untitled – TBC 5

 桜澤の新しい住まいは以前のマンションよりやや駅よりの物件だった。真新しいというほどでもないが、築年数は十年以下と思しき独身者用の低層マンションで、部屋数も多くなさそうだった。以前はドアの前までは誰でも行ける物件だったが、今回はオートロック完備らしい。
「地元にお帰り、って感じだな」
「ああ、まあほんとの地元じゃねえけどな。でも社会人になってからずっと住んでたし──」
「あの、すみません」
 突然割り込んできた声に首をめぐらすと、男が立っていた。桜澤くらいの身長の若いやつ。土屋の印象はその程度だった。特筆すべきところは何もないごく普通の今時の男だ。見たところハタチをいくつか超えたくらい。私服だし、会社員ではないかもしれない。
「はい?」
「えっと、ここに住んでる人っすか?」
 やはり会社員ではなさそうだ。
「いや、俺は違うけど」
 答えた土屋の陰から桜澤が顔を出すと、男の顔が途端に強張る。対して桜澤はまったく表情が動かず、明らかに男を知らないようだった。
「……あんた桜澤だろ」
「そうですけど?」
 桜澤は男の顔を見て瞬きし、数秒黙って首を傾げながら言った。
「もしかして無言電話の人?」
 驚いて桜澤の顔を見たが、桜澤は土屋を見ていなかった。電話番号を変えたのは単に離婚して心機一転したいのかと思っていたが、もしかしたらそうではなかったのか。
「あと、昨日俺のこと突き飛ばした人? 携帯壊れたよ、お陰様で」
 聞き捨てならないことを言った桜澤はしかし案外平静な顔をしていた。
「突き飛ばされたって──」
「うるせえよ土屋、ちょっと黙ってろ」
「そうだよ、俺だよ」
「……そっか、じゃあ陶子の知り合いか」
 口を噤んだ男から土屋に視線を移し、桜澤は面倒くさそうに言った。
「昨日、どうしても渡さなきゃなんないもんがあって、元嫁んとこ行ったんだわ。その帰りに駅の階段で突き飛ばされて、スマホだけ落ちた」
「お前それ! 怪我でもしたら」
「本気じゃなかったんだろ。そんな強く押されてねえもん」
「つったって、転げ落ちねえとか誰も保証できねえんだぞ!」
「落ちればよかったんだよ、お前なんか」
 若い男が土屋を遮って大声を出した。
「陶子はずっと、毎日泣いてたんだからな! お前のせいで」
「……だから、あんたどこの誰なの」
 桜澤の声は冷たくて、土屋ですらちょっと怖気づいた。桜澤の戦闘力は標準か、もしかしたらそれ以下だ。背丈はそれなりだが、細い腕には必要最低限の筋肉しかない。
 しかし土屋が知る限り、華奢なその外見からは想像できないくらい気が強い。
「俺は」
 若い男にもその冷たさは通じたらしい。若干怯んだ表情を見せつつも、男は引き下がらずに踏ん張った。
「陶子の親戚だよ」
「──ああ、はとこの克己くんか……」
 嫁の又従兄弟の顔を知らなくたっておかしくはない──というか、知らない方が多いだろう。冠婚葬祭がなければ親兄弟と会うだけだ。せいぜい従兄弟の名前を知っているくらいではないか。当のはとこも名前を知られていたことが意外だったと見えてぐっと詰まった。
 ここまでくれば誰だって想像できる。克己くんとやらは仲がいい年上のはとこに淡い恋心でも抱いているのだろう。その彼女を取った上、泣かせた男が憎いとそういうことだ。
「陶子が泣いてるのは確かに俺のせいだけど、俺だけのせいでもねえよ。お互い色々あったし、それは克己くんに説明する必要ねえし、それに今更」
「言い訳すんな! お前のせいで陶子はずっと不幸だったろ! だから俺がずっと支えてたんだお前じゃなくて! やっと別れたのにあいつはお前のことばっかり」
「……そう言われても」
「だけどもう俺のだからな! 子供だってできたんだ! もう絶対誰にも渡さない」
 咄嗟に、まるで落ち目の俳優かかつてのアイドルが主役の二時間ドラマみたいな展開だと不謹慎なことを考えた。
 馬鹿でかい声が響いたが、幸い人通りは絶えていた。ついさっき土屋の横を通り過ぎて行った数人が、声が届かないくらい遠くまで行っていたらいいとぼんやり思う。
「……ふうん。そう」
 子供ができたということは、離婚後始まった関係ではない。だが、桜澤の表情は変わらなかった。青ざめた顔色だけがその事実を知らなかったことを物語り、しかしそれは少なからず親しい土屋だからこそ分かったことだ。
「──そんだけかよ……やっぱりお前みたいな冷たい野郎と別れてよかったんだ」
「それは否定しねえけど、そんで俺にどうしてほしいの。無言電話じゃ何も伝わんねえし、ここまで来たのは文句言うためだけなわけ」
 克己が踏み込んだのを、桜澤は見ていたのかどうか。
 暴力沙汰に慣れている人のそれではない、しかし決して弱くない打撃が桜澤の顔面に当たった。唇が切れたのは自分で噛んだからかもしれない。ビジネスバッグが手から滑り落ちたが、桜澤は倒れなかった。
「二度と陶子に近づくなよ!」
 右手を抱えるように駆け去る克己を追いかけようと思えば追いかけられたが、土屋はその場に突っ立っていた。
「サクラ……」
「痛え」
 地面に落ちたバッグを拾い上げ、桜澤の顎を掴んで上向かせる。口の端が赤く腫れ始めて、切れた唇から血が滲んでいた。
「とりあえず部屋行って消毒とか──上がっていいよな?」
 バッグを受け取った桜澤は頷いて、土屋から目を逸らしたままマンションのエントランスに足を向けた。自動ドアに映った桜澤と一瞬目が合う。すぐに俯けた桜澤の顔は青白く、痛みか、そうでなければ泣くのを堪えているようにも見えた。

 部屋に上がり消毒液や何かを要求したら、そんなものはないという返事だった。だったら先に言えよと思ったが、今更言っても仕方ない。
 面倒くせえなと思いながら一旦外に出て、コンビニで買える絆創膏やら何やらを買って戻った。
「何ともねえよ、別に」
「でも一応消毒しとけ」
 渡した消毒液をティッシュに吹き付け、染みるとか却って痛えとかぎゃあぎゃあ言いながらも桜澤は一応の手当てを終えた。口の端は転んでぶつけるには妙な場所で殴られたとしか見えなかったが、幸い明日は土曜日だ。土日で腫れも引くだろう。
 このまま「それじゃあな」と帰るのが正しい振る舞いというものだろうかと暫し逡巡したが、桜澤だって何も訊かれないとは思っていないだろう。自分に都合よく考えて、まだ何もない部屋の床の上に腰を下ろした。
「サクラ」
「ん? あー、えーと、やっぱ聞きてえ?」
 頷く土屋にへらりと笑い、桜澤は上着を脱いで床に放った。ワイシャツだけになると身体の細さがさらに目立つ。元々痩せているから急激に細くなったとは思わないが、顔の傷と相俟ってやけにしょぼくれて見えた。
 煙草を銜えた桜澤は少しの間、ただ煙を吐いて黙っていた。
「──はとこの克己くんのことは結婚する前からよく聞いてたんだよ。仲いいっていうか、弟みたいな感じだって」
 普通弟とは寝ねえ、と思ったがこれも言わずに腹に収める。わざわざ口に出して言うことでもない。
「あの言い方だと、離婚前から関係があったってことじゃねえのか」
「まあ、別居してたから」
「そうかもしれねえけど」
「いいんだ。知らなかったけど、ショック受けてはいねえから」
「だけど」
「……子供できなくてな」
 呟かれた言葉にさすがに胃を掴まれたように錯覚した。
 いくらデリカシーが欠如している──久保の次くらいに──土屋でも、克己の台詞に子供ができたというフレーズがあったことを思い出したからだ。
 桜澤は片頬を歪めるようにして笑い、傷ついた唇が引き連れたのか眉間に一瞬深い皺を寄せた。
「色々検査したんだけど別に俺もあいつも異常なかったから、何だろ、卵子と精子の相性とか? そういうのだったのかな。分かんねえよな、医者も分かんねえこと、俺らが分かるわけねえし」
 煙が一瞬桜澤の顔の前でわだかまり、消えていく。
「俺は別にそれでもいいって思ってて……いや、ていうか、正直言って別にできなくていいって思ってて、それがカミサマに通じてたのかもなんてちょっと非現実的すぎるかな」
「結婚前にそういう話、出なかったのか」
「そりゃ、したぜ。仕事も頑張りたいし子供が大好きってわけでもないから、絶対欲しいとは思ってないって言ってた。けど実際友達が母親になったの見たら気が変わったみたいで」
「……」
「俺も何が何でも絶対嫌ってわけじゃなかったんだよ」
 桜澤は土屋の知らない顔で遠くを見ながらそう呟いた。
「最初はな、正直話が違うんじゃねえのってあれだったけど──陶子が欲しいなら、まあできたらそれはそれでいいかって。でも結局できなくて、あいつは段々追い詰められたみたいになってさ。そんで、できなきゃできないでいい、俺は気にしないって言った」
 煙はまるで桜澤を取り巻く何かが囁き合ってでもいるように、その周囲を絡まりながら漂っていた。桜澤がふ、と息を吐いたら絡まった糸はほどけ、ただの紫煙に変わって消えた。
「それ以来触らせてくれなくなって、触ってくれなくなった」
 それほどまでに彼女を傷つけたのは何故か分からない、と桜澤は囁いた。
「ただ気に病まないでくれって言いたかっただけなんだけど、違うふうに取ったのかもな。俺は言外の意味なんか込めてなくて、本当にあんまり気にしないで欲しかっただけだったけど」
 土屋には桜澤よりもっと彼女の気持ちが分からない。桜澤の気持ちも、女の気持ちも、どちらとも同じように分からなかった。
「だからいいんだ。はとこ同士なら結婚できるし、子供できたなら幸せになれるかもしれねえだろ」
「……だけど、裏切られてそれでいいのかよ。そんなお人よしな」
「そうじゃねえよ。人のこと言えねえから」
 殴られたところが痛むのか、顔を顰めて煙を吐く桜澤は、五年前、腕の中にいた桜澤と何も変わらないように見えた。それなのに、五年間の桜澤を知らないことが辛かった。元々何もかも見せ合っていたというわけではないが、それでも。
「……何だって?」
「だから陶子だけを責めらんねえって言ってんの。あー、あっちはどうか知らないけど、俺はずっとじゃねえよ。三回だけ」
「三回だけって、でもサクラお前」
 浮気なんて全然桜澤らしくない。
 そう思ったが、そもそも桜澤らしいとは何だろう。若いサクラファンの彼女たちが思うサクラらしさを鼻で笑って、そのくせ自分は自分で勝手に何かを押し付けようとしているのだろうか。
「──その子と再婚とか考えてんのか」
「いや、それはねえわ。好きとかじゃねえし。人間としては好きだけど」
 自嘲するような嫌な笑いが桜澤の口元を微かに歪め、土屋はそこでようやく桜澤がかなり酔っていると気がついた。確かに結構ペースが早かった気もするが、噛み癖が出ないからあまり気にしていなかった。
 削げたようにやつれた頰は血の気が失せて白かった。腫れ始めた部分だけ血色がいいのが痛々しい。
「飲み屋でひっかけた姉ちゃんとか」
「いや、一ノ瀬さん」
 何でもない顔で口にされた名前と知っている顔が結びつかず、土屋はイチノセサンて何だっけと考えながら、暫く桜澤を見つめていた。