untitled – TBD 21

「あれ、桜澤くん?」
 土曜の夜。学生時代の友人と会って軽く飯を食った。酒は飲まずに別れて駅前を歩いていたら背後から名前を呼ばれて振り返った。
「偶然だね」
「……何でこんなとこにいるんですか?」
 満面の笑みを浮かべて立っていたのは一ノ瀬だった。今日は眼鏡をかけていない。スリムなデニムに、仕立てのいい黒いジャケット。スーツは格好いいが私服は残念、という男も多いが、一ノ瀬は私服姿もファッション誌に載っていそうなクオリティで、そのせいか、何だかやたらと腹立たしい。
「デートの帰りだよ」
 ますますもって腹立たしい。
「ああ、そうっすか」
「何でそんな怖い顔するの? ちょうど彼女を送ってきたとこなんだよね」
「デートにしちゃ随分早いお開きっすね」
 言外に何かがまずくて帰されたんじゃねえの、と意地悪な気持ちを込めてみたが、一ノ瀬の笑顔は揺るがなかった。
「彼女、明日の朝いちの便でお姉さんとハワイに行くんだよ。羨ましいよね。で、今日は明日の準備があるからお預け」
「お預けくらったにしちゃご機嫌っすね」
「そんなことないけど、お蔭で桜澤くんに会えたしね」
 こういうことをさらっと言うところが女に人気なのかなとぼんやり思いながら眼鏡のない似非イタリア人顔を数秒眺め、桜澤は踵を返した。
「あれっ、桜澤くん!」
「はい?」
 肩越しに振り返ったら一ノ瀬はまた笑っていたが、今度は苦笑だ。
「何のリアクションもないまま放置されるの、俺、辛いなあ」
「ああ、ええ。そうっすね。そんじゃあまた」
「つれないよね、相変わらず。ねえ、飯食った? 暇なら飲みに行かない?」
「彼女と飯食ったんじゃないんですか」
 色々面倒くさかったが一応先輩なので相手をする。一ノ瀬は食ったけど、と言って何故かちょっと黙った。
「……食ったよ、女子向けの、禁煙のこじゃれた店で山盛りのサラダときれいなパスタ。嫌いじゃないけど、そういうのも。でも、俺は今シメサバが食いたいんだ! って暴れたくなること、ない?」
 思わず笑ってしまったら、一ノ瀬も笑った。
「せめて笑いが取れてよかったのかなあ。じゃあ、ごめんね、引き留めて」
「……シメサバ食いに行かないんすか?」
 何となくそう言ってみたら、一ノ瀬はものすごく驚いた子供みたいな顔をした。

 気が付いたら朝で、桜澤は昨日の服を着たまま自分のベッドにうつ伏せになって眠っていた。
 あの後一ノ瀬と居酒屋に行ったのは勿論記憶にあって、シメサバは品切れだったからアジの刺身を食べたのも覚えていたが、後半の記憶はまだらだった。お開きにしようか、と言われたのは覚えているが、タクシーに乗ったことは覚えていない。まあしかし、財布もスマホもあるし、無事帰ってきているのだからよしとする。
 飲む相手としての一ノ瀬には何の問題もなかった。土屋に厳しく当たると聞いていたから同期としてはいい気分はしなかったし、見た目も苦手だったから避けていたが、色々取っ払って話してみれば案外面白い奴だった。多分。そんな気がする。嫌な思いをした記憶がないからそういうことにしておいた。
 その後は洗濯したりテレビを眺めていたりしていたらあっという間に過ぎて翌月曜。週明けからいきなり重たい仕事が入ってバタバタして、気が付いたら夕方だった。ぐったりしながら喫煙所から出たところで、今日は眼鏡の一ノ瀬に出くわした。
「お疲れ様っす」
 挨拶すると、一ノ瀬は急いでいるのか、開口一番「土屋見なかった?」と言って寄ってきた。相変わらず土屋はフラフラしているらしい。
「見てませんけど」
「まったく——あ、桜澤くん、土曜はどうもね」
「ああ、いえ」
 そのまま通り過ぎようとしたら、一ノ瀬に腕を掴まれた。乱暴だったわけではないが、親しくもない同僚に腕を掴まれることなど滅多にないから驚いて立ち止まり、一ノ瀬を見る。
「酔った桜澤くんて、可愛いよね」
「可愛い?」
「約束通り、また飲もうね」
「約束?」
 じゃあね、と言って手を離し、去っていく一ノ瀬の背中をぼんやり見送り、桜澤は誰もいない空間に向けて「はあ?」と言った。