untitled – TBC 3

 独身に戻った桜澤と会う機会は当然ながら増えた。飲みに誘っても来ないということがなくなったからだ。
 噛み癖が出るまで酔うことは相変わらずないものの、家で待つ人がいないからか桜澤の酒量も独身時代のそれに近くなり、そうなればなったで土屋はある意味気が気ではなかった。
 桜澤にとっては過去のことに過ぎなくても、自分にしてみれば昔も今も何も変わっていない。とうにどこかに埋めて場所も忘れてしまったと思っていたものは、桜澤に一瞬腕を掴まれただけであっさり、そしてしっかり土屋のもとに戻って来た。
 この五年の間まったく色褪せていなかったそれを眼前に突きつけられ、面倒くさいのは嫌いだなんて公言しておいて一番面倒なのは自分ではないかと思ったら桜澤に合わせる顔だってないと思った。
「ねえ、これからどうする?」
 シャワーから出てきたあおいが長い髪を払いながら言い、ベッドにどさりと腰を下ろした。彼女は取引先の営業で、お互いの都合が合えばたまに会い、飲んでセックスする程度の仲だった。業種は違えども営業職同士、話は合うが、恋人とはとても言えない。
 今日、土屋は江田の誘いを蹴ってあおいと会っていた。桜澤も来ると言われて腰が引け、女と会うからと断った。そのまま帰るのもなんだったからあおいに連絡したら、偶然彼女も空いていたのだ。
「これからって、飯?」
「あ、そうじゃなくて」
 屈んでストッキングに脚を突っ込みながら、あおいは半裸のままの土屋を振り返った。
「私たち、付き合う?」
「は?」
 一瞬何のことか分からなかったが、数秒経って頭が言葉に追いついた。
「お前と? 付き合う?」
「ないよね?」
「俺は……ないと思ってたけど、違うのか」
 銜えていた煙草の先が灰になっていることに気づいて慌てて灰皿に手を伸ばす。取ったげるよ、と言ってあおいがベッドに乗り上げてきて、灰皿を手に取り土屋の横に並んで座った。
「はい、灰皿。大丈夫、ないない、ないよ」
「ああ──、そう」
「いや、なんか好きな男ができちゃってさ」
 あおいは一本ちょうだい、と言って土屋のパッケージを取り上げた。
「そうなのか」
「そうなんだわあ。しかもこれが取引先の御曹司とか、受けるわ、我ながら」
「御曹司……年下?」
「残念でした、年上だよ!」
 あおいはケケっと変な笑いを漏らして煙を吐いた。
「だからさあ、これから付き合うとかじゃなかったら土屋と会うのは止めようかなあと思って。あ、飲みだけとかなら行くけど」
「いいよ、俺は」
「よかった」
 にっこりするあおいを見て、土屋はふと疑問を口にした。
「つーか、俺がお前と付き合いたいって言うと思ったってことか?」
「一応ね、一応」
「すげえ自信だな」
 思わず笑いながら言うと、あおいはまた大口を開けて笑い、髪をかき上げた。細い指の間を、少し色を入れた髪がするすると流れていく。
「だって私いい女だし、ってのは冗談、冗談。いや、土屋が私のこと好きとか付き合いたいとか思ってないのは分かってるよ。でもお互い分かってるつもりでそうじゃなかったってこともあるからやっぱり確認しとこうと思って。大事なことでしょ?」
「……」
「土屋は好きな子いるの?」
「……さあ」
「ふうん」
 あおいは唇をすぼめてふう、と煙を吐き出した。
「じゃあアレか、飯でも食って帰りますかあ」
「飯食ってとかいうな、女が」
「あー、おじさんみたぁい。さっさとシャワー浴びてきなよ」
「同い年だろうが」
 おかしそうに笑うあおいを眺めながら、こんなふうに桜澤と抱き合いじゃれ合ってから、正確に何日が立ったんだろうなと埒もないことを考えた。

「土屋、ここにいたの」
 会議室の入り口からひょこりと顔を出したのは一ノ瀬だった。
「どうしてすぐフラフラいなくなんのお前は」
「いなきゃいけないときにはいますけど」
「そういうとこ相変わらずむかつくなあ」
 笑いながら言って、一ノ瀬は土屋の向かいの椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
 以前は土屋と同じ部署だった一ノ瀬だが、二年ほど前に昇進して桜澤の部門に異動していた。チームが違うから桜澤の直接の上司ではないはずだが、それなりに親しくしているらしい。そういう土屋は個人的に一ノ瀬と親しいわけではないけれど、今でも仕事で一緒になることは結構あるし、縁が切れたというわけでもなかった。
 最近は髪を伸ばしているようで、緩くパーマがかかったスタイルのせいか一層外国人めいて見える。ブラウンのメタルフレームか年齢を重ねたせいか知らないが、全体的に以前より柔らかい印象だった。相変わらずお洒落でそつなく女にもてるが、もてすぎるせいか結婚はしていない。
「あのさあ、この間頼んだ資料あるじゃない?」
「金曜までってやつですか」
「そう。申し訳ないんだけど、あれ火曜まで伸ばしていいから、別なの先に頼めないかな」
「商品は?」
「同じ。ただ、ターゲットが微妙に違ってて」
 一ノ瀬は土屋も知っている企業名を上げ、そこにね、と続けた。
「食い込んでた同業他社、なんかお家騒動で揉めた影響で撤退したんだってさ。で、あちらさんも急いで別んとこと契約したいんだって、たまたま俺知り合いがいてね、そこに。電話来たんだよね。他社がコンタクト取り始める前に一回担当んとこ行っときたい」
「そうですか。商品一緒ならすぐできますよ。あとで条件送っといてくれます?」
「ごめんね、ありがとう。助かる」
 にっこり笑った一ノ瀬は、まるで少女のように両手を頬に当てて頬杖を突き、首を傾げて土屋を見た。
「……なんですか、そのポーズ」
「ん? 土屋はいい男だなあ見惚れちゃうのポーズ」
「怖いからやめてくれます? てか、乗り出さないでください、近いっす」
 会議室の定員は六人──と、予約システムには書いてあるが、実際には四人も入れば結構きつい。ひじ掛け付きの椅子は場所を取るし、床に這ったケーブルなんかも邪魔くさい。そういうわけで、でかい男が二人入ると、それなりに息苦しい空間だった。
「そんな近くないでしょー」
「俺のパーソナルスペースは広いんすよ」
「そうかなあ。まあいいけど。あのさあ、昨日土屋が一緒にいた子って彼女なんだよね?」
「昨日って──どこかですれ違いました?」
「うん、駅前の居酒屋入ったでしょ」
 ホテルを出た後、あおいと飯を食いに行ったのは確かに駅前の居酒屋だった。チェーン店だがわりと洒落た店で、居酒屋とは言っても女の一人客も多い。当然だが、土屋ではなくあおいの行きつけだ。
「ああ……」
「俺じゃなくて桜澤くんが気づいたんだけど」
 一ノ瀬の口から桜澤の名前が出ると身構えてしまうのは、五年前も今も変わらない。まだ一ノ瀬が土屋の部署にいた頃、一ノ瀬は一時桜澤のことをかわいいとか何とか言っていたからだ。
 とはいえ二人の間に何かがあったわけでもないようで、結局一ノ瀬のスタンスはその後も特に変わらず今に至る。
「桜澤がですか」
「うん、一緒にいたから」
「あいつ昨日同期の飲み会出るって聞きましたけど」
「そうみたいだね」
 一ノ瀬は頬杖を外して椅子の背に凭れた。会議室の椅子はオフィス同様背凭れの角度が自由に変えられる。ロックがかけられていなかったらしく、一ノ瀬が凭れた分だけ背が倒れ、一ノ瀬は必要以上に仰け反った。
「昨日さ、急に取引先から連絡来て、接待になったんだよ。それで俺と桜澤くんとで行くことになっちゃってね。江田くんのお誘いはキャンセルしたって言ってた。駅前で二次会どうしましょうかなんて先方と相談してたときに土屋くんと彼女見かけたんだよね」
「──彼女じゃないですよ」
 別に何の後ろめたいこともない。それなのに、桜澤に見られたと思ったらちょっと腹の底がざわついた。だが、何と思われたってどうでもいい──いや、正確に言うとそうではなかった。桜澤は、目にしたことで何を思うことも別にないのだ。
「隠さないとまずい相手なの? 誰にも言わないけど」
 メタルフレームの眼鏡を押し上げながら一ノ瀬が言う。隣の会議室のドアが開閉し、足音が遠ざかる。ドアの前を誰かが電話しながら通りすぎ、少し離れた場所にある給茶機がお湯の温度を上げようとモーターを回すような音を立てて唸っていた。
「いえ、本当に。知り合いです」
「そうなんだ。桜澤くんが、土屋と彼女がいますよ、なんて言ったからそうなのかと」
「……」
「俺はどっちでもいいんだけどさ」
 至極当然なことを言って、一ノ瀬は立ち上がった。
「ほら、桜澤くんって離婚したばっかりだって言うじゃない? もしその子が土屋の彼女なんだったら、桜澤くんに誰かいい子を紹介してもらったりしたらいいのに、って思って。すっごく余計なお世話だけど」
 行儀よく椅子をテーブルの中に押し込みながら、一ノ瀬は少しの間土屋の顔を眺めていたが、その顔には何の表情も浮かんでいなくて、意味があるのかないのか分からなかった。
「──確かに余計なお世話っすね」
 低く呟いた土屋の台詞に肩を竦めて笑い、一ノ瀬は会議室のドアを開けた。
「だよねえ。俺もそう思う。じゃあ、さっきの件メールしとくね」
 後ろ手にドアを閉めた一ノ瀬が、去り際残した言葉が耳に残り、キーボードを打つ指がいつの間にか止まっていた。
 でもね、結構見てられない感じだよ。
 向かいの部屋で会議が始まり、数人が笑いながら挨拶を交わす声が聞こえてくる。土屋はパソコンを閉じて立ち上がり、会議室を後にした。