untitled – TBC 8

「あー、サクラ!」
 給湯室の入り口に立っていた江田が馬鹿でかい声で廊下の向こうから歩いてきた桜澤を呼び、土屋と相原は反射的に江田と同じ方に目を向けた。
 身体ごと向き直った相原と違って土屋は肩越しだったが──咄嗟のことでも動くのが面倒だったのだから我ながら徹底している──江田に呼ばれてこちらを向いた桜澤の顔がぎくりと強張り、深い落とし穴でも見つけたようにその場で急停止したのを目の当たりにした。
「最終週の金曜さ──っておいちょっと、サクラぁ?」
 桜澤はくるりときれいに回れ右して大股で遠ざかり、江田と相原は呆気に取られて口を開けていた。
「何だ、忘れ物かな?」
 相原が呟き土屋の顔を見た。
「それか便所?」
「俺が知るか」
 素っ気ない土屋の言い方に江田がちょっと眉を上げて口を開きかけたが、相原が話し始めるほうが早かった。
「そういや土屋、お前サクラと喧嘩した?」
「してねえ。何で」
 少なくとも土屋にとっては喧嘩ではなかったから嘘ではないと思って答える。相原は「そっか」と呟いて小銭入れを尻ポケットに突っ込んだ。
「じゃあやっぱ今になって嫁不在が堪えてきたとかそういうことかな。なんか今週ずっと様子が変なんだよ」
「様子が変って? つーかそれが土屋と喧嘩に直結って相原、サクラも子供じゃねえんだから」
「いや、だってさ」
 相原は紙コップのコーヒーを啜りながら言う。
「サクラって何だかんだ打たれ強いし、つーかどっちかっていったら打つほうじゃん。何か変なときは大抵土屋に怒ってるときだし。それに今週一遍も口きいてないよなお前ら」
「──俺が腹を立てられてる前提か」
「え、そうじゃないときないよな?」
「お前案外ひでえ奴だな、相原。奈緒美に言いつけるぞ」
「いや、奈緒美も同じ意見だと思うけど……なあ、江田?」
 江田が土屋を横目で見て「だな」と頷き、マグカップのお湯に浸したティーバッグを上下させた。江田が結婚して変わった唯一の点はこれ、紅茶党になったことだ。
「ま、それはいいや」
「いいのか」
「サクラには俺から言っとくわ。で、土屋は行けるのな」
「ああ」
 相原の婚約祝いの飲み会の話をしつつ、連れだって席に戻る。それぞれ部署は違うが、フロアの入り口──複数ある──は共通だ。
 桜澤の緊張した様子には、相原に言われるまでもなく気づいていた。
 気まずくないわけはないと思っていたが、ここまであからさまに避けられるのは、実は想定外だった。過去のことを考えても表面上は当たり障りなく振舞うかと思っていたのに、江田ではないが、今の桜澤はまるで小学生だ。
 他の同僚と話している桜澤はごく普通の態度、ごく普通の笑顔なのに、土屋を認めるとあっという間にその場から消えてしまうから簡単な会話すらできていない。
 嫌悪や怒りから避けられているわけではないことくらいは分かっていた。そうはいっても視線を逸らし無言で立ち去る背中を眺めて平気でいられるほど人間が出来ていない。
 ちょうど席に座るところだった桜澤が同じ営業の若い奴に話しかけられ、差し出された何かのプリントアウトを見て頷いていた。
 気安くはないが感じのいい笑顔。昔近所のコンビニでバイトしていた大学生と話していたときもいつもあんな感じだった。
 若い奴が桜澤に頭を下げ、桜澤はプリントアウトとそいつに渡しながら何か言って笑った。何気なくこちらに振り向けられた視線が土屋を捉えて硬くなり、桜澤はきれいに笑顔が消えた顔を隠すように、パソコンの蓋を開けて俯いた。

「誠意を見せるアイテム……?」
 江田は最近お気に入りのジンジャーハイボールとやらを飲んで顔を顰めた。ハイボールがまずかったからではなくて、土屋の質問が唐突だったからだろう。
 桜澤のあからさまな挙動不審にさすがにおかしいと思ったのか、江田に飲みに誘われた。その席で諸々白状した後──勿論一ノ瀬と桜澤のことは伏せたが──元既婚者に確認してみようと思って訊ねたのだ。
「いや……てか、普通に女に渡せるもんで、サクラにやれるもんあんまりなくねえ?」
 まったくもってその通りだ。土屋も最初から江田に頼っているわけではなかった。仕事以外のことをこんなに真面目に考えたことはないと断言できるくらい考えて、しまいには頭痛で眠れなくなったくらいだ。
 桜澤が望むか望まないかは度外視しても、法的な婚姻はそもそも制度がないから論外。パートナーシップ条例もないよりはいいが、結婚と同等の権利を保障されるものではない。
 他に思いつくのは指輪、住居。形だけだの式、それから子供。だが、どれも何か違う気がした。
 指輪や住居を用意することはできる。しようと思えば今すぐにでも。だが、果たしてそれが土屋の表現したい何かに繋がるのかいまいちよく分からなかった。だから、江田に訊ねてみたのだ。
「──俺はサクラの気持ちは分かんねえけど」
 江田はつい数日前にベリーショートにしたばかりの髪に手をやって、そこに長い毛がないのに驚いたように手を離した。
「同じバツイチのおっさんの気持ちとして言わせてもらえば、指輪とか、暫くいいかなって思う。ただ、俺とサクラじゃ状況も全然違うし、同じじゃねえと思うよ」
「そうだな」
「でも、何だっていいと思うけど」
「……」
「お前、昔はサクラサクラってあいつに甘えてばっかりで結局そのままだっただろ? 終わらせてお互い前に進もうぜって環境を整えたのもサクラだよな」
 まったくその通りだが、当時はそれも分からなかった。どうして今のままではいられないのか。土屋が思うことはただそれだけだった。
「今は真剣に考えてるって伝われば物なんかなくてもいいんじゃねえの」
 今度こそ髪に手を突っ込んだ江田はそう言ってハイボールをごくりと飲んだ。
 自分のことにはひどく鈍いが、その代わりのように他人のことには鋭いと昔からよく言われる。江田と仲のいい相原も知らないことだが、江田にはずっと好きな女がいると土屋は知っていた。
 だが、いくら好きでも彼女と結婚する気は江田にはなくて、結婚したのは別の相手、当時の彼女で優香という女だった。江田と優香が離婚に至った理由は知らないけれど、江田が心の底で別の女を想い続けたから、とかそういうことでは多分ない。
 江田の女への想いは確かにそこに存在するのに、それはもはや江田の一部で日々の生活とは遠いところにあるらしい。自分も桜澤もそうできればよかったのか。いや、桜澤は実際そんなふうに腹の底に飲み込んでいたのに、引きずり出してしまった自分が悪いのかもしれなかった。
「言って聞いてくれるならな」
「ああ、まあ露骨に避けられてるよなあ」
 頷いて煙草を銜えたら、江田は「でも」と言って少し笑った。
「今までは普通に接する余裕があったけどなくなったってことだろ? それって悪いことじゃねえと思うよ。分かんねえけど、なんか……サクラもお前も、タイプは違うけど、感情がぐっちゃぐちゃになったりしないタイプだったからさ」
「そうか?」
「そうだよ。明日話せよ、明日」
「何で明日だ」
 眉を上げた土屋に江田はおしぼりを振って見せた。
「そりゃお前、金曜だからだろ。明日聞いてもらえなかったら土日に家まで押しかけろよ。平日だったらそういうわけにいかねえし、仕事してたらその間に立て直しちまうぞ、サクラは」
「……男同士だぞ」
 応援されるようなことではないと思うから一応そう呟いたら、江田はちょっと黙っておしぼりの袋を捩じり、縛って小さくしてテーブルの上に転がした。
「抵抗がないとは言わねえよ。お前ら二人とも友達だし、マジかよ、それでいいのかよって気持ちはそりゃあるけど」
「……」
「でも、性別とかそういうのはおいといて、ほんとに好きな相手に好きって言うチャンスがあるって、当たり前のことじゃねえんだぞ。そういう機会があるなら、捨てんのは馬鹿だ」
 江田が誰のことを思ってそう言ったのかは分からない。単なる一般論だったのかもしれない。
「覚えとく」
 半分残った土屋のジョッキを押して寄越して、江田は呼び出しボタンを押し込んだ。店のどこかでピンポーンと陽気な音がする。
「次頼むぞ! さっさと飲め」
 壮行会なんだからな、と笑う江田に、土屋は小さく微笑み返した。