ドアの外に立っていた土屋はスーツだった。
「残業」
 さっき電話をしたときは会社だったらしい。それは悪いことをしたかもしれないとちょっと思い、だからダメなのだと思ったりもした。
「ふうん。で、終わったのかよ」
「いや、でもとりあえず急ぐとこは終わったから切り上げてきた」
「何で」
「今やりてえんだろ?」
「はあ? だからそれは例えであって——」
「お前が何かしてえつって、俺が断ったことあったか」
 いやそんなの八年の間には何回もあったんじゃねえのと思ったが、今回は真剣に回想できなかった。玄関先で押し倒され圧し掛かられて、口中の粘膜が全部溶け合ってしまうんじゃないかと思うようなキスをされて何も考えられなくなったからだ。
 息継ぎするための僅かな時間にどうせやるなら風呂に入っといてよかったなんて考えて、そうじゃねえだろ、そうじゃねえよなと自分に突っ込む。
「重てえ、退けよっ」
「何でもしてやるから、どうして欲しいか言えよ」
 真顔で訊かれたから真顔で返した。
「退け」
「やだ」
「ぜってえ言うと思ったそれ!」
 怒鳴ったら土屋がくっ、と小さい音を立てて笑って、そんなの見慣れた顔のはずなのに、体勢のせいか距離のせいか何だか知らないが、頬がわっと熱くなった。
「お前、いい匂いがする。サクラ」
 呟いた土屋は桜澤の耳をそっと噛んだ。
「風呂入ったから、ってそうじゃねえ、こら! 匂いがするからって噛んで確かめんのはやめろってお前が」
「お前に言っただけで、俺がやらねえとは言ってねえ」
「だからそういう、あ、やっ、んなとこ噛むな……っ!」
 何でもしてやると言ったくせに——確かに色々してくれたが——土屋は結局退いてくれなかった。