untitled – TBD 23

「やっぱり土屋のプレゼンはいいよね」
 一ノ瀬がエレベーターのボタンを押しながら言った。
「センスあると思うよ」
 周囲は色々言っているようだが、一ノ瀬に辛く当たられたことは別にない。例の飲み会での一件——サクラが土屋の方が好みだと言った——に尾鰭がついただけだ。土屋は元々誰とでも親しくするタイプではないし一ノ瀬とも親しくないが、そもそも一ノ瀬は先輩であって、友人ではない。だから傍から見れば仲が悪いように見えたとしても、それは誤解だ。
「ありがとうございます」
 肩越しに土屋を振り返ってちょっと笑うと、一ノ瀬はエレベーターに向き直った。
 一ノ瀬と同じ顧客は担当していないが、今回は一ノ瀬の客にまったく違うサービスを売り込むというので、土屋がついてきた。一ノ瀬ができないプレゼンではないが、土屋が自分の客のために作った資料があったし、違う担当を行かせるほうが緊張感があっていいかもしれないと一ノ瀬本人が言ったからでもあった。
「そういえば、土曜に駅で桜澤くんに会ったよ」
 そこでエレベーターが来たので話が途切れた。乗り込んだ箱には数名乗っていたから一ノ瀬も口を噤んだままでいる。先に降りて土屋を待っていた一ノ瀬は、歩きながら桜澤と土屋の地元の駅名を口にした。ちなみに桜澤と土屋の降車駅は同じだが、部屋は駅を挟んで反対方向。徒歩十五分の距離にある。
「一ノ瀬さんあの辺でしたっけ?」
「違うよ。彼女のとこ行った帰りだったから」
「ああ——」
「それで、桜澤くんと飲んだんだよね」
「へえ、そうっすか」
「それでさあ、桜澤くんに手を噛まれたんだよね」
「……へえ、そうっすか」
「今すごい間があったよね?」
「そうっすか?」
「そればっかりだなあ、土屋は。あのね、俺、すごい乾燥肌なんだよね」
 笑い出した一ノ瀬は腕時計に目を落としながら続けた。
「だからハンドクリームも必須なんだよ。放っといたらすごいことになるから。でもほら、女の子じゃないから匂いつきのとか嫌じゃない? 野郎の手から花の香りとかしてもねぇ」
「そうっすね」
 同意見なのでそこは頷く。
「だから薬用の使ってるんだけど、それがちょっと薬品臭いんだよ。そしたら桜澤くんが、なんか変わった匂いする、とか言って、俺の手を取ってこう、がぶっとね」
 左手をぶらぶらさせながら一ノ瀬は言って、土屋を見た。この間見てくれを変えた先輩は、今はどこから見ても文句なくいい男だ。余程おかしかったのか、ハーフみたいな彫りの深い顔を緩めて思い出し笑いをしている。
「普通嗅ぐとこだよね、匂いがするんならさあ。噛んで確かめるっておかしくない?」
「そうっすね」
 これも同意なので頷いた。
「だよね、おかしいよねやっぱり? けどね、でも、そこがおかしいのはまあ置いとくとして、俺も最近気づいたんだけど、何か可愛いよねえ、桜澤くんて。別に女の子みたいに可愛いって意味じゃないけど、構いたくなるっていうか、なんか男心くすぐるっていうか、何だろうあの感じ?」
「……」
 土屋が立ち止まると一ノ瀬も立ち止まり、微笑んだまま土屋の顔をじっと見た。
「あれ? そのへんは相槌ないんだ?」
「……」
 真っ昼間の天下の公道に、ギャアアという声が響き渡った。
「痛い痛い痛いマジでっ!!」
 一ノ瀬の左手に歯型がつくほど強く噛みついた土屋は、指がほっそりして形のいい手を放り出すようにして離した。
「確かに薬品くさいっすね」
「いやだからそれおかしいって俺さっき言ったよね!?」
「じゃあ次の約束あるんで行きますね」
 涙目になっている一ノ瀬に背を向け歩き出しながら、土屋はスマホを取り出した。
 ——何でも噛んで確かめんのはやめろ
メッセージを送ったら、暫くして返事が来た。
 ——意味がわかんねえ
 ——薬品くさいから噛むとかおかしくねえか
 ——臭いのに噛むってわけわかんねー
 ——お前がな
 そこから返信が来なかったので、スマホはポケットに突っ込んで駅に向かった。次の外出前に一旦会社に戻って処理しなければならないことがある。
 電車の中でメッセージが着信したので開いたら、桜澤だった。
 ——噛んだの?
 ——お前がな
 ——お前を?
 ——一ノ瀬さん
 結局その後、返信は来なかった。