四百四病の外 3

 グレーの絨毯を踏みしめる足が思わず止まる。柔らかい化繊は靴音をすべて吸い込む。その善し悪しは状況で違う気がするが、この場合門間の心臓にはよくなかった。
 白とグレーの無機質な空間に、梨本の長身が立っていた。腕にかけた黒いコート、分かるか分からないかのストライプが入った黒いスーツ、笑みの欠片もない真面目な顔。エレベーターホールから社の入り口までの廊下が、とてつもなく長く思える。逸らした視線の先、足元の繊維の色は、まるで自分の心中を映す鏡のような鼠色だ。
「どうも、お世話になってます」
 梨本の冷静な声が、低く響く。門間を追い越した商品企画部の社員が、おう、いらっしゃい、と声をかけた。
「え、と……商品企画は、下の階だけど」
「知ってる。ちょっと借りなきゃならない素材があって」
「そっか」
 梨本の目を直視できず、光沢のある紺のタイに眼をやった。散らばった水色の模様を見つめていると、梨本の抑制された声が聞こえる。
「どうした?」
「いや——、最近は忙しいの」
 余りにもどうしようもない自分の台詞に言った端から自分の舌を噛み切りたくなったが、梨本は真面目な顔で返事をした。
「K建設のコンペ、今日の夕方なんだ」
「K建設? あそこって出入り禁止になったんじゃなかったのか」
 門間が言うと、梨本はちょっと笑って肩を竦めた。外国人のような仕草も梨本にはよく似合う。
「まあな。それよりお前、これから昼飯?」
「うん」
「一緒に行かないか」
「——……」
「無理にとは言わないよ」
 断ればいいのかも知れなかった。忙しいとか、弁当を買ったとか、幾らでも言い訳ならできるというのに、拒絶できないのはやはり自分の弱さなのか。門間は頷いて顔を上げた。梨本は特別表情を変えることなくそこにただ立っている。給湯室から出てきた総務の女の子が、梨本を見て一瞬立ち止まった。
「財布、取ってくる」
 門間は逃げるように自席に戻り、鞄から財布を取り出した。
「門間、あのさ——」
 妹尾が何か言っているが、門間は上の空だった。適当に相槌を打って踵を返す。ドアを開けると、先程と同じところに梨本の背が見える。背筋の伸びた広い背中が、どうしてか酷く悲しく見えた。

 ビルの地下の定食屋は混んではいたが、店の中は案外広い。店の奥の四人がけの席に通されて、門間は梨本を前に無言のまま座っていた。梨本は特に何を言うでも促すでもなく煙草を吸っているだけで、それが却って門間の身の置き所のなさを助長するのだ。
 門間の煙草は殆ど吸ってもいないのに灰になり、梨本の煙草は忙しなく吐き出される煙となって宙に漂う。何も言わなくてもこうやって時間も灰か煙になればいいのに、と門間は無理なことを考えた。
「お前、うちの担当になってたんだって」
「ん? ああ——、言ってなかったっけ」
「誤魔化すなよ」
 小堀の話をそのまますると、梨本は苦笑して煙草を灰皿に押し付けた。
「営業に行ってもお前に会わないようにばれないようにしてた一年間の俺の苦労が、オヤジの一言で水の泡か」
「別に、ばれたっていいじゃないか。何で隠さなきゃならないんだよ」
「それは」
「失礼します!」
 口を開きかけた梨本の背後から大きな声がして、門間はそちらに眼を向けた。梨本の背後に妹尾が立っている。
「妹尾さん」
「すみません、お話中」
 妹尾は営業らしい作り笑いを梨本に向け、門間に視線を戻した。
「今日の三時からの営業部会、部長の外出で一時からになったんだ。さっき声かけたけど、お前聞こえてないみたいだったからさ。携帯にかけたんだけど、ここ圏外だし」
「あ、すみません。じゃあ十五分前には戻ります」
「うん、頼むわ」
 妹尾はそう言って微笑むと、梨本に眼を向けた。梨本は軽く会釈して、妹尾も返す。だが、妹尾はそのまま動こうとしなかった。悪意のない妹尾の顔には、単にこの人だあれ? と問いかける子供程度の興味しか浮かんでいない。同席者を簡単に紹介するのは当たり前だし、妹尾も逆にそうされなければ立ち去るタイミングを掴めないに違いなかった。要するに悪いのは見つめ合っている二人ではなく自分自身だということだ。門間は気が進まぬながらも妹尾に向かって口を開いた。
「妹尾さん、彼、梨本さんです」
「初めまして、妹尾です。えーと?」
 梨本が立ち上がり、軽く頭を下げて名刺を取り出す。一連の流れは毎日その動作をしている営業独特の無駄のない動きで、それに梨本の容姿が華を添えて随分と優雅に見えた。
「どうも、梨本です。門間さんの前の職場の同僚で、今は御社の担当もさせて頂いております。商品企画さんのほうには大変お世話になっております」
「ああ、門間の……先輩?」
「いえ、同期入社で」
「そうなんだ。落ち着いてらっしゃるから年上かと」
 妹尾はなあ? と門間に向けて笑いかける。
「俺も門間と同い年なんですよ。いやあ、何か同窓会みたいで楽しいっすね。俺、一緒していいですか」
 安堵と困惑で門間は一瞬どころか完全に凍りついた。妹尾のにこにこ顔の後ろから親子丼の盆を両手に持った店員が顔を出し、益々どうしていいか分からなくて思わず梨本の顔を見る。梨本は心中をまったく窺わせない完璧な微笑みでおばちゃんと妹尾に同時に笑いかけながら、穏やかにどうぞ、と言って腰掛けた。

「妹尾さん、急がないと!」
 閉まりかけた無人のエレベーターに飛び乗って階数ボタンを押し、門間はのんびり歩いてくる妹尾に手招きした。
 あれから妹尾は遅れて頼んだ自分の料理が出てくるまで梨本相手に楽しげに喋り続け、食事が終わった後も中々席を立とうとしなかった。一時から始まるという部会の資料を準備せねばと、門間は途中からそちらに気を取られてばかりいたのだ。
「もう五分前ですよ」
 妹尾がエレベーターに乗り込んだ。急く気持ちのままに閉まるボタンを何度か押すと、エレベーターがようやく上昇を始める。途中の階で乗る者がいないといいと、そればかりを考えていたせいで、妹尾が何事か言ったのを聞き逃し、門間は慌てて振り返った。
「え?」
「嘘」
「は?」
「部会、三時からで変更なし。部長も外出してないし」
「…………は?」
 門間は、思わず身体ごと振り返った。妹尾の顔からは先程までの笑みはきれいさっぱり消えていて、今は酷く真剣な表情に変わっていた。それなりに狭いはずのエレベーターが、やたらと狭く窮屈に思える。門間が口を開く前に、妹尾が低い声を出した。
「この間の相談の相手って、あいつなんだろ」
「…………梨本は男です」
「だから悩んでんじゃないの?」
「妹尾さん」
「お前、さっき財布取りに戻ってきたとき、すっげえ青い顔してたんだよ。眼も完全泳いじゃってるし、何かあったんじゃないかと思って」
 妹尾の顔に、いつもの余裕ある穏やかな表情は伺えなかった。強張った表情はまるで怒ってでもいるようで、何故か梨本の顔が瞼の裏に何度もちらつく。
 自分のために、梨本のために。
 否定しようと開きかけた唇に妹尾の手が伸ばされた。それが何か認識できないでいるうちに、気がついたら妹尾の顔が目の前に迫っていて、背中がエレベーターの壁に押し付けられる。頬を撫でる妹尾の指の腹の感触、半分空いたままの隙間から入り込んできた生ぬるい舌の温度。どれもがまるで実体験とは思えずに、門間の意識はそんな自分を俯瞰しているように遠かった。
 次の階で止まることを知らせる甲高い電子音に、門間は不意に我に帰った。妹尾はまるで今までのことなど夢だったとでも言うように、自然に離れて門間の後ろに移動する。
 エレベーターの扉が開き、他のフロアの見知らぬ社員が乗り込んでくる。門間は何も考えられず、ただ呆然と突っ立っていた。
「……多分、梨本さんはああいった内容の企画を持ち込んでらっしゃるんじゃないかな、そのうち」
 妹尾が門間の真後ろで、軽い口調で話し出した。エレベーター内に他に喋る者はおらず、妹尾の声だけがよく通る。
「勿論提案内容にもよるけど——この間相談された時にも思ったんだけど、君はきっぱり断れないんじゃないかな」
「——そんなこと、ないと思いますが」
 答えた門間の台詞の途中で扉が開き、先程乗り込んできた数名が一気に降りた。エレベーターはまた二人になる。扉が閉まった瞬間に、妹尾の手が門間の肩を強く掴んだ。振り向けない門間の耳元で声がする。
「ああいうこと、受け入れられる? 門間は、例え受け入れられなくても拒否は出来なさそうに見える。それは残酷な期待を持たせるってことになるんだよ」
「妹尾さん! 俺は」
「お前、危ういんだもん。俺もさっき、ねじ伏せたくなっちゃった、マジで」
「せ——」
 エレベーターの扉が開くと同時に妹尾はさっさと降りていく。掴まれた肩が、いつまでも痛かった。