untitled – TBD 14

「あっ、すみません……って、何だ、桜澤くんか」
 桜澤が顔を上げると、ドアから覗いていたのは今日も一分の隙もないピタピタスリムスーツに逆三角形の身体を包んだイタリア人みたいな先輩だった。一ノ瀬だ。
「ああ、どうぞ。今出ますから」
 会議室のドアにはガラスなどは嵌っておらず、外から中の様子は分からない。桜澤が会議後メールチェックしている間に、先に出て行ったメンバーが使用中の札を戻して行ったのだろう。
 立ち上がりかけた桜澤を手で制した似非イタリア人は、会議室に入ってきて、桜澤の向かいに腰を下ろした。
「いや、いいよ。三時からだから、うちの会議」
「あ、そうっすか」
 じゃあ何しに来たんだよ、とは言わなかったが顔に出たらしい。
「土屋を探してるんだけど」
「またですか?」
「あいつはすぐフラっと消えるからね。まあ、必要なときにはちゃんといるんだけど」
 眼鏡の中に指を突っ込んで目頭を揉みながら答える一ノ瀬の顔をなんとなく眺める。今日も七三ツーブロックは一筋の乱れもない。髪を下ろしたらどんななんだろうなと思って、ずっとこの髪型だったわけではないのだから、過去には見たことがあるはずだと気がついた。だが、まったくもって思い出せない。
 一ノ瀬は視線に気づいたのか、目頭に指を当てたまま桜澤を見返した。なんとなく目からビームが出そうだ。
「……なんすか?」
「桜澤くんさあ」
「はい?」
「俺より土屋のほうが好みなんだって」
 江田に聞いて以来、いつか問い質されそうだと思っていたから溜息を吐いた。
「すみません、それ、俺覚えてないんすよ」
「酔ってたんだよね?」
「そうですね、酔ってましたね」
「素面だとどうなの?」
「いや、そもそも男に好みとかないですから」
 一ノ瀬は目元から指を離し、ついでに眼鏡も外して目を擦った。
「でも酔っ払って言ったってことは、無意識にそう思ってるってことだよね」
「いやだから多分それはほんとの俺じゃないっすよ」
 一ノ瀬は椅子の背凭れから身体を起こし、テーブルに前屈みになり、パソコンの蓋の縁から桜澤を見上げてきた。眼鏡がない顔は確かに彫りが深くて、日本人というよりラテン系に近い男前だった。だが、やっぱりツルピカの七三ツーブロックが怖すぎる。
「桜澤くんから見て土屋と俺の差って何? そりゃ土屋のほうが背は高いけど、でもそれはとりあえず努力してもどうしようもないことだから置いといて」
「一ノ瀬さん、ちょっと邪魔くさいんであんまり近づかないでもらえます?」
「ああ、ごめんごめん」
 眼鏡をかけ直した一ノ瀬は、立ち上がって机を回り込んでくると桜澤の隣の椅子に腰を下ろした。しかも桜澤の横顔に正対して座る。
「ねえねえ、俺のどこが悪いの?」
 色々、と思ったが先輩だからやっぱり言えない。似非イタリア人が乗り出して来たので、桜澤の上体は斜めに傾いた。
「いえ、どこも悪くないです。一ノ瀬さんはステキっすよ」
「心がこもってないなあ。悪い所は教えてくれないと直せないよね?」
 桜澤はさらに傾いた。
「いや、いやいや、直すことないと思いますよ」
「そんなこと言わないで! 俺はよりよい俺になりたいんだよね」
「だって言ったら絶対怒りますよね、一ノ瀬さん」
「言われてみないと分からないなあ」
「って、だから、近づかないでくださいって! そのパツパツなスーツがヤなんですってばっ」
 桜澤は思わず喚き、勢いで傾きを一気に解消した。桜澤が詰め寄ったから今度は一ノ瀬が仰け反った。上体を捻って一ノ瀬に向かい、男らしく厚い胸板に指を突きつける。
「何が怖ぇって、俺の鍛えた体を見ろみてえなこれ見よがしなそのピッチリ感!? ボディペインティングかっつーんですよ! あと、その台風来ても乱れなさそうな髪も、全開のデコも、セルフレームでウェリントンってありがちな眼鏡も、なんかそういうのが相俟ってすんません生理的にすげえダメっす!!」
「えっ、それだけ!?」
「まあ大体そん……はぁ!?」
 怒るどころか、一ノ瀬は満面の笑みだった。
「だって、今桜澤くんが言ったのって、全部服とか髪型とかの話だよね? なんだ、それだけ!」
 晴れ晴れとした顔で言うと、一ノ瀬はさっさと立ち上がり出て行った。
「なんだアレは」
 こんな時に限って背後に貼り付いていない土屋を内心で罵って、桜澤は深い溜息を吐いた。