四百四病の外 5

そのまま机の上で犯されたとでも言えば、まったくもって成人指定ビデオの世界だ。しかし、そうはならず、聖なる職場は守られた。——とも言えないが、取り敢えずは事なきを得た。ただ、それは決して梨本が有言不実行な男だと言うことではない。
 梨本は、無言で身体を離すと何も言わずに門間を見下ろした。その後行動する様子も見えない梨本にほんの少し安堵して、門間は着衣の乱れを直していく。黙り込んだ梨本と一緒に散らばった書類を片付ける辺り、自分はいい加減お人好しだと思ったが、実際のところは茫然自失で逃げることも、ましてや怒ることも念頭に浮かびはしなかった。
 タクシーに押し込まれたときも、まだこのまま帰れると信じていた。通り過ぎるネオンの色合いにぼんやりと見とれ、交差点を行き交う人の多さに、日本の都会は本当に不夜城だと場違いな感想を抱いたりしながら。
「はい、お釣り二百二十円です。どうもー」
「え、梨——」
「どうも」
 背中を押されるようにして下ろされたのは梨本のアパートの前だった。
「俺にどうやって帰れって……」
「中途半端で止めないって言ったろう」
 梨本はごく普通の顔でそう言って、門間の腕を強く掴んだ。
「明日は休め」
 梨本の低い声が、まるで門間に裁きを下すように、重く響いた。

 こんなことになるなんて、想像もしなかった。
 一年前、酔っ払った梨本のキスは、単なるおふざけか誰か女の子と間違えたのだろうと考えていて、真面目に受け止めたことなど一瞬たりともなかったのに。
 梨本は門間を半ば脅しながら妹尾に電話を掛けさせた。身内の不幸で明日休むと告げた自分の声は誰が聞いてもしどろもどろで怪しいことこの上ない。それでも妹尾は快活な声で分かったと返事を寄越した。せめてどうしたと一言訊いてくれたらこの状況も変わったのかも知れないが、それは望みすぎと言うものなのか。呆気なく電話は切れ、門間は梨本に突き飛ばされるようにして押し倒された。
「頼む——梨本、頼むから…………」
 情けなくも次から次へと溢れる涙を、堪えることが出来なかった。
 恐ろしくて、気分が悪くて、目の前が暗くなる。体中を這う梨本の指と掌。同性に触れられることなど想像すらしたことがない場所へ、梨本は躊躇せずに踏み込んでくる。そしてそれは、単に肉体上のことではなく、精神の深部への侵入とも言える気がした。困惑と、恐怖と、絶望と後悔と名づけることすら出来ない様々な何か。入り混じった感情は最早それぞれの色を判別できないほどに絡み合い、濃度を変える。
「ぁ…………や、……嫌だ——」
 深く口付けられながら中心を嬲られて、単純な反応を返してしまう。着衣のままの梨本の背を夢中で掴む。引き剥がそうとしているのか、それとも引き寄せようとしているのか。門間自身にも分からないまま、ただ触れられた部分は耐え難いほど熱を持つ。
「こんなの、俺は嫌だ…………!」
「——知ってるよ」
「あ、あぁ——―」
 嫌悪に、身が竦む。梨本に、ではない。ここまで梨本を追い詰めた自分への嫌悪だった。

 

 ゆっくりと浮かび上がる意識の隅で、何かが違うともがいていた。
 射し込む太陽の光の角度。煙草の匂い、布団の感触。突然記憶が甦って、門間は咄嗟に跳ね起きる。
 視界に入る濃いベージュのカーテンも白い壁紙も、門間の部屋と大して変わらない。変わらないが、門間自身の部屋でないことは間違いない。恐る恐る周りを見ても、梨本の気配はなかった。
 壁に吊り下げられたスーツは、自分のものだ。どう見ても皺だらけで着られた代物ではないようだが、着ないことには帰れない。どうやら梨本の下着とTシャツを着せられているようだが、身長が違うので大きすぎる。
 Tシャツの裾を上の空で引っ張りながら、門間はぼんやりと思いを巡らせた。
 目覚めたとき、自分はいったいどう感じるのか。想像の中では、もう少し強い感情を感じていた。嫌悪にせよ、悲哀にせよ、——後悔にせよ。何もかも薄く茫漠としたこの胸の内はいったいどうしたことなのか、幾ら内省してみても、門間には何も掴めそうもない。梨本の行為に感じる腹立ちは思いのほか僅かで、そこまでさせたのが自分の煮え切らなさだと言うのなら、梨本ばかり責めるのも筋違いなのだと思えてくる。もしかしたら自分は殊の外お人好しなのかも知れないが、そういう性格なのだから今更どうにもなりようがない。
 門間は起き上がるとカーテンを開けた。陽射しが眩しく瞼を閉じる。そうすると思い出してはいけないことを思い出してしまいそうだ。門間は慌てて目を開けて、部屋の中を見渡した。時間が気になって壁掛け時計を探したが見当たらず、棚の上の小さな時計を見つけて近寄ると既に昼近い。空腹感は感じなかったが、口の中が渇いて嫌な味がする。
 梨本の部屋には何度か来た事があるし、泊まったこともある。同じ部屋のはずなのに違って見えるのは、多分に気持ちの問題なのだろう。何がどこにあるかは大体分かるが、どうしていいのかが分からない。サイズの大きな服と同じで、しっくり馴染まない部屋は扱いに些か手を焼く。手持ち無沙汰でベッドに戻ると腰掛けて、皺くちゃのスーツから、これまた潰れた煙草の箱を探し出して火をつけた。

 二本目の煙草を消したところで玄関のドアが開く音がし、梨本が入ってきた。片手に大きなビニール袋、片手にはコンビニの袋。これといった表情はなく、門間を見るとゆっくり一度目を瞬いた。
「起きたのか」
「お前も休んだの」
「ああ」
 梨本はすぐに門間から目を逸らした。わざわざ買いに出たにしては、コンビニの袋から覗いているのは水と煙草だけだった。一体何をしに行ったのかと思っていると、梨本は大きいほうのビニール袋を門間に差出し、「これ」と言った。
「……何だよ」
「下着と、服。スーツ、皺になってるから。着て帰れないだろう? サイズ、Mだよな」
 梨本は無表情で量販店の袋を差し出したまま、僅かに首を傾げて門間を見る。何を考えているのか、その表情から梨本の内心は分からなかった。梨本はよく言えば情熱的、悪く言えば感情的な部分も多い。冷静だとか無表情だとか言われることもよくあるが、それは梨本が自分を抑制しているだけであって、無表情が本質というわけでは決してなかった。だから、まるで感情と言うものをどこかに落としてきたかのような不自然な表情が、門間の胸を痛ませた。
「ありがとう」
「いや」
 袋を受け取る瞬間、指先が擦れ違う。紙一重で触れてはいない。それなのに、梨本の手が引き攣れたように震えるのを見てしまった。
「梨本」
 門間は思わずそう言ったが、梨本は何も言わず門間に背を向ける。門間は梨本に聞こえないように溜息を吐き、袋を開けた。
 何の変哲もない下着、無地のTシャツ、チェックのシャツ。どうにでもなりそうなデザインの、それでも門間の好みをよく知った梨本の選び方に心がざわついて門間はきつく唇を噛んだ。こんなふうにされるのは辛かった。あからさまに優しく愛しさを見せるでもなく、かと言ってただの友人とは明らかに違うと思い知らされるのは酷く応える。
 袋の中から最後に出てきたカーゴパンツを手に持って、門間は暫くその場に突っ立っていた。
「……門間? 着替えるなら……何笑ってんだよ」
 こちらを向いた梨本に指摘され、門間はつい吹き出した。
「お前、意外に抜けてんな」
「は?」
「これ、」
 カーゴパンツを差し出すと、梨本は瞬きする。
「そういう格好、好きだろ」
「そうじゃなくて、好きだけど」
 門間は訳が分からないと言った様子の梨本の顔を見、更に笑みを大きくして玄関に視線を向けた。梨本がつられたようにそちらへ顔を振り向ける。
「俺、革靴だぜ? カーゴパンツに革靴ってかなり間抜け」
 その瞬間は面倒なことは意識の外に飛んでいた。ただ、冷静で目端の利く梨本が抜けていたのがおかしかった、それだけだった。
 笑いながら梨本の顔に眼を戻し、門間は思わず息を呑んだ。

 何と言えばいいのか。
 狼狽する梨本を、門間は今まで見たことがない。
 梨本は実は感情も表情も豊かだ。それでもそこに浮かぶのは大抵が余裕ある笑顔、仕事に真剣に取り組む顔、たまに見せる苛立ち、怒り、そういったものだ。少なくとも門間が目にしてきた梨本の表情に、こういうバリエーションは今までなかった。
「俺、…………その——悪い」
「いや、別に…………何もそんな、冗談だよ」
「ああ」
 梨本の指の先、肩の線が微かに震えていた。眼を逸らす梨本の泣きそうとも思える顔に、門間の中で何かが酷く傷ついた。
 革靴とカーゴパンツ。別に、それ程のことではない。言った門間も、言われた梨本も、分かっている。梨本の動揺はその会話の中身に対してではないのだろう。鋭くはない門間にも、そのくらいはよく分かる。笑いながら馬鹿なことを言い合ったあの時には、どう頑張っても二度と戻れない。服とちぐはぐな靴のように、それはどちらの眼にも明らかだった。
「——ちゃんと、俺のこと嫌いになったか」
 不意をつかれ、何を言われたのか分からなかった。梨本は俯いたまま吐き捨てると門間の肩に手を伸ばした。掴み、引き寄せられて腕の中に収まってしまう。門間は決して華奢でも小柄でもないのに、庇護されているかのように抱き締められ、カーゴパンツをぶら下げたままどう答えていいか分からずにただ立ち尽くす。
「好きに使っていいから。何でも」
 そう言って門間から離れた梨本は、結局門間が諦めて帰るまで、どこかに出かけたままだった。

「で、その後連絡したの」
 話すつもりなど微塵もなかったが、妹尾は話さなきゃまた襲うぞと、本気か冗談か分からないことを言いながら門間を会議室に連れ込んだ。
 確かにあの言い訳はお粗末だったし、妹尾が何一つ推測しなかったわけがない。それでも流石に同性といくところまでいってしまったなどと言うのは憚られ、キスされた、とだけ説明した。妹尾がそれを信じたかどうか門間には分からないが、正直言ってどちらでも変わりない。妹尾がどう思おうと、あったことは取り消せないし、門間の内心の不確かな何かが形になるというわけでもなかった。
「いや——何か、何も言えないのに連絡取っても仕方ないですし」
「ほら、門間は例え嫌でも切り捨てられないって言ったろ。俺を避けられないみたいにさ?」
 妹尾が意地悪くそう言って笑う。殆ど沈みかけた夕陽を背中に浴びて立つ妹尾は、確かにいい男だと門間も思う。妹尾とそういうことになれば、きっと大事にしてくれるのだろう。そんなことを考える時点で大分感覚が麻痺していると思わないでもなかったが。
 門間は会議室の積み上げられた椅子を下ろして腰掛けた。会議机に乗ったダンボールには会議資料が入っているのか、室内には焼けたトナーの匂いが漂っていて、門間は思わず吸い込んだ息をそっと吐いた。
「何か、嫌いになってくれって言われたら嫌いになれないじゃないですか。……分かりますか」
「うん、何となくね。それが計算だったら却って引くけど」
「あれからあいつのことばかり考えちゃって。何であんなこと言うんだろうとか、あんなことしたんだろうとか、考えたって埒が明かないけど」
「顔色悪いのは考えすぎ?」
「いや——何か、風邪かな。調子悪いんですよ。変な病気かな」
 ふざけながら言ってはみたが、確かにあれ以来、門間の体調はよくはない。慣れない行為のせいかとも思うが、無理矢理されたにしては最後には感じてしまった記憶もあるし、口でどう言っていようと、梨本は丁寧だったから身体には傷はない。梨本はどうしているかとこの期に及んで考える自分に呆れるべきなのかどうなのかも、門間にはもう何が何だか分からなかった。
 結局部屋に戻らなかった梨本は、電話にも出ようとしなかった。門間がついに出来なかった『拒否』を自らしようと思ったのか、そうではないのか。
 人を怒鳴りつけているときでさえどこかにあった余裕を失った梨本は、酷く繊細で脆く見えた。門間のために決めたくないという言葉——あくまでもお互いが自分のために決断しなければ意味はないと、そう言いたかったのだろうか。
 だとしたら、梨本は自分自身のためにどうすることに決めたのか。
「門間」
 妹尾の低く抑えた声に物思いを破られて、門間はゆっくり顔を上げた。妹尾の思いのほか真剣で強張った顔が、柔らかな夕焼けの色に染まっている。
「四百四病の外ってことば、知ってる?」
「し、……何ですか……?」
「数字の404に病で『四百四病』って、人間が罹る一切の病気ってことなんだって。それ以外、つまり恋わずらいってことだよ。門間、お前の罹ってるのはそれじゃないの」
「恋煩い? 妹尾さん、何言ってるんですか」
「門間、彼と寝たんだろ。イった?」
 何てことを聞くのかと、門間は口を開いたまま固まった。ふざけているのか、揶揄されているのかと思ったが、妹尾は真面目な顔をして、椅子に座る門間の前にしゃがみこむ。子供と視線を合わせるように眼の高さを同じくして、妹尾は両手で門間の頬を挟んだ。
「それならいいじゃん。考えても分かんないなら今は考えるなよ。間違いならいつか絶対気付くから」
「妹尾さん……でも、俺」
「今追いかけないと失くすぞ、門間」
 妹尾は柔らかく微笑んで、門間の頬をぱちりと叩いた。立ち上がった妹尾が何か言っているが、門間の頭はそれを言葉として受け取れない。
 恋煩いとは、的外れもいいところだ。確かにあの日、梨本に抱かれて何度も名前を呼んだけれど。梨本のことを考えてばかりで、他に何も入る余地はないけれど。
「…………嘘だろ」
 頭を抱える門間の耳に、会議室の扉が開き、妹尾が出て行く足音が微かに響く。抱えた頭のてっぺんに夕陽が当たって温かい。どういうわけか涙が滲み、門間は一人鼻を啜る。
 追いかけるのは俺か、あいつか。
 分からない。幾ら考えても分からなかった。

 梨本の、泣きそうに歪んだ顔を思い出して門間は泣く。押し入ってくる梨本の熱さを思ってまた泣いた。
 涙が止まって、鼻をかんだら電話をしよう。きっと梨本は出ないだろうが、それなら部屋まで行けばいい。正直これが恋だと実感は出来ないが、所詮追いかけさせるなどというのは幻だったのかも知れない。
 あいつの背を追いかける。
 今までもずっとそうだった、それならこれからもそうでどうしていけない。

 顔を上げて赤く染まった空に目をやった。光が映り、並木が、ビルのガラスが色を変える。こげ茶色に見える街路樹の葉に、梨本の背で翻るマフラーが重なって、手招くように揺れて見えた。