untitled – TBC 1

「サクラ、離婚したんだってよ」
 久保が突然そう言ったから、土屋は思わず手の中のビアグラスを取り落としそうになった。
 どっかの小説タイトルのパクリかよ、と思いながらグラスをそっとテーブルに置く。江田が土屋に何ともいえない一瞥を寄越したが、結局は何も言わず、「そうなのか」と言って竜田揚げを口に突っ込んだ。
「正式に書類出したのが最近ってだけで、別居してたらしいけど」
「早くねえか? 何年?」
「二年? ああ、いや、違うか。三年?」
「もうすぐ四年だろ」
 放り投げるように言った土屋の心中を知っているのは江田だけで、久保は呑気に「よく覚えてるな」と言って笑った。
 よく覚えているどころか、それはいつも頭の片隅にあって、まるで靴の中に入り込んだ砂粒みたいに神経にひっかかっていた。常に意識させられ、忘れることができない。
 もう手が届かないと分かっていて、それでも、掴み切れなかったものを惜しむのをずっと止められずにいた。女々しいと分かっていても、忘れようにも忘れられるものではなかった。
「なんでお前が知って……ああ、そうか」
 江田は質問したが勝手に納得したらしく頷いた。
「嫁か。ちょっと口軽いぞ、人事なのに」
「あー、うん、でも今回はほら、俺がサクラと同期なの知ってるからさ……普段の人事異動のこととかは聞いてねえよ!」
 久保は脂下がりながらそう弁解したが、どうだか、と思う。久保の新妻は十歳年下で、人事の派遣社員だ。確かに可愛いし感じはいいのだが、どうもその辺の感覚含めふんわりした感じの子だった。
 同期だから、ではなく同期なら尚更言ってはいけないし、聞いてしまったとしても久保は口に出すべきではない。そうは言っても、さすがに彼女も夫以外にべらべら話したりはしないのだろうし、久保だって、江田と土屋にだから言うのだろうが。
「しかしそうか、あいつもバツイチかぁ」
「江田、お前サクラに嬉しそうな顔で仲間だな! なんて言うなよな」
「馬鹿、お前みたいな幼な妻もらった新婚さんに同情されるよりマシだっつーの」
「あー、そう?」
 久保はまたにやにやし、江田は久保に思い切り煙を吐きかけた。
「幸せが燻されればいいよな!」
「ひでえなあ、江田。つーかさあ、お前が聞いてないって意外だな、土屋。サクラと一番仲いいのに」
「……そういうことは話さねえよ、あいつ」
「そうなんだ」
「なあ、そういやこの間久保のマンションの近く寄ったら蕎麦屋できてたよな」
 低い声で呟いた土屋に気を遣ったのだろう、江田が若干わざとらしく話題を変え、どこそこの蕎麦屋が美味いということに話が移った。
「ちょっと」
 トイレ、と呟いて席を立つ土屋を見て江田は何か言いたそうにしたが、結局煙草を取り出して銜え、久保の冗談に笑いながら煙を吐いた。

 土屋がサクラこと同期の桜澤圭史と身体の関係を持っていたのは、期間にしてみれば一年足らずのことだった。
 切欠は桜澤の噛み癖だ。
 酔っ払ったら誰彼構わず噛みつく癖のあった桜澤の面倒は、同期でも親しかった土屋の役目だった。ある晩何がどうしてそうなったのか、桜澤はキスをしてくれとねだってきた。
 土屋に対して恋愛感情があったからではないと思う。理由は結局訊ねないまま終わったが、それは多分間違いない。
 キスすることは嬉しくはなかったが、嫌ではなかった。それがいつの間にかセックスにまで至り、そうして結局惚れてしまったのは土屋の方で、桜澤はそうではなかったというだけの話だ。
 その関係が一年近く続いたある金曜の晩。
 土屋は桜澤を誘って仕事帰りに居酒屋に寄った。軽く飲んでいつものように部屋に桜澤を連れ帰って抱いた。特に普段と違うこともなく事を終え、並んで煙草を吸っていたときだ。桜澤が突然、これで止めようと言い出した。
 五年近く前のことだ。細かいところはもう思い出せない。
 そのとき自分がどう思ったのか。覚えている気もするが、もしかしたら記憶にその後の考察が乗っかって書き換えられているかもしれない。
 だが、桜澤の真面目な顔と、自分が間抜け面で「今?」と訊いたことはよく覚えていた。
「──何で」
「いつまでも続けてらんねえだろ、こんなこと」
 さっきまで目を潤ませて土屋を尻の奥に銜え込み、甘い声を上げて身悶えていたとは思えない素っ気なさで桜澤は淡々と続けた。
「どうせ終わらせんなら、早い方がいい」
「嫌だ」
 そう言ったら、桜澤は天井に向かって煙を吐き出し、酷く厳しい目で土屋を見た。
「何で」
 さっきの土屋の発言を真似るようにそれだけ言って桜澤は口を噤んだ。返す言葉を見つけられず、土屋は桜澤の煙草から細く立ち上る煙に目を向けた。
 普通は「好き」だから寝たいと思うのだろう。土屋も桜澤のことは好きだ。だが、それはこうなる前からだ。だから土屋にとって「好き」というのはこの関係の理由にならない。
 だとしたら身体を繋げる意味は一体どこにあったのか。どうして自分は終わらせるのが嫌だと感じるのか。
「──前も言ったじゃねえか。お前は面倒くさくねえし、特別だから……お前の近くにいたい」
 うまく言えないだけだと、言葉にできない思いがあるのだと言えばよかったのだと思う。なりふり構わず、どうしても手放したくないのだと縋ればよかった。
 だが、土屋は言わなかった。そうすべきだとは思わなかった──いや、分かっていなかった。
 三十を過ぎていい加減大人になったと思っていたが、その実子供だったのだ。言葉を尽くすべき時がいつなのか、考えてみたこともなかった。
 煙草を灰皿に放り込んで手を伸ばし、桜澤の吸いさしも取り上げた。桜澤は何も言わず、土屋がまた圧し掛かっても拒否しなかった。
「圭──」
「……ん」
 まだ柔らかいそこに指を挿し入れ、指先に硬く感じる場所を強く擦り上げる。桜澤は艶めかしい吐息を漏らして眉を寄せた。
 うつらうつらして、目を覚ましたらまた細い腰に手を伸ばす。桜澤は文句も言わず、土屋が求めれば応え、そうして翌朝早く帰って行って、それきり土屋が桜澤に触れる機会はなくなった。
 二人きりになる機会を見つけては何度も訊ねてみた。どうして今のままでは駄目なのか、と。
 会社の会議室に無理やり押し込み壁際に追い詰めたときの桜澤の顔を思い出した。
「お前が悪いわけじゃねえから」
 低く呟いた桜澤は、土屋を押し退けて会議室から出て行った。
 大学時代の友人の紹介だとかで付き合い始めた相手と桜澤が結婚したのは、それから一年ほど経ってからのことだ。
 江田には本当にそれでいいのかと訊かれたが、いいも悪いも、それとこれとは別問題だろうと思ったからそう答えた。
 同性同士で結婚はできないし、そもそも桜澤と恋愛しているつもりもなかった。代替案を提供できない状態で、異を唱えたって仕方ない。
 穏やかに晴れた日曜日。洒落たレストランの庭にテントが張られ、幾つも置かれたテーブルに美しい料理が並んで、まるでハリウッド映画で見るみたいな披露宴だった。
 日が沈む頃に一次会が終わって、同期の奴らで二次会、三次会と飲み歩き、ほとんど終電の駅のホームで土屋はうっかり死にかけた。
 泥酔していたことに自分でも気づいていなかった。人目がなくなって急に気持ちの支えがなくなったせいだったのか、違うのか。
 よろけてホームの縁を踏み外しかけた。そのまま落っこちていたら到着した電車に撥ねられていたかもしれない。たまたま近くに立っていた五十代くらいの会社員が腕を掴んで引っ張ってくれた。だが、土屋が落ちずに踏ん張ったのは、必死で引っ張ってくれた彼の膂力のお陰ではなかった。見ず知らずの男性の眼鏡の奥に恐怖を見てしまったからだ。
──俺が手を離したら、この男は諦めて落ちてしまう
 そんな恐怖を見たからだ。
 彼の瞳の中に見えたのは、自分の中にある真っ暗な淵の入り口。死にたいなんて考えたこともなかったのに、期せずして覗き込んでしまった自分の腹の底が怖くなった。
 家に帰ってシャワーを浴びて煙草を吸い、土屋は唐突に気が付いた。
 桜澤が好きだった。身体の関係を持つ前から好きだった、確かにそうだ。だが、その好きとこれはまったく別物だったのだということに。
 そして今日、自分は本当に桜澤を失って、もうどうしようもないのだ、ということに。
 気が付いたって今更だった。それで世界が終わるわけではない。月曜から普通通りに出社して、今までと変わらない生活が始まった。いつか忘れるときがくるのだろうと思いながら。
 ごく当たり前の同期に戻った桜澤とは当たり前に付き合いが続き、少なくとも表面上は何ひとつ隔たりなく友人のままだった。
 そうしていつの間にか四年が過ぎて徐々に桜澤と疎遠になったのは、何も既婚と未婚の生活の違いが原因だけではなかったと思う。あちらは物理的な接触以外避けている様子もないのだから、要は土屋の問題だったのだ。

 飲み会は、会計をすませて店の前でお開きになった。三々五々帰途につく同期と色々話したくなくて、土屋は誰もいない方向に向かってとりあえず足を踏み出した。駅までは遠回りになるが、終電まではまだ時間がある。
「おい、土屋」
 声をかけられて振り返ると、江田が立っていた。
「大丈夫か?」
「……」
「……なあ、うち来て泊まれよ」
 江田は結婚後すぐマンションを購入し、離婚後もそこに住んでいた。金を出したのが江田だったのか、財産分与でそういう取り決めになったのかまでは知らない。
「──何で」
「飲み直そうぜ。話したいこともあるだろ」
「いや……」
「土屋、お前そうやって四年も──」
「大丈夫だって。お前あっちだろ」
 パンツのポケットの中で電話が鳴動したから取り出すと、江田は食い下がらずに踵を返した。押し問答をしたところで土屋が誘いに応じるとは思わなかったのだろう。
 着信は電話ではなくメッセージアプリだった。仕事で知り合って何度か会った女からで、これから会わないかという誘いだった。
 桜澤との関係が終わってから、土屋はまた言い寄ってくる女と付き合っては振られることを繰り返すようになっていた。自発的にそうしたわけではなかったけれど、どうしようもなかった。
 もしあの時、お前が好きだ、ずっと傍にいてくれと言っていたら、お前はなんて答えたんだ。
 今更訊くに訊けない問いをいつもどこかに抱えたまま土屋は何でもない顔をして、駅のホームから落っこちそうになることもなく毎日当たり前のように生きている。
 女に最寄り駅を送信したら、二十分もあれば行けると返事が来た。
 待ってる、と返信を送り、土屋は駅に向かって歩き出した。