四百四病の外 4

先延ばしにすれば問題が消えてなくなるのなら、息を潜めていればいい。そうはいかないから対策を考え、出来うる限りの速さで実行するのだ。損害は最小限に、利益は最大限にするために。

 昨日の営業部会での部長の話が何故だか一日中頭の中を飛び回り、門間はげっそりして会社を出、一階のロビーへ降りた。明けた今日も普段と何ひとつ変わらない態度の妹尾にも自分にも原因を作った梨本にも腹が立って仕方がなかったが、怒りをぶつける相手も見つからない。こういう日に限って得意先には無理を言われ、持ち帰れば企画にも文句を言われ、泣きっ面に蜂とはまさに今の自分のことだと溜息が出た。
 白い息を吐きながら、門間は気が進まないながらも携帯を取り出した。部長の言うとおり、放って置いても虫歯と物事は解決しない。だったら嫌でも何とかするしかないのだ。
 打ち上げとか何とか言えば誘いやすいし何故か感じる後ろめたさも軽くて済む。正直言って自分のことしか考えていないと思ったが、それでも何もアクションがないよりはマシかも知れない。
 そう決めながらも門間は何度も電話帳を呼び出しては消し、携帯を開いては閉じして時間をいくらか無駄にした。結局何事もなかったように無視することも出来ず、突っぱねることも出来ずに煩悶して、とりあえず顔を見て話そうと決めるのが自分の精一杯のようだった。
 K建設のコンペの結果如何でお祝いになるか、残念会になるか、名目は変わるだろうが、とにかく顔を見る理由は出来る。とにかく、そうでもしないとどうやって会えばいいかも分からなかった。
 そんなことをしている間に、何人かの同僚に追い越された。時間は遅いが、ビルのガラス張りのロビーには退社する者、出先から戻った者が行き交っている。ガラスに映る車のライトや色とりどりのコートを眺めていたら、どういうわけか泣きたくなった。
 逡巡したままビルを出て、結局携帯をコートのポケットに仕舞い込む。別に一時間二時間遅くなったところでこの世が終わるわけではない。いっそ終わってくれたら楽なのにと思いながら、門間は足早に歩き出した。

 予想に反して、呼び出し音が暫く続く。酒の勢いを借りてまで掛けたのに、と理不尽に腹が立った。梨本がどこにいるか分からないので、地下鉄の入り口の前で電話を掛ける。酔っ払った中年の大きな声に気を取られていると、梨本の声がした。
「門間?」
 電話だから当然なのだが、突然耳の中で聞こえた声に飛び上がり、思わず大きな声が出る。
「うわ、びっくりさせんなよ!」
「何言ってるんだ? お前が掛けて来たんだろ」
「そうだけど、急に出るなよな」
「無茶苦茶言うな」
 仕方がないなというふうに笑う梨本の声を聞き、どうしてこのままではいけないのかと心の底から疑問に思う。思ったことがそのまま口に出てしまったのは、やはり酒のせいかも知れなかった。
「梨本——。俺……このままじゃ駄目なのか? 俺、お前と友達だと思ってる。お前だってそうだろ?」
 梨本は何も言わない。電話の向こうの静かな息遣いは、答えるのを拒否しているのかそれとも考えているからなのか、門間には分からなかった。
 掘り下げるのも恐ろしい。恐ろしいときに人間は立ち向かうのか逃げるのか。少なくとも今の門間には勇気も見栄も何もない。あるのは僅かばかりの酒精の助けで、まるで小人のように微力なそれは、結局ただの気休めでしかない。
「そういう…………いや、電話で話すことじゃないか」
 その証拠に、梨本の不機嫌そうな声に門間は必要以上に取り乱し、やたらと大きな声を上げた。
「なあ、コンペ! 昨日のコンペどうだった?」
「——え?」
「K建設だよ! お前のことだから勝ったんだろ?」
 門間の脇を通り過ぎ、地下鉄駅に入っていく女の子の一団、中の一人が大きな声で話す門間を振り返って微笑んだ。余程大きな声だったのだろう、門間は駅に背を向けて声を落とした。
「なあ、どうだったんだよ。今どこ」
「一遍に質問するなよ。今は会社で、コンペは勝ったよ」
「そっか。じゃあお祝いしようぜ、お祝い!」
「門間」
 ほんの少し苛立ったような、諦めたような。どこか疲労に似たものを滲ませた梨本の声に、門間の声は益々裏返る。
「残業なんかしてないでさ」
「じゃあ、会社に来いよ」
「会社——? だって俺もう社員じゃないし、誰かいるんだろ?」
「誰も、いないよ」

 照明を落とした暗い室内はいやに狭く、息苦しく思えた。デスクスタンドの明かりだけが机の上を煌々と照らし、逆に周囲の暗さを際立たせている。
 明かりの輪の中にあるのは、空のクリアファイル、ボールペン、クリップが二つ。ただ単にそこに置かれたそれらを、梨本はまじまじと見つめていた。まるでそのクリップが魔法のクリップで、見つめていれば何か不可思議なことが起こるとでもいうように。
「梨本」
 門間の声に、梨本はゆっくりと面を上げる。表情を動かさず、梨本は背もたれに体重を預けるとああ、と言った。今時古臭い事務椅子が、ぎしりと不吉な軋みを上げる。
「何やってんだよ、暗い中で」
「別に。考え事だ。そのための残業だし」
 結局切れ者営業の話術に押し切られここまで来てしまったが、本当は今すぐ走って逃げ出したかった。そう思いながらも逃げ出す口実すら思いつかず、門間は手近な椅子を引き寄せて腰を下ろした。梨本は目だけ動かして門間の動きを追ったが、身動きしない。顔の半分にスタンドの明かりを受けた梨本は、雑誌のモデルか何かに見えた。
 転職して一年、足を踏み入れたことはないが、辞めてからより在職した年数の方がずっと長い。勝手知ったる古巣は郷愁を感じさせるどころかどこか不安を煽りたて、暗闇が真綿のように門間の喉を締め上げた。それは誰もいない職場のせいでは決してなく、目の前の不機嫌な男のせいなのだと分かっている。分かっているが、認めたら何かを引き寄せそうで、門間は考えを巡らすことを放棄した。
「なあ、梨本、飯食いに行こう。ここ、やばいだろ」
「どうして?」
「どうしてって、俺もう社員じゃないんだしさ。別に何もしやしないけど、何かあったらお前だって怒鳴られるじゃ済まないんだから」
「何かって何」
「だから」
 門間は明らかに意図的に絡んでくる梨本を睨んで溜息を吐く。梨本は端正な顔を僅かに動かすと、微かに眉間に皺を寄せた。
「さ、梨本、行くぞ」

 門間の足が椅子にぶつかり、キャスター付きの椅子が机にぶつかった。突然動いた梨本に突き飛ばされた門間は、慌てて背後の机に肘を突く。
「何やってんだ馬鹿……!」
 門間の抗議が聞こえないのか、それとも聞く気など端からないのか。梨本は門間の身体を乱暴に押し、机に背中を預けさせた。
 机の上の辞書らしきものが倒れ、積み上げた書類が雪崩のように散乱する。この座席に座る同僚の顔が脳裏に浮かぶ。門間が辞めてから配置が変わっていなければ、大雑把で整理整頓が出来ない彼がこの席だろう。この惨状では、彼はお手上げに違いない。
 場違いなことを考えている門間の脚の間に、梨本が強引に割って入る。デスクスタンドの光が届かない梨本の顔は、門間からは見えなかった。
「梨本っ」
 上擦る自分の声が、映画の登場人物の台詞に聞こえた。現実ではない、架空の世界から響いてくるような自分の声を聞きながら、門間の意識は半分どこかへ浮遊する。
「退け、重——聞いてんのか!!」
 予告なく平手で頬を叩かれた。勿論、予告してから叩く馬鹿はいないだろうが。
 本気ではないが、子供を叱るように手加減しているわけでもない。一瞬の混乱の後、一気に頭に血が上った。脚を蹴り上げたが不自然な姿勢のせいでどうにもならない。腕を解こうともがいたら、圧し掛かる梨本に身体ごと拘束され、理不尽さに目の前が赤くなる。
「何なんだよいきなり……っ」
「お前が卑怯だからだ!!」
 いきなり梨本が上げた怒鳴り声に、門間は思わず口を噤んだ。
「拒否するならすればいいだろう! 友達をなくしたくないなんて寝ぼけたこと言いやがって、とっくに友達なんて思ってないんだ俺は!!」
 徐々に暗さに慣れた眼が、梨本の表情を捉え始める。強張った顔は、一年前、路地裏で詰め寄ってきたときと同じに見えた。スーツとコートを挟んでも梨本の身体の熱さを感じた気がして、門間は身を硬くした。
「梨本……ちょ、落ち着いて話そうぜ。取り敢えず俺背中痛——」
「抱いたら諦められると思うか? 案外幻滅して眼が覚めるかもな」
「お前何言ってるか分かんないって、マジで」
「嘘つけ。お前のそういうところが卑怯だって言うんだよ。本気で嫌なら本気で拒否しろ。俺に選択させるな!」
 正直、梨本の言っていることはよく分からなかったし、自分が何をどう感じているのかも分からなかった。理解しようと努力したのは一瞬で、目の前の切羽詰った状況に内省は中断される。
 コートとスーツを手際よく剥がしていく梨本の大きな手。ネクタイを手荒く解かれ、抵抗したらまた横面を張られた。暴れると、机の上の書類が更に床に舞い落ちる。頬に触れるスチール机の冷たさと散らばる印刷物から漂うトナーの匂いが、思考を否応なしに現実へと引き戻した。ここは深夜の前勤務先で、梨本も自分も男で、ああもうなにがなんだかわからない。
「やめろ、梨本——頼むって」
 首に、顎に、額に。唇を落とし舌でなぞる梨本は、表情のない眼を門間に向ける。
「中途半端で止めたら、お前は俺を許すだろ、門間」
「何言ってる…………」
「追いかけるのはいい。報われないのが嫌なんじゃない。『お前のために』選びたくないんだ、俺は——」
「梨本」
 掌で口を塞がれ、門間は思わず一瞬息を詰めた。
 これじゃあまるで出来の悪い映画の濡れ場じゃないか。今時AVだってこんな設定ないだろう。
 机の上の物を片端から薙ぎ払って、梨本が門間の身体を押し上げる。俎板の上の鯉、と独創性のない慣用句が頭の中で点滅した。
 梨本は右手で門間の口を塞ぎ、左手で器用に服をはだけていく。デスクスタンドはいつの間にか大きくずれて、部屋の向こう側を照らしている。
 布越しに感じる梨本の昂ぶりに、嫌悪と憤怒と悲哀がない交ぜになった感情が湧き上がった。喪失感が急激に膨らんで、悔しさに涙が滲む。これから行われるであろう一連の行為を思うと背筋が凍ったが、今更梨本に止める気がないことは、改めて聞くまでもなく自明だった。
「嫌ってくれ」
 梨本が言い、一瞬門間の眼を見つめる。意外な台詞に抵抗を忘れた門間の四肢を押さえつけ、梨本は平板な声で呟いた。
「友達でいましょうなんてはぐらかされるより、そのほうがずっといい」

 部屋の暗さが唯一の救いであり、また敵だった。見えないから、この感覚をもたらすのが梨本ではないと思い込むことも出来る。しかし見えないからこそ、煽られる快感もまた確かにそこに存在する。
 門間が身じろぎする度に、半分抜かれたベルトのバックルが机を叩き、無機質な音を立てる。かちかちという硬くて甲高いその音が、秒針の音のように過ぎていく時を刻む気がした。
 嫌だ止めろと言いながら、結局梨本の口腔内で質量を増す自分の半身が憎たらしい。何故主人の意に反してそこまで醜態を晒せるのかと分身に本気で腹が立つ。幾ら男の器官が単純で簡単なものだといってもこれでは余りに酷すぎる。だが、絡みつく舌と唇に成す術もないのは、結局自らの責任だった。
 机に仰向けにされたまま、天井を見上げて門間は目を瞬いた。そうでもしないと何かが溢れ、零れてしまいそうだ。自分の脚の間に膝をつき、顔を埋める梨本の姿を、出来ることなら死んでも眼にしたくない。歯を食いしばり、涙と泣き言と上がりそうになる声を全部まとめて飲み下す。
 言葉では表現できない開放感と絶望に、思わず掴んだ梨本の髪の毛を握り締めた。こちらを見据える気配を感じ、閉じていた眼をゆっくり開く。顔を上げた梨本は、怒ったような険しい顔をしたままで濡れた口元をゆっくり舐めた。自分の身体と梨本の舌をつなぐ、かすかに光る細い糸。目を開けるのではなかったと、門間は本気で後悔した。