untitled – TBC 10

「圭くんは私のこと大事にしてくれたって、ちゃんと分かってるよ。ごめんね」
 陶子はそう言って顔を上げ、出て行った。今から半年ほど前の話になる。
 桜澤は分かっていた。誰よりも、多分陶子その人よりも知っていた。
 大事にしていた。けれど、自分がどれだけ彼女に不実だったか。
 腹の底に沈めたはずが沈めきれず、時折泡のように浮かび上がっては消える思いをどれだけ後生大事に抱えているか。
 小さく硬くて、踏みつけても投げ捨てても壊れない恋心。そんなものは欲しくなかった。毎日鈍器で殴りつけて、粉々にしてしまおうと試みた。そうして欠けたのは凶器の方で、結局壊すことはできなかった。
 自業自得、後悔という名の爪が一時も休まず桜澤の内を、外を掻き毟る。

 陶子のことが好きだった。
 それだけは誰に後ろめたく思うこともない。陶子に対する思いは土屋に対するそれとは違ったけれど、だからと言って優先順位が低いとか、劣っているということでは決してなかった。
 そうでなければ、どうして一生を共にする約束などするだろう。自分だけで済む話ではない。他人の人生にも責任を負うのだから、誰がどう思ったにせよ、桜澤にとってそれは真剣なものだった。
 だから酷く傷ついたのだ。
「触らないで!」
 まるで汚いものか、そうでなければ恐ろしいものから逃れようとするひとのように。
 一切の手加減なく桜澤の手を振り払った瞬間の陶子の顔。今ではもうぼんやりと霞んでいる。忘れたいと願ったら、いつしか記憶が曖昧になっていた。
「妊娠できないならセックスする意味なんてないよ!」
 桜澤を拒んで手を払いのけ、彼女は叫ぶように口にした。
 俺だけでは意味がないのか。一体いつからそうなった。授かるとしても、望むとしても、それはお互いがいてこそではなかったのか。
 拒否され続けた半年。陶子が出て行くまでの半年。努力の期間が短すぎると言われたらそうかもしれない。だが、他人の経験と比べたって仕方がないし、桜澤にとっては心が折れるのに十分な時間だった。
 かたちは依然として夫婦でありながら、修復不可能なまで冷えてしまった関係に落胆する自分と安堵する自分。そんな風に楽になってしまっていいはずがないと思うのに、理性と感情が乖離するのを止められなかった。
 陶子との溝が深まるにつれ、重しが取れてしまったかのように捨てたはずの心の半分が浮かび上がり、沈めることができなくなった。
 喫煙室に立つ背中を遠くから眺め、結局そのまま踵を返したことが何度もあった。二人でよく立ち寄ったコンビニの前で意味もなく立ち尽くし、そのまま一歩も動けなくなったことも。
 俺がこんなにも面倒くさい男だということを土屋は知らない。知ろうともしなかった。土屋にとって桜澤は、「特別な、面倒くさくないサクラ」だったから。土屋がそれを求めたから。そして、それ以上を求めなかったからだ。
 五年前のことが流れる水のように桜澤の中を流れて消えていく。
 好きになってしまったなんてばれたら一体どうなるか。土屋が付き合った数多の女たちと同じになるだろう。長年見てきたその後の展開を読み間違えるはずもない。
 多分自分は「特別ではないただの恋人」になるだろう。そして同時に「面倒くさいサクラ」になるだろう。
 分かり切った結末に心底怯えた。面倒くさいと冷めた目を向けられることが怖かった。
 好きです付き合ってくださいと言われるよりよほど刺さった「お前は特別」、それがいつしか足枷になって桜澤を縛り付け、そこから一歩も動けないままにした。
 何が悪かったのだろう。恋愛感情なんてなかったはずだ。友情は、こんなふうに育つはずではなかったのだ。
 土屋はどうして自分を特別だと言い、抱きたいと言い、一緒にいたいと願うのか。理解できなかったから考えた。土屋は大事な友人だから、真剣に。
 そうして毎日土屋のことばかり考えて、いつの間にかそうなっていた。考えすぎか。思い込みによる錯覚なのか。今となってはもう分からない。
 ずっと一緒にいたいと思ったが、桜澤のそれは土屋の求めるものとは違っていたから、求めることはできなかった。土屋がくれるのは半分だけだと理解して、受け入れなければ。全部ほしいなんて言ってはいけない。一緒にいたいなんて、この後の人生をどうするかなんて、そんな面倒くさいことを言っては駄目だ。今更縛ったりはできないから、それなら離れるしかないのだろう。

 様子がおかしいと心配してくれた一ノ瀬の前で崩れてしまったのは、仕草が土屋に似ていたから、ただそれだけ。
 三回会って三回とも泣きたいくらい後悔したが、絶対に口にはしなかった。全部分かって手を差し伸べてくれた一ノ瀬の同情心。目の前のそれに縋った自分の弱さは唾棄すべきものだと思うけれど、そのことで一ノ瀬の優しさまで踏みつけにするのは嫌だった。
 一ノ瀬に抱かれたホテルの部屋の、見慣れたベッド。あの日、絡み合う身体の下で艶めかしく皺になったファブリックは、今はきつく握った拳の下で無惨によれて固まっていた。
 触ってほしい。触りたい。
 陶子ではなく、目の前のこの男に。
 そんな資格もないのに、欲望だけが滴る涙のように溢れ出す。睫毛の先から、目尻から。
 陶子に出会って捨てたはずの半分が今目の前に立ち現われて、陶子に渡せなかった半分とひとつになりたいと訴えた。
 土屋の指がのびてきて桜澤の頬に触れる。流れ出したのは欲望ではなく涙だったということに桜澤はそれでもまだ気が付かなかった。
「駄目だ──!」
 我に返って払いのけようとした手は桜澤の拒絶を掻い潜って腰に回り、有無を言わさず桜澤を引き寄せた。
 数年ぶりに感じる土屋の身体。スーツの上からでも分かる変わらない骨と肉の感触に下腹から頭のてっぺんまでぞわぞわと何かが走り抜けた。
「どうして」
 不機嫌な声が少しでも遠くなればと腕を突っ張る。
「俺は……だから、最低だって──!」
「俺には関係ねえ」
 低い声が迷いなくそう告げて、大きな手が桜澤の腰を無造作に掴んで逃げ出さないように固定した。
「誰が一番悪くて最低な人間かはお前と嫁で決めりゃいい。一番が俺だって言うならそれで構わねえ。お前らがどう思ったとしても俺は関係ねえし、決める権利もねえし──面倒くせえし」
 途端に竦んだ桜澤の頬に土屋が触れた。
「って、思うわけねえだろ」
 思わず顔を上げたら目が合った。五年間一度も会っていないわけではなかった。寧ろ毎日顔を合わせていたと言ってもいい。部署は違うが同僚で、仲のいい同期。装うことは簡単だった。仕事だと思うことができれば、その時は。
「なあ──俺の言い方が悪かったんだ、ごめん」
 何のことか分からない。戸惑う桜澤の目を正面から見つめ、土屋は口を開いた。
 だるそうな、不機嫌そうないつもの顔。しかし、桜澤を見るときだけは熱っぽい目つきをする。知っていたが忘れていた。もうずっと長い間。
「お前は面倒くさくねえ、って。何で続けたいんだって訊かれて、俺はいつもそう言ってた。でも言い方が間違ってた」
 微かに唸る空調。厚い壁に囲まれた部屋は、外の世界とは隔絶されたように無音だった。同じ階に客がいるのかも分からない。自分の少し速い息遣いが耳の内側でやたらと響く。
「お前だから面倒くさくねえって、そう言えばよかった」
 言葉遊びじゃあるまいし。言い方を変えただけじゃねえか。
 鼻で嗤う自分の声が遠くから聞こえ、すぐに消えた。ああそうだ、わざわざ言われるまでもない。こんなことで。
 それだけで。
「圭史、お前のことを面倒くせえって思うことなんか絶対ねえ。そうやって」
 そう言ってほしかったって、ちゃんと。

「──言えばよかった」