うそとほんとう

 兄ちゃんがゲイだと知った時は、嘘だと思った。あの兄ちゃんが、まさか。
 そして次に、兄ちゃんを恨んだ。何で俺の結婚が決まってから言うんだ? せめて彼女が婚姻届に判を押してからにしてくれ。
 三度目には、失神しそうになった。久しぶりに見る兄ちゃんは、結構な美女になっていた。

 目に見えそうな質量の沈黙で、築二十三年の我が家の居間は気圧が下がったような雰囲気だった。
 居間の真ん中に置かれたテーブル。一家団欒の場であり、三嶋家のダイニングテーブルにもなるそれは、何とも言えない雰囲気の面々に囲まれている。
 胡坐をかいて、これ以上ないくらい渋い顔の父隆弘。目をぱちくりさせて息子(けったいな格好の方だ)を見つめる母良美。そして見知らぬ女性ならぬ、兄の竜矢と、俺。
 テーブルの四辺に一人ずつ。それぞれがそれぞれに、重苦しい顔をしていた。
 兄を見ても、未だに信じられない。元々兄はきれいな顔をしてはいた。だが、女っぽいと思ったことはなかったのだ。それは彼の性格や素行に因るところも大きかったものの。
 かつらではなさそうなショートカットの髪は、男の髪にしては長い。丁寧に、そして綺麗にセットされている。
 薄化粧に見えるように丹念に施された化粧は、俺の彼女である有里子より余程上手だ。
 服は地味な黒のパンツスーツだが、流れるようなラインを描く生地のお陰で、兄の細いながらも男らしい体つきは巧妙に隠蔽されている。
 竜矢が口を開いた。元々ドスの利いた声ではないが、上ずったそれは、奇妙に女らしく聞こえる。それとも、外見のまやかしだろうか。
「本当にごめんなさい」
 二つ上の兄が謝るなど、両手の指で余るほどしか聞いた事がない。今年の六月で二十七になる俺は思わず拳を握った。
 珍しすぎる。やっぱり本気なのか、兄ちゃん。
「しかしリュウ、お前オカマってのは」
 父の声は震えている。喋ろうと息を吸い込むたびに、父の顔が赤くなっていく。倒れては大変と、母が父を支えるように隣に移動した。
「それにしても、竜矢、あんた綺麗ねえ。母さんの若い頃にそっくり」
「何を言ってるんだ、お前は! こんな時に」
「だって、ほら、お父さん! 初めて一緒に映画を見に行った時、私こういうの着て」
「いやまあそりゃ、お前の息子だからな、こいつは」
「ほらね、ほらね。昌也だってそう思うでしょ?」
「っていうか二人とも、今そんな話してないし」
 俺の制止に我に返ったように、ちょっとだらしなく緩んだ父の顔が引き締まった。
「そうだ、リュウ。お前、はっきり言ってみろ。本当にその、お前は、何だ、あー、えーと」
「男性が好きなんです」
 綺麗にカールした兄の睫毛が父を向く。涙が溜まった目に怖気を感じたのか、くらっと来たのか。ともかく父は一瞬拳を握り締めた。
「そんな、そんなことを」
 顔に血が上った父は、ゆらりと立ち上がり、握った拳を徐々に上げていく。
「お父さん」
 母の咎めるような声も耳に入らないようだ。
 俺はかなり迷った。兄ちゃんを庇って、父さんを止めるか。
 それとも、昔はドラゴン刺繍の真っ赤な裏地のガクランを着ていた兄ちゃんが、父さんを返り討ちにしないうちに、引き離すか。
 しかし、父の拳は、上げた時と同じようにゆるゆると下がっていった。父はがっくりと肩を落として呟いた。
「駄目だ、女は殴れない」
「嫌ねえ、お父さん。竜矢は男の子よ」

「それにしてもお母さん驚いちゃったわあ。あの子、女の子になりたかったなんてねえ」
 母は、夕飯の茶碗を片付けた後、そう言ってテーブルについた。
 父は何となく魂が抜けたようにして煙草をふかしている。俺は久々の実家の飯にすっかり満腹で、幸せな気分だった。
「あんな乱暴者だったのにな、兄ちゃん」
「あら、でも根は優しい子なのよ。あんたいつも上級生にいじめられて、竜に助けられたじゃないの」
 母はそう言って無邪気に笑うが、いじめられた理由が竜矢なのだからちょっと納得いたしかねる。
「あれは竜矢が皆をボコにするからだろ。でも、普通女の子になりたかったらもっとか弱くなんない?」
 竜矢の通っていた中学は、当時は地元でも有名な荒れた学校だった。二つ下の俺は、新しく開校した中学の一期生で、そこには通っていない。
 それで感化されたのか、竜矢は喧嘩に明け暮れ、当時の写真を見ると、絵に描いたようなヤンキーだ。
 顔はそこそこに綺麗なのだが、性格はゴリラみたいなもので、そもそも「竜」なんて名前をつけたことを両親は悔やんだに違いない。
 その竜矢が「小さい頃から、本当は自分が女の子のような気がしてて」などと言ってさめざめと泣き出したら、そりゃあ父さんも魂が抜けると言うもんだ。
「でもね、前にテレビで見たけど、性同一障害っていうの? そういう人たちってものすごいストレスを感じてるんだそうよ」
 父が母をちらりと見る。
「だって、気持ちは女性なのに、体が男なのよ。あんた考えても見なさいよ、それってすごく気持ち悪いじゃないの」
「や、まあそう言われたらそうだけどさあ」
「そうか」
 いきなり父が断固とした声で言い放った。
「だからリュウは非行に走ったんだな。分かった、分かったぞ母さん」
 何故か涙ぐんでいる父を見て、母も目頭を押さえる。
「これからは、暖かく見守ってやろうじゃないか! 昌也!」
「なに」
「孫はお前に任せた。わんさと作れ。そして一人くらいリュウにくれてやれ」
「何でだよ」
「あの子は子供の出来ない体なんだ!」
 何だかすっかり現実から逃げてしまった父に仕方なく頷きながら、俺は頭を掻いた。

 

 翌週の土曜日、有里子とお茶をしていたら兄から電話が来た。有里子に女装の竜矢が見えるわけでもないのに、俺は慌てて携帯を手で隠してしまった。幸い有里子はケーキに山と盛られたクリームに夢中で、俺のことなど見ていなかったが。
「兄ちゃん? どうしたの」
「昌也、今どこ?」
 どことなくカマっぽい。というか、女っぽい。ぶるりと身震いしながら小声で言う。
「どこって、彼女とデート中」
「そう。じゃあ、明日、暇?」
「ええ?」
 何だか彼女の目の前で浮気相手から電話が来た気分になってきた。
 有里子に電話を指して席を立つと、彼女は満面の笑みで頷いた。よっぽど美味しいケーキらしい。可愛いなあ、と思ったりしながら店を出たところで携帯を耳に当てる。
「どうしたの、何かあった? 親父あれからさ……」
「明日会えないかな。ちょっと話があって」
「いいけど……」
 どこかしおらしい竜矢と時間を決めた。兄の部屋に行くことにして、電話を切る。
 切った電話の向こうの、有里子より数段美人だった兄——って言うか、姉? ——の顔を思い出して、何故だかちょっぴり嫌な予感がした。

「おう、昌也」
 ドアを開けたのは、竜矢だった。
 自分の目をごしごしブラシでこすりたくなる。ばっさり切った髪は男にしか見えない短髪。綺麗な顔は、あくまでも男にしては綺麗、の範囲内。
 銜えた煙草も、だらしなく着た服も、何から何まで要するに男らしい竜矢そのものだ。
「兄ちゃん?」
「てめえ、兄弟の顔も忘れやがったのか」
 散らかった部屋の真ん中に胡坐を掻いてこちらを向いている兄に、女らしいところなど一つもない。
「兄ちゃん!!」
 あまりに嬉しくて、不覚ながらちょっぴり涙が出てしまった。
「やっぱり、皆を騙そうとしたんだろ? 男が好きなんて嘘だったんだ、よかったー」
「ああ? 何言ってんだ、お前。俺はゲイだよ、正真正銘リアルホモだよ、わりーな、昌也」
 ガハガハ笑う竜矢に、何が何だかわからずに固まっていると、いいから座れ、と指示された。子供の頃のように言われたとおりにその場に座る。思わず正座してしまったのには気付かなかった。
「いや、親父にそのまま言ったら卒倒するか殴るかだろ? ああしておいたら上手く収まるんじゃねえかなあとか思ってよ」
「……じゃあ、女になりたいとかいうのは」
「お前二十年以上も俺の弟やってて何寝ぼけてんだよ。んなわけあるか、馬鹿」
 竜矢は整った顔を歪めて煙草の煙を鼻から出した。
「たっかい金、プロに払って女装したんだからな。歩き方講習なんか受けて。全く、ケツ振って歩く癖がついたらどうしようかと思ったよな」
 段々力が抜けてきた。そして同時に腹が立って来た。
「——演技賞ものだよな。泣いてたじゃん……」
「笑いを堪えたら泣けてきてなー」
 竜矢はおかしそうに言って、煙草を消した。
「でもさ、お前には一応言っておこうと思ってよ。マジで女になったとか、弟に思われんのもキツいし」
「父さん、あの子は子供の産めない体だーとか言っちゃってたよ」
 思わずきつい口調になった。竜矢がちょっと首を傾げて俺を見る。そうやって黙っている兄を見ていると、昨日の姿が目に浮かんだ。真っ赤になった父の顔も。
「父さんだって、辛いのにさ。そんな、冗談にして。兄ちゃんひでえよ」
「昌也」
 兄は、胡坐を解いて、正座をした。俺の正面に対すると、真面目な顔で俺を見た。
「悪ぃ。俺もずっとどうしていいか分かんねえでいたんだ」
「兄ちゃん……」
「俺だってガキの頃からそうだったわけじゃねえから、何か今更な」
 確かに昔から兄には彼女が沢山いた。沢山というか、山ほどと言うか、要するにとっかえひっかえ。
 あの頃の竜矢に関する両親の心配は、専ら他所の娘さんをキズモノにしないかどうかと言うことに尽きた。
「けど、俺の性格じゃあ、隠すもんも隠せねえからよ」
「兄ちゃん——」
 そう思えば兄も不憫だった。世の中、同性愛に理解があるとは言えない。フィクションの中ならば、いいじゃん、愛さえあれば、なんて言えるけれど、実際身近にいたらどうだろう。
 自分の兄弟が、友人が、恋人がそうだったら。
 笑って「それが愛だよね」なんて言ってあげられるだろうか?
 俺は思わず、竜矢の腕を握った。ちょっと(どころじゃないが)乱暴で、口が悪くて、性格にも難ありだけど、でも弟にはいい兄貴だった。そんな竜矢が悩むのは辛かった。
 俺の手をそっと外した竜矢が、その手を伸ばして俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「お前の結婚式は、兄ちゃんと姉ちゃんと、どっちがいい?」
「……」
 俺にどつかれた竜矢は、床に転がってげらげらと笑い転げた。だけど、その目尻がほんの少し濡れていたのは、見なかったことにしてやろうと、兄思いの俺は思った。