untitled – TBC 4

「いいけど……」
 会議から戻ったところで偶然つかまえた桜澤に飲みに行かないか、と声をかけると、桜澤は数秒躊躇った。二人きりだということに抵抗があるのかと思ったら、そうではなかったらしい。
「俺ちょっと先に出ててもいいか? お前これからPC落としたりするだろ」
「それは構わねえけど、もし用事あるなら」
「いや、ちょっと携帯取りに行くだけだから」
 その場で適当に店と時間を決めて別れ、エレベーターに乗り込む背中を見送った。
 二人だけで飲みに行くのはほとんど五年ぶりだ。桜澤との関係が終わった直後は誘っても向こうがうんと言わなかったし、結婚後は土屋の方が誘うのを避けていた。
 今更どうにかなるとも思っていないのに、それでもどことなく浮き立ちそうになる気持ちを無理矢理捻じ伏せ、土屋は足早に自席に戻った。
 一ノ瀬と話をした後の数日間気になって桜澤を眺めていたが、特別辛そうには見えなかった。この間自販機の前で話したときに思ったように少しやつれてはいる。だが、目に見えてげっそりしているわけはないし、三十代も半ばになれば疲れだって顔に出る。
 だが、同じ部署で毎日顔を合わせる一ノ瀬がそう言うのだ。以前だったら自分の方が分かっていると思っただろうが、今はまるで自信がなかった。
 店を予約し、週末を前にやらなければいけないことを済ませてすぐに出るつもりが、出がけに上司につかまった。やっと解放された時点で約束よりすでに十五分遅れていて、慌てて電話をかけてみる。上品な女の声で電源が入っていないとか何とか無慈悲に告げられるのを途中で切って、土屋は走って会社を出た。

「圭──サクラ」
 思わず名前を呼びかけて、慌てて愛称に切り替える。別に呼ぶなと言われてはいないが、あれから名前を呼んだことはない。
「おー」
「悪ぃ、遅くなった。予約したって言っとけばよかったな」
「あ、いや、俺も遅れて今来たとこ。ちょうど店ん中にいるか聞こうと思ってたとこで」
 居酒屋の前に立っていた桜澤は薄っぺらな電話をいじっていた。
「あれ? それ」
「うん? あ、そう。スマホ壊れて、新しくした」
「ああ……」
「もしかして電話くれた?」
 頷く土屋を促して店の入り口をくぐりながら、桜澤は首を捻って土屋を見上げてちょっと笑った。何でもない笑顔なのに腹を殴られたような感じがして、土屋は桜澤から目を逸らし、頭を屈めて後に続いた。
「おー桜澤くん! 久しぶり!」
 白髪頭の店主がカウンターの向こうから声をかけてくる。昔はよく桜澤と二人で来た店だが、最近は土屋一人か、江田を連れてくるくらいだった。
「ご無沙汰してます、大将元気だった?」
「元気元気、土屋くんに何遍も言ったんだぜ、連れてこいって」
「本当っすか。俺誘われてねえけど」
「結婚したんだから奥さんが嫌がるだろってさあ……」
 楽しそうに話している二人を放置し、土屋は奥の小上がりに足を向けた。以前はカウンターが多かったが、桜澤も周りに聞こえる席では話しにくいだろうと思って予約した席だった。
 個室ではないから姿はカウンター同様丸見えだが、少なくとも声は周囲に聞こえにくい。
「お前奥行けよー」
 後から来た桜澤がそう言って土屋の背中を膝でぐいぐい押して来た。
「座ったのに面倒くせえ」
「お前が入り口塞いでたら便所行くとき邪魔なんだっつーの」
 しつこく背骨を押されたので、根負けして奥にずれる。掘りごたつではないので四つん這いで移動したら、桜澤はおかしそうにげらげら笑った。
「メニュー変わってる?」
「いや」
 土屋の顔をちらりと見て、桜澤はメニューを捲り始めた。
「あ、ほんとだ。全然変わってねえなあ」
 俺ら以外はな、なんて捻くれたことを言いそうになったが、本当に口に出すのは思い止まった。店員を呼んで注文し、桜澤がスマートフォンを取り出すのを黙って眺める。
「電話番号も変えたから、教えるな」
「ああ……」
 番号を変えたのは離婚が原因だろうか。土屋には経験がないが、気持ちは何となく理解できた。桜澤の新しい番号を電話帳に登録していたらビールが来た。適当に乾杯し、料理が一通り運ばれてくるまで当たり障りのない話をした。仕事のことなら話すことはいくらでもあって、気を遣うこともないから楽だった。
「そういや一ノ瀬さんになんか頼まれてた?」
 桜澤が出汁巻き玉子をつつきながら言う。きれいな黄色が波佐見焼の皿に映えていた。
「ああ」
「会社出るとこで会って、お前に会ったらお礼言っといてって言われた。ちゃんとメールはしとくって言ってたけど。なんかあれ? この間同業が撤退したとかってやつ」
「ああ、そう、それだ。なあサクラ」
「ん?」
 玉子焼きを箸で切り分けている桜澤は「見ていられない」様子にはとても見えなかった。毎日見ていれば分かるのだろうか、と思いながら、気が付いたら手を伸ばしていた。
 今でも毎日一緒にいられれば、俺にもそれが見えるのだろうか、と思いながら。
 手を叩かれて初めて桜澤の頬に触れたのだと気が付いた。肉の薄い、意外と高い頬骨。
「触んなよもう、何だよ」
 土屋の手を押しやった桜澤は平然と笑っていたが、箸先で摘んでいたはずの玉子焼きの大きなひとくちがテーブルの上に落ちていた。
「……何となく」
「何となくで勝手に人の顔触んな。俺ビール頼も。土屋は?」
「ああ」
 何でもない顔をして店員を呼ぶ桜澤は、新しいビールが来るまで落ちた玉子の欠片に気付かなかった。

 結局出汁巻き玉子の一件以外、桜澤におかしな様子は見えなかった。
 それが本当に元気だからなのか、上っ面なのか。もはや見極める自信がないことに打ちのめされて、どちらかと言えば土屋の方が落ち込んだ。そうは言っても別に表に出したつもりもないし、桜澤の方も気づいたのかそうでないのか分からない。
 普通に飲んで普通にお開きにして、それほど酔っぱらってもいなさそうな桜澤と並んで店を出た。
「お前、今どこに住んでんだ」
 内心教えてもらえないのではないかと思っていたが、予想に反して桜澤は躊躇いなく住所を口にした。細かい場所までは分からないが、地名はよく知っている。今いる店からすぐそこ──最寄り駅は土屋と同じ、駅を挟んで反対側。
「それ、前のマンションの近くじゃねえ? こっち戻って来たのか?」
「うん。陶子と住んでたあたりはやっぱ俺アウェー感あってなあ」
「ふうん……」
「お洒落できれいで静かでいいとこだったけどな」
「それなのに移っちまっていいのかよ」
「独身男にはちょっと居心地悪ぃ地区だもん」
 桜澤はおかしそうに笑って、出てきたばかりの店とその周囲を振り返った。
「こういう、おっさんばっかの店もあんまねえし」
 そういう本人は見た目も、そして雰囲気も、所謂中年に片足を突っ込みかけているとはとても思えない身軽さだった。
 いや、身軽さというのはあくまでも土屋の感想で、本当のところは分からない。人との濃いかかわり──特に恋愛方面──を必要以上に面倒くさがる自分と桜澤を一緒にしては悪いだろう。
 しかし、結婚後不幸に見えたことが一度もないにもかかわらず、結婚という関係から自由になった桜澤はどこかふわふわと重さがなく、飛んでいってしまいそうに軽く見えた。軽佻浮薄というのではない。その身体と同じように余計なものは何も持たず、どこかに消えてしまいそうな。
「──」
 口をつきかけた名前を飲み込み、土屋は奥歯を噛み締めた。
「ん? なんか言ったか?」
 こちらに向き直った桜澤のネクタイにネオンがあたり、柔らかく光る。名前にひっかけたわけではないだろうがごく淡い桜色とシャンパンゴールドのレジメンタルタイ。その色合いがどうしてか妙な儚さを助長しているような気がして土屋はゆっくりそこから目を逸らした。
「送ってく──嫌じゃなかったら」
 女じゃねえんだぞ、と笑いながら、桜澤は嫌だとは口にしなかった。