untitled – TBC 9

 卑怯だと罵られても仕方ない。そう思って頼んだが、一ノ瀬は笑っただけだった。
「いいよ、俺は」
 本当のところどうなのか勿論土屋には分からないが、少なくとも嫌ではないらしく、コーヒーカップを置いてスマホを取り出した。
「でも、呼ぶだけだよ。来ないかもしれない」
「──そうなんですか」
「うん、一時的なことだからさ。別にお互い気持ちがあったわけじゃないし」
 土屋はその日、丁度出先から戻った一ノ瀬を捕まえ会社近くのコーヒーショップに連れ込んで、こんなことを頼むのはどうかと思うが桜澤を代わりに呼び出してくれないかと頭を下げた。
「俺はいいけど……彼、怒らない? 大丈夫?」
「すんげえ怒るでしょうね。多分怒髪天っすよ」
「マジで」
 そう呟いてちょっと笑い、一ノ瀬は液晶画面から土屋の顔に目を移して「送ったよ」と告げた。
 どうせだから休憩して帰るという一ノ瀬を置いて、喫煙所に寄ってから自席に戻った。
 桜澤が元嫁のはとこに殴られてから一週間、土屋なりに色々考えた結果だった。
 連絡しても無視されると思って臆したわけではない。かと言って驚かせたいわけでも勿論嫌味でもなかった。ただ、桜澤の取り繕わない顔を見てみたかったのだ。一ノ瀬ではなく土屋がそこにいたときに、桜澤がどんな顔をするのかを。
 土屋への思いというのが、本当に一ノ瀬が言うようなものなのか──土屋が想像してそうであればいいと思うものなのか。真正面から訊ねたところで、桜澤が今更素直に内心を吐露するとは思えない。それなら力尽くで引っ張り出すまでだった。
 その後は事務仕事に精を出し、いくつか客先を訪問して帰社する途中でふと思い立って奈緒美に電話をかけた。
「お前は相原には勿体ねえ」
 あちらが応答するなり言うと、奈緒美は電話の向こうで馬鹿笑いした。
「どうしたの突然。ていうか土屋、自分のときもそんなこと言ってたよね」
「ああ」
「ねえ、一応訊くけど誤解してないよね?」
 当時から相原と付き合いがあったか疑っていないかということだろう。
「ああ」
「そっか、よかった」
「なあ」
「ん?」
「お前は誰にも見合わねえくらいいい女だったと思ってたし、今も思ってる」
「……ちょっと、何ぃ」
 奈緒美の声は近いようで遠く、通り過ぎる車のタイヤの音に紛れそうだった。
「褒めすぎでしょ」
「そんなことねえ。でも相原はすげえいい奴で、お前は相原には勿体ねえけど、相原はお前に合ってるよ」
 自分には合わなかったのだ。というか、自分が奈緒美には見合わなかったのだ。
 当時も思っていたことをまた思い、奈緒美の時間を無駄にしなくてよかったと心底思った。自分から別れた相手は結局彼女が最初で最後だ。だから何だというわけではないけれど、進んで桜澤の逆鱗に触れようというときだ、幸せにあやかってもいいだろう。
「だから──」
「もう、仕事中なんだから!」
 話しているのに突然電話が切られたが、泣きそうな声だったから怒ったわけではないはずだ。暫く見ていない奈緒美の顔を懐かしく思い出す。つい頬を緩めた土屋のスマホが震えてメッセージのプレビューが表示された。
 ──既読になったよ。連絡来ても出ないからよろしく。撃沈したら奢ってやるから電話しな
 にっこり笑うスマイルマークがついていて、土屋は思わず溜息を吐き、会社に向かって歩き出した。

 所謂デザイナーズホテルと言われる中でもかなり洒落ている方だろう。駅から近いが喧噪は遠く、建物の中もまるで人がいないかのように静まっていた。
 場所は一ノ瀬に任せたので──なりすましなので当然だ──土屋も初めて訪れるホテルだった。内装から何からセンスがよくて、女を連れてきたら喜ぶだろうなと思う。
 ソファの上にビジネスバッグを放り出し、部屋の中を見回した。部屋はツインだがビジネスホテルのそれとはまるで違ってかなり広い。片方のベッドの足元に腰かけ煙草を取り出しかけてまた戻した。喫煙できる部屋かどうか確認していなかったが、このご時世だ、多分禁煙室だろう。加熱式ならまだしも、紙巻を吸うのはさすがに気が引ける。それでも諦め悪くその辺を見てみたが、やはり灰皿は見当たらなかった。
 手持無沙汰で無駄に部屋の中を見て回り、どこもかしこも洒落ていて綺麗だと確認するまでもないことを確認する。インテリアに興味でもあれば別だが、余程趣味が悪くなければホテルの内装なんて何だっていい。土屋は嘆息し、放り出したビジネスバッグを拾い上げてソファに腰かけた。
 タブレットを取り出して起動する。個人所有の端末だが、仕事の資料はクラウドサーバーに保存してあった。することがないなら仕事でもしようと思い昼間作りかけだったチャートを開いて手を入れ始めた。
 開いた資料にうっかり没頭していたから、時間が経っていたことに気付かなかった。土屋はドアの鍵が外れる金属音で我に返った。
 フロントでカードキーを受け取った桜澤が部屋のドアを開けた音だ。
「一ノ瀬さん?」
 タブレットをスリープにしてバッグにしまう。やたら緊張して、バッグのファスナーを閉める指が少し震えた。ドアから客室までの短い距離を聞き慣れた声がゆっくり近づいてきた。
「何回も電話したのに出ねえんだもん」
 つい昨日も、同じ部の若い奴とは気軽な様子で話していた。だが、そのときとも明らかに違う気安さが滲んだ声に、胃がぐるりとひっくり返りそうになり、土屋は奥歯を噛み締めた。
 俺とは口もきかないくせに。子供みたいに避けるくせに。嫉妬心が胃の中で暴れ内側から土屋を揺さぶった。
「どうしたんですか一体、こんなとこ呼び出して」
 桜澤の声がすぐそこまで近づいた。
「ここ来んのはもう止めるって言ったし、あれから来てねえんだし。なんかあんなら」
 土屋を見た瞬間の桜澤の顔。見たかったのはそれだった。
「会社で話せば──」
 足はその場で止まったが、声は止まらず暫し続いた。
 目を見開いた桜澤の顔は驚くほど無防備で、まるで子供みたいに見えた。
 見たかったものがそこにあった。半ば確信し、半ば疑っていたそれが。
 土屋を認めて一瞬じわりと潤んだ桜澤のきれいな白目。その表情に間違いなく土屋を求める何かが見えたのだ。
「……お疲れ様」
 桜澤の顔が瞬間的に赤くなった。首筋と耳朶に浮かぶきれいな血色に、状況を忘れて束の間見入る。
「──お前……!」
 きつく食いしばった顎に怒りと狼狽のほどが表れる。桜澤は何か言おうとして開けた口を突然手で押さえて逃げ出しかけ、その場で唐突にバランスを崩した。
 膝から力が抜けたのか、身体がぐらりと大きく傾ぐ。咄嗟に掴んだベッドスプレッドでは傾く身体を支えきれず、桜澤は敷き詰められたカーペットの上に膝を突いた。
 スモーキーな色味のベージュに洒落た織柄の入った布が引っ張られ、桜澤の手元にわだかまる。腰を上げて桜澤に歩み寄り、しゃがみこんで顔を覗き込んだ。桜澤はほとんど泣き出す一歩手前で、だが頑固に踏み止まっていた。
「サクラ」
「何なんだよ!」
 頬に触れたら思い切り払いのけられたが、勢い余って床に尻をついたのは桜澤だった。桜澤は布を握り締めたまま吼えた。
「一体何だよ、何でお前がここにいんだよ!」
「一ノ瀬さんに頼んで、お前を呼んだのは俺だから」
 桜澤の赤かった顔が今度はさっと青ざめる。狼狽が駆逐され憤りだけが残った青白い頬。桜澤の左目の端がひくりと引き攣った。
「頼んだって……お前ら二人して馬鹿にしてんのか? それとも嫌がらせかよ」
「嫌がらせなんかしてねえ。馬鹿にもしてねえ。俺が呼んでも来ねえと思ったし」
「一体何の意味があって」
「顔を見たかった」
「そんなもん会社でいつも見てるよな!?」
「一ノ瀬さんじゃなくて俺がここにいるのを見て、お前がどんなツラするのか見たかった」
「何──?」
 桜澤の表情が険悪になる。本当は伸ばしたかった手を握り締め、土屋は続けた。
「怒らせようとしたわけじゃねえよ、怒んのは分かってんだし。そうじゃなくて、お前が怒り出す一瞬前に本心が見えねえかって期待した」
「……本心って」
「サクラ、お前は俺のことが好きだって、一ノ瀬さんが言ってた」
 桜澤は途端に無表情になり口を噤んだ。土屋を真正面から見つめる桜澤の目。目を見ればすべてわかるなんて、そんなのは迷信だ。
 桜澤の目に土屋が解読可能な何かは浮かんでおらず、ただその虹彩にホテルの柔らかな明かりが反射しているだけだった。