untitled – TBD 20

「小雪さん、好きでもないヤツと寝ちゃったことってあります?」
「何言ってんの? 私はそんな安売りしないよ」
「ですよねえ」
 小雪は煙草の煙を盛大に吐きながら、カウンターに肘をついて桜澤のほうへ乗り出して来た。
「何よ、桜澤くん、好きでもない女の子とやっちゃってデキちゃったとかそういう話?」
「いや、デキちゃってはないっすよ」
 小雪は銜え煙草で片眉を上げた。小雪、なんて和風な名前だが、見てくれは和風とは程遠い。多分三十代だと思うが、見た目だけならせいぜい二十代半ば。百七十の長身に男が夢に見るような女性らしい曲線美と長い脚。その身体に乗っかった外国人のように彫りが深い顔立ちと、滑らかな肌。美貌とスタイルのどこからどこまでが生まれ持ったものなのか桜澤は知らないが、小雪という名前が親につけられたものなのだというのは聞いた。
 江田が教えてくれたスナック小雪——安易に過ぎるがまあそれはどうでもいい——は、カウンターが十席しかない小さな店で、桜澤は常連というわけではないが、江田が一時期彼女と付き合っていた。江田は小雪と別れてからも店に出入りしていて、今日、桜澤は急に客先に呼び出された江田のお使いで開店前のスナック小雪にやってきた。
「デキちゃってはないけど、好きでもない子とやっちゃったんだ?」
「うん、まあそうっすね」
「ずっと付き合ってた彼女とは? 別れたんだっけ」
「半年くらい経ちますかね」
 頷く桜澤に、小雪はおかわりいる? と問いかけた。ちなみに、目の前のグラスに入っているのは勤務時間外なのに何故かハト麦茶だ。
「いや、いらないです」
「いいんじゃない? その子が納得してるなら別に。男と女じゃ捉え方も違うから、誤解させないようにしたほうがいいとは思うけど」
「ああ、それは大丈夫なんですけど」
 ヤツも男だから、とは言えないから、頷いておく。
「じゃあ問題ないでしょ。相手も納得してるなら、別に身体だけの関係だって誰に遠慮することもないよ」
 確かにそうだ。お互い大人なんだし、したくてしたわけじゃないとはいえ、最終的には合意——とは思いたくないけれど、結果合意だ——の上のセックスだ。男同士というのは当たり前のことではないけれど、でもまあ問題はそこだけで、全体的にはたいしたことじゃないはずなのだ。
「じゃあ、何そんなに悩んでるの?」
 小雪が長い髪を払いながら訊ねる。オフショルダー気味のニットからちらりと見える肩の丸みがとてもきれいだ。小雪と寝てみたいと思わない男は多分そんなにいないだろう。桜澤だって妄想したことはある。ところが、今脳裏に浮かぶのは、どこかの馬鹿のダルそうなくせにやたら熱っぽい目つきだけだった。
「……いや」
「ん?」
「悩んでるってわけじゃないですけど」
「ふーん。じゃあ和也に相談してみたら?」
 和也というのは江田の下の名前だ。
「あいつはそういうの得意よ、大して好きでもない子とそういうことになっちゃうの。和也は割り切ってるつもりで、結局は相手の子がマジになっちゃうってね。経験豊富でしょ、そういう意味では」
 ちょっと皮肉っぽい顔で笑った小雪に、桜澤は自分の悩みを忘れて暫し見入った。
 テレビに出てくるタレントやモデルに遜色ない容姿で頭の回転も速い彼女が、どういう経緯で小さなスナックをやってるのかとか、そもそも江田とはどうやって知り合ったのかとか、そういうことを何も知らない。小雪が言う、割り切っているつもりの江田に本気になった女の子に彼女自身が含まれるのか、違うのかも。
「言っとくけど、私の話じゃないよ」
 小雪はにっと笑ったが、それが本当かどうかも、桜澤には分からない。
「で、桜澤くんは、どうすんの、その子のこと」
「——どうしましょうね」
「セックスはいいんだ?」
 ぶっとハト麦茶を吹き出した桜澤を見て、小雪は不思議そうな顔をした。
「だって、好きでもなくてデキちゃってもいないのにスッパリ切らないなら、それ以外なくない? 他に何かある? あっ、すっごいいいとこのお嬢さんで逆玉もありえるとか……んー、でもそれって打算的すぎて桜澤くんっぽくない。やっぱりセックスだ! セックスがいいんだ! そうなんだ!」
「子供ですか! よくないです、別に普通!」
「うっそー、うそうそー! その顔は嘘ついてるっ! 何照れてんのよ、三十路のオトナがその程度の話でぇ」
「照れてないですってっ」
「照れてるわよう! いいじゃん別に、気持ちよくなるのは悪いことじゃないんだし」
「や、だから——あ、ちょっと待ってください、電話っ」
 桜澤はこれ幸いとスーツの内ポケットからブルブル言っているスマホを取り出した。液晶画面に表示された江田の名前をほんの数秒二人で眺める。
 小雪はさりげなくスマホから目を逸らし、何でもない顔をして、ひどくゆっくり煙を吐いた。