untitled – TBC 6

 実際の時間にしたらほんの数秒だったのかもしれないが、土屋の感覚としては結構な時間が経っていた。不意に頭に先輩社員の男前面が浮かび、それが「イチノセサン」と繋がって、土屋は思わず腰を浮かせかけた。
「何──? ちょっと待て、あの人と何したって」
「何って、言えってか」
 薄く笑った桜澤の目は笑っていなかった。
「嫁が触らせてくれないからって、寂しいからって、それとこれは別問題だよな。夫婦間の信頼を裏切った俺は最低な旦那だってことは分かってる。あっちがやってたから俺も許されるなんて思ってねえよ。でもずっと拒まれんのは辛かったし、誰かに触りたかったし、触ってほしかった」
「それ、いつの話だ」
「……一年くらい前。三回とも」
「一年」
 土屋の顔を一瞥して目を逸らし、桜澤は俯いてゆるゆると煙を吐き出した。
 頭の血がざあっと音を立てて下がるのが分かる。一ノ瀬の外国人みたいなルックス──年齢を重ねて一層男前になった──が目の前に浮かんで正直狼狽した。
 ついこの間、会議室で話したことが蘇った。桜澤のことを見ていられない、と言った一ノ瀬の本気で憂いている顔が。
 不倫は犯罪ではないが、だからやっていいとはまったく思っていなかった。結局面倒くさいことになるのにわざわざそんなことをする奴らの気持ちもまるで理解できない。だったら結婚なんかしないで好きに遊べばいいだけだろう。どんな事情があるにせよそんなことに手を出すなんてどいつもこいつも馬鹿だと思った。
 だが、今感じるのは桜澤に対する幻滅でも憤りでも何でもない。ぐらぐらと目の前が揺れるようなこれは、多分人生で初めて感じる強烈な嫉妬だ。
 それなのに口から出たのはただ桜澤を責める言葉だった。
「それって──お前、不倫なんて、なんでそんな馬鹿な事したんだよ」
 桜澤だけではないのに?
 頭の中で声がする。他の男と子供まで作った嫁はどうなんだ、被害者か。泣けば済むのか。女だからかわいそうだと言われるのか。
 しかし、そもそも克己が言ったことが本当かどうか、確かめてさえいない。本当に二人に子供ができたのか。彼女は本当に毎日泣いているのか。全部克己の戯言か、それとも真実か。
「信頼を裏切って──」
 どうして一ノ瀬だったのか。どうして俺を呼ばなかったのか。電話ひとつ、メッセージのひとつでもくれたなら、何を措いても駆けつけたのに。
 そんなふうに思った罪悪感をねじ伏せるように、土屋は半ば無意識に、桜澤を責める言葉を吐き出していた。
「そんなの最低だろうが!」
「お前に俺を責める権利なんかねえ! 最低な男だって俺を責める権利は陶子にしかねえんだよ!」
 突然眦を吊り上げて怒鳴った桜澤の指先、煙草の穂先から灰が散って床に落ちる。桜澤は煙草を持った手を灰皿に叩きつけた。灰皿が床にぶつかって派手な音を立て、ひしゃげた煙草から煙が立ち上る。
「でも」
「でもじゃねえ! 誰のせいだと思って──!」
 桜澤の悲鳴のような声が響き、一瞬無音になった部屋の中に尾を引いた。最後まで続かず途切れた声を探すように視線を彷徨わせた桜澤が何かを堪えるように俯いた。蒼白になった顔色の中、濃さを増して来た痣だけがやけに赤い。
 誰のせいって、何のことだ。夫婦の間の話ではないのか。
「誰のせいって……」
「何でもねえ」
 混乱しながら呟く土屋を無理矢理遮る声に顔を上げる。桜澤は土屋を真正面から見てひどく硬い声を出した。
「ごめん。何でもない、ほんとに」
「サクラ」
「誰のせいでもない、俺が全部悪いって分かってる。もう帰れよ」
 桜澤はのろのろと立ち上がり、灰皿を取ろうと腰を屈めた。灰皿に伸びた手を咄嗟に掴む。桜澤の身体がびくりと跳ね、土屋の手を振り払おうと腕が撓った。
「触んな!」
「圭史!」
 思わず呼んだ名前に桜澤の肩が揺れる。咄嗟に桜澤の顎を掴み、背けられた顔をこちらに向けた。そうして、部屋に入って来た時に浮かんだあの表情を確かに目にしたと思った瞬間、土屋が掴んだ細い腕から突如として力が抜けた。
 身体中の骨がばらばらに砕けてしまったひとのようだった。
 土屋に腕を掴まれたままその場に力なく蹲って、桜澤は声を上げて泣いた。糸が切れた人形のようだった。これは本当に生身の桜澤なのか、とすら思う。
 どうしていいか分からず、それでも掴んだ腕を離してはいけない気がして土屋はただその場に膝をついていた。
 なぜ泣くのか。薄らと理解はしていたが、他人の心の機微に疎い自分を信じ切れず、思考はそこから先に進めなかった。
 目の前に蹲るワイシャツの背は嘘みたいに薄っぺらくて、前から痩せてはいたけれど、やっぱり更に痩せたことを改めて土屋に実感させた。ワイシャツとアンダーシャツ、たった二枚の薄い布地が酷く分厚い壁に思える。あの頃無造作に触れた皮膚の感触を未だ鮮明に思い出せることに驚愕し、そうして同時に悲しくなった。
 どうして今になってあの頃より多くのものが見えるのか。桜澤の気持ちも、自分の至らなさも。特別大人になったわけでもなんでもない。ただ、失ってしまったものを悔いていることだけがかつてと違う、それだけなのに。
 暫く経って嗚咽が聞こえなくなったところで腕を掴んでいた手を離し、背に触れたら桜澤は跳ね起きて、土屋の手を叩き落した。
「触んなって……!」
「何でだ」
「触ってほしいからに決まってんだろ!」
 桜澤は華奢な外見のせいで弱々しいと思われることが案外多かった。朗らかな態度や人当たりのよさ、そして気の長さも誤解を招くらしい。だが、実際のところ意志が強くて容易に屈せず、そして他人より自分に厳しい奴だった。
 無理矢理抱きしめたが、桜澤の抵抗は激しかった。突っ張る腕の力の強さに腕が折れるのではないかと非現実的な焦りに襲われる。華奢だと言っても女よりはずっと硬くて太く重たいその骨が桜澤自身を支えかね、ぽきりと折れてしまいそうで怖かった。
 抵抗に負けて腕の力を緩めたら、桜澤は渾身の力で土屋を突き飛ばした。
「止めろ!」
「触ってほしいって言ったじゃねえか!」
 桜澤は一瞬子供のように唇を震わせて、ほとんど壊れそうに見えた。しかし瞬く間に立ち直り、食いしばった歯の奥から唸るような声を絞り出す。
「言ったけど、でも駄目だ。陶子に嫌な思いさせて、自分だけが」
「関係ねえだろ、もう別れたんだから」
「関係あるだろ!」
 怒鳴り返して来た桜澤は掌で乱暴に頬を拭い、鼻を啜った。
「あの時は……五年前は間違ってねえって思ったのに、こんな時間経っても──もう嫌だ」
「圭史、おい」
「言われなくたって、嫌になるくらい知ってる。俺は最低だ。だから帰れ」
 呟いた声は酷く疲れた老人のようにしわがれていた。
「……今日は帰る。でもあの時とは違うからな」
 立ち上がって見下ろした桜澤は涙で頬を濡らし真っ赤な目をしていたが、決して力なくは見えなかった。
「追い払えたと思うんじゃねえぞ」
 床に散った白くて細かい灰の欠片が、桜澤から剥がれ落ちた何かに見える。
 何が大事かもわからないでただ遠ざかっていく姿を見送った馬鹿な自分と、硬い何かで自分を覆って黙ってここまできた桜澤と。どっちも同じくらい馬鹿でどうしようもないと思ったが、口に出したところで過ぎた五年が消えるわけではなかった。
 後ろ手に閉めたドアの向こうで、桜澤がどんな顔をしていたのかは分からなかった。