untitled – TBC 2

「おはよう」
 喫煙所から戻り、自販機でペットボトルを買っていたら後ろから声をかけられた。
「……おはよう」
「何だよ?」
 土屋の凝視に、桜澤は眉を寄せた。
「買ったなら退けよ。邪魔」
 昔だったら体当たりでぐいぐい押されたところだが、桜澤が土屋に触れなくなってもう随分経つ。
 飲み会で噛み癖が出るほど飲むこともなく、ほんの些細な接触も慎重に避けられてもう五年。いい加減いちいち引っかかることはなくなっていたが、つい数日前に色々思い出したせいか何となく憂鬱な気分になって、土屋は返事をせずに横にずれた。
 桜澤は土屋を一瞥したものの何も言わず、尻ポケットから小銭入れを取り出した。その左手に指輪がないことを確認している自分に気が付いて、舌打ちしたい気分になる。桜澤にとっては辛いことだろうし、独身になったからといってあの頃に戻れるわけでもない。そんなことは百も承知だというのに、喜ばしいと思っている自分がいたからだ。
 いくらなんでも友人として最低だろうと思ったら、ついつい渋面が酷くなった。
「──土屋お前、そんなに避けんのが嫌だったのかよ?」
 腰を屈めて取り出し口からボトルを取り出した桜澤が見上げてくる。
「は?」
「すげえ不機嫌面」
「──いや、別に不機嫌じゃねえ」
「そうか? あ、そういや久保から聞いた?」
「何を」
「俺の離婚お疲れ様会すんだってよ。今日っつってた。後で連絡来ると思うわ」
「……」
「題してバツイチサクラキックオフミーティングだってよ」
 自分のデリカシーのなさには自信があったが、久保はそれを上回る。何と返せばいいか迷う土屋の腹に桜澤がボトルをぐいぐい押し付けて笑った。
「んな顔すんなって。俺も飲みてえしさ」
「そんならいいけど」
「来るだろ?」
「──ああ、行く」
「おっけー、久保に言っとく」
「なあ、サクラ」
「ん?」
 こちらを向いた桜澤は若干やつれている気もしたが、単なる気のせいのような気もした。
「大丈夫なのか?」
 土屋が訊ねると、桜澤の目つきが酷く険しくなった。
「……何が?」
「何がって」
 切りつけるような口調に思わず身を引くと、桜澤は逆に一歩土屋に近づいた。
「バツイチって身分が付加されたことが? それとも家事全般が? 寂しくねえかってことか? それとも──」
「サクラ」
 思わず遮ったら、桜澤は口を噤んで土屋を睨みつけたが、不意に表情を弛緩させて溜息を吐いた。
「悪い。やっぱちょっと気ぃ立ってんだわ」
「いや──」
「じゃあ、後でな」
 無理矢理会話を打ち切るように言って、桜澤は踵を返した。
 咄嗟に腕を掴もうと手を伸ばしかけて思い止まり、代わりに手の中のボトルを握り締める。
 土屋はその場に突っ立ったまま、ボトルをぶらぶらさせながら立ち去る桜澤の背中を見送った。
 細くて一見頼りない背中は五年前のままだ。その実強靭で土屋よりよほど男らしいところも多分変わっていない。
 何も今初めて知ったことではないが──土屋はそう思いながら自販機の前から離れて自席に足を向けた。

「サクラ、ごめん!」
「はあ? 何がぁ」
 だらしなく語尾を伸ばした桜澤は、遅れて到着したと思ったら向かいで頭を下げる相原を見ながら店員呼び出しボタンを押した。
「つーか意味わかんねえけどまずは駆けつけ一杯だろうが」
「今時そういうのは流行んねえぞ、サクラ」
 久保がテーブルの向こうで飲み放題のメニューをひらひらさせながら言った。
「新人なんてなあ、飲みに誘ったって今日は予定がありますからお先します! ってこうよ」
「久保と飲みたくねえってだけだろ」
「土屋! お前はブレずにひでえ!」
 わあわあ言っていたら店員がやってきたので、相原のビールと追加の飲み物をオーダーした。
 束の間忘れ去られた相原はちょっと放心したような顔をしていたが、店員が去って少ししたら、ようやく我に返ったらしい。おしぼりの袋を引きちぎるように開け、溜息を吐いた。
 久保主催のサクラ離婚おめでとうの会──会の名称は二転三転して何となくそうなった──は会社近くの飲み屋で開催された。参加したのは主賓と主催者、それに土屋と江田、遅れてきた相原、同じく同期の本郷と染谷という面子だった。
「はい、じゃあ相原の酒はまだだけどもうすぐ来んだろ、改めてサクラ独身おめでとーう、かんぱーい」
「イエー!」
 やけっぱちのようにサクラが吼え、ジョッキに残っていたビールを呷り、相原はとりあえずおしぼりを握り締めて形だけ乾杯した。
 自分から駆け付け一杯とか言ったくせに、サクラはジョッキをテーブルに置いてまだビールにありついていない相原に向き直った。
「そんで?」
「え?」
「何がごめん? 遅刻か?」
「あ……いや、そうじゃなくて」
 相原はそう言って助けを求めるように江田に目を向け、江田に不思議そうな顔をされると土屋を見つめ、桜澤を見た後もう一度土屋に視線を向けた。
「ごめん! 土屋! サクラ!」
「俺?」
「はぁ?」
「ほんとごめん!」
 もう一度頭を下げた相原が勢い余ってテーブルの上の醤油さしに額をぶつけて醤油が零れ、その場は一時騒然となった。

「まさか相原が奈緒美ちゃんとなあ……」
居酒屋を出てだらだら歩いていたら、桜澤が隣で今晩何度目かの台詞を吐き、おかしそうに笑った。
当の相原は少し後ろの方にいて、染谷と何か話している。久保は次に行くかどうしようか、と江田と本郷に訊ねていた。
相原の「ごめん」は、土屋が昔付き合っていた女と付き合っていて、婚約したということに対してだった。
桜澤の離婚おめでとう会で言うのも何だと思っていたが、隠しているのもどうかと思ったのだとか。しかし当の土屋と桜澤は別に謝られるようなことだとも思っていなかったから、結局は醤油で額とネクタイを汚した相原が一人煩悶しただけの話だった。
土屋が奈緒美と付き合っていた当時、相原と奈緒美が直接顔を合わせたことはなかったはずだ。土屋同様二人には記憶がないらしいから、あったとしてもせいぜいちらっと見かけた程度だったのだろう。
二人は昨年仕事の関係で偶然知り合った。付き合うようになって少ししてから、土屋が奈緒美の元カレだと判明した、ということだった。
「なんか面白えよな」
桜澤が小さく笑う。
今朝自販機の前で見せた苛立ちが嘘のように、桜澤は終始上機嫌だった。もしかしたらそれは同期連中の気遣いに対する気遣いのお返しのようなものなのかもしれないが、例え空元気だったとしても、笑えていることに変わりはない。
「面白えって、何が?」
穏やかに笑う顔に束の間見惚れ、土屋はそう訊ねながらも桜澤から目を逸らした。
「いや、なんか人間関係っていうか、縁っていうか」
「ああ──」
「奈緒美ちゃんと相原がくっつくなんて誰も想像しなかったよなあ」
「そうだな。相原はずっとあのバツイチ女に搾取され続けんのかと思ってたぜ」
「お前相変わらず口悪ぃな。あとはほら、江田も俺も離婚するとかさ」
「……江田は続かねえと思ってたぞ」
土屋が言うと、桜澤は馬鹿でかい声で「えっマジで!?」と言って、後ろの江田を気にしてか声を潜めた。
「何で!」
「何となく」
「何となくってお前それ──あれ?」
桜澤が振り返り、何かを探すように首を伸ばす。すれ違った観光客のぶら下げたでかいビニール袋が桜澤の腿にあたって桜澤がよろけ、土屋の腕にしがみついて身体を支えた。
「あっぶね、あ、なあ土屋、久保が呼んでる。来いって」
あっという間に離れて行った桜澤の指と掌の感触に、土屋はその場に突っ立って、早く来いよと呼ぶ久保の顔を遠目にぼんやり眺めていた。
正直、江田の結婚生活は多分短期間で終わるだろうと思っていた。結婚したいと望んだのは当時の彼女で、江田自身ではなかったからだ。
だが、桜澤の結婚生活が終わるだろうとは思っていなかった。それなのに土屋は心の底で、終わればいいと思っていた。明日にでも、半年後にでも、無惨に壊れてしまえばいいのに、と。
多分桜澤は想像もしなかったのだろう。幸せな生活が終わるなんて。妻と決めた人との縁が切れてしまうなんて。
本気で願ってはいないが、冗談だったわけでもない。自分が望んだから実現したなんて微塵も思っていないけれど、後ろめたさは間違いなく存在した。
染谷が何か言って、桜澤が笑顔になる。
その顔を見ていられず、土屋は人ごみの中、黙って踵を返し立ち去った。