untitled – TBD 12

 桜澤には苦手なモノがある。そりゃ誰にだってあるだろうが、今言っているのは食い物だとか虫だとか、そういうものではなくて人間の話だ。正しく言うと、苦手なヒト、なのだが、どうもモノ、と呼びたくなる。
 目の前に立つ人物に煙を吐きかけながら、桜澤は気のない挨拶をした。
「お疲れさまでーす」
「桜澤くん、今、俺に煙かけた?」
「まさか。そんなことするわけないですよ」
「だよね」
 黒いセルフレームの奥、くっきり二重の目が疑い深そうに光ったが、とりあえず納得したらしい。かっちり固めた七三ツーブロックの頭を斜めに傾けこちらを見下ろしながら頷く。
「ところで、なんでここにいるんですか? 一ノ瀬さん」
「なんで?」
「煙草吸いませんよね」
「土屋を探してるんだけど、見てない?」
「俺がここに来てからは来てないっすよ」
 一ノ瀬は土屋の部の先輩で、最近土屋を目の敵にしていると専らの噂だ。経理の女子からは狙っていた子が彼を振って土屋と付き合っているからだと聞いたが、奈緒美は一ノ瀬と顔見知りではないと言っていたから、その説はデマだろう。
 白シャツ、ナロータイと合わせたラペルの狭いスリムなスーツは明るい青で、やたらと光沢がある。スリムを通り越してほとんど身体に吸い付いているんじゃないかと思うくらいフィットしていて、パンツの裾はこれでもかというくらい細くて短い。靴はスーツから浮きまくる——と個人的には思う——眩しいくらい明るいキャメル。多分、マローネ・エ・アズーロの法則ってやつに則っているのだろう。
 まあ、実際のところ、顔はハーフみたいで男前だし、お洒落な会社員として雑誌のスナップなんかに載っていそうな男ではある。
「まったく、いつもフラフラしてるんだからあいつは」
 それはまったく否定しない、と内心で深く頷く。
「見かけたら言っときます、一ノ瀬さんが探してたって」
「うん、頼むよ」
 去っていく一ノ瀬の刈り上げた後ろ頭をぼんやり眺めていたら、江田が入ってきて、別の会社の知らない奴らが出て行って、江田と二人になった。
「今の一ノ瀬さんだろ? あの人煙草吸わないんじゃなかったっけ」
「健康オタクだっつー噂だからな、身体に悪いことはしねえんだろ。土屋探してるみてえ」
「土屋なら、ここ来る前に会議室で見たけど」
「じゃあ自力で見つけりゃいいな。目ぇついてんだし」
 江田は桜澤の顔を見てちょっと笑った。
「お前一ノ瀬さんに冷たいよなあ。女子には結構人気あるんだぜ」
 何故か肩を震わせて笑いながら江田は煙草を銜えて火を点けた。
「そうなのか? 確かに顔はいいし、背も高いしな。でもさあ、あの自意識過剰っぽいとこっつーか、スーツがピチピチなとこが怖え。つーかなんか土屋のこと目の敵にしてるって話だし、別に俺は土屋の母親でもなんでもねえけど同期として——って何そんな笑ってんだよ?」
「いや、だって」
「何だよ?」
「お前のせいだろ、土屋が目の敵にされてるってのがほんとだとしたら」
「はあ?」
 江田は笑いながら煙を吐き、半年くらい前に退職した社員の名前を言った。
「送別会覚えてるか? 部じゃなくて全体のやつ。第二の子が、一ノ瀬さんが営業で一番格好いいですよね、みたいなこと言い出して、隣に座ってたお前に振ってさ」
 酔っていたのか単に聞いていなかったのか分からないがまったく記憶にない。
「そしたらサクラ、すげえ真顔でお前、俺は土屋の方が好みですって」
 その時のことを思い出したのか、江田はげらげら笑った。
「土屋は当然だみたいな顔して煙草ふかしてるし。あれからだろ、一ノ瀬さんの土屋への当たりがきつくなったとしたら」
「……」
「プライド高いから、傷ついたんだろうな——って、どうした? サクラ」
「いや……」
 半年前。
 半年前といえば、俺が土屋に——。
「いやいやいや」
「何?」
「いや何でも! 全然関係ないこと思い出しただけ!」
 考えたって仕方がないから、桜澤は吸殻を灰皿に投げ入れた。
「そういえば、最近あんまり酔っ払わねえな、サクラ。健康診断近かったっけ?」
「え? うん、いや、何だ、その、肝機能って大事じゃん。じゃあな!」
 足早に喫煙所を出たところで、尻ポケットの携帯が桜澤の内心の如くブルブル震えた。
——十九時半にエレベーターホール集合。無理なヤツは現地直行な。
 久保からのメッセージを見て思い出した。飲み会だ。
 今日も絶対酔わないと心に固く誓いながら、桜澤はつい大きな溜息を吐いた。