四百四病の外 2

「あーもう急に横殴りになって……勘弁してくれ」
 同じ部の妹尾が門間の後ろを通りながら大きな声でそう言って、犬のように頭を振る。同僚の跳ね飛ばした雨粒が顔に飛び、門間は椅子をずらしてそれを避けようと試みた。
「水飛びますよ、妹尾さん」
「んー? ああ、ごめんごめん」
 そう言いながら更に頭を振って寄ってくる妹尾を笑いながら押し退けると、門間はパソコンの画面へと注意を戻した。
 最大化したエクセルの画面にはカラフルな表が示されていて、CtrlとCを押した証拠にセルの枠が点線になって点滅している。それをどこに貼り付けようとしたのか一瞬目的を見失って、門間は小さく溜息を吐いた。
 タスクバーの右端に新着メールを表示する小さなアイコンが表示されていて、門間の目はまたそこに吸い寄せられてしまう。先ほどからそれがそこにあるのは分かっている。開封こそしていないが、メールの差出人と『お世話になっております』という件名は既に見ていた。
「なーに不景気な顔してるんだよ?」
 妹尾が門間の隣、自席の椅子に腰を下ろしながらそう声を掛けてくる。どこかで聞いた台詞に門間は我知らず表情を曇らせた。
「いえ、別に……朝からずっとこれ見てたら目がちかちかして」
「ん? どれ」
 妹尾は門間の画面を覗き込み、ああ、と頷きながら素早く画面全体に目を走らせていく。
 妹尾は配属先の同僚で、同じ歳、同じ学年だが新卒入社の言わば先輩だった。社会人歴がまったく同じとは言え、違う会社からやってきた門間にしてみれば年齢と関係なく先輩だと思うのだが、妹尾はそういうことは気にしない性質らしく、自分に遠慮しないようにと言ってきた。
「お、いいじゃん、数字結構上がってるな」
 最近女性に人気の芸能人に似た顔は、男にしてはやや甘い。それでもそれなりにある上背や雰囲気のせいか、女性的なところは微塵もなかった。社内でも女の子に人気があり、今は派遣社員の受付嬢と熱烈交際中らしい。妹尾はパソコンの液晶画面から門間に目を移すと数度瞬きし、突然大きな声を出した。
「ああっ、課長っ!!」
「何だ、でかい声だな、妹尾」
 妹尾より数倍でかい声で禿頭の課長が返事をする。
「俺、忘れてました、門間と外出してきます! 門間、何やってるんだよ、早くしろ!」
 何を言われているのか分からず、思わず口が開いてしまう。そんな門間を急き立てて、妹尾はまたフロアを飛び出した。

「小降りになってよかったな」
 妹尾は百円ショップのものと思しき折り畳み傘を畳みながら脱いだコートを椅子の背にかけ、にこにこと笑う。一体どこへの外出なのかと思えば向かった先は近くのコーヒーショップで、要するにサボり、というわけだった。
「俺、あの資料途中なんすけど……」
「いいっていいって。どうせ金曜日の営業会議に使うやつだろ? 俺お前来るまで毎月作ってたもん。手伝ってやるからだいじょぶだいじょぶ」
「話すって……」
 妹尾は何言ってるんだよ、と眼を見開いて門間を見た。
「何か悩み事あんだろ? お前最近変だもん。喋ってみたら? 別に有効なアドバイスが出来るわけじゃないけど」
「はあ」
「どうせ悩んでるときなんて人の話耳に入るわけじゃないんだし。話するだけでもちょっと落ち着くなら、それでもいいんじゃない。ま、月並みな表現で何だけど、俺のことを穴かなんかだと思って叫んでみれば」
 妹尾の裏のなさそうな物言いに、門間は無意識に詰めていた息を吐く。主に女声の喧騒は、喧しいというほどでもなく、しかし静かともいい難い音量で周囲から迫ってくる。誰も隣のテーブルなど気にしていない。それがいいことなのか悪いことなのか知らないが、皆自分のことを喋るので精一杯で、周りに目を配る余裕などなさそうだ。
 きれいに着飾った女子大生らしき二人組、化粧の濃い高校生、子供連れの垢抜けた主婦、自分たちのようなサラリーマン、得体の知れない中年の男。誰もが自分のことだけ考えて生きている。そしてほんの少しの関心を、身近な誰かに注いでいる。それは家族であったり恋人であったり、関心の濃度も色合いも様々なのだろう。梨本の誰かが他ならぬ自分であるということに思いを巡らせた途端、猛烈な眩暈と戸惑いが襲ってきて、門間はテーブルに肘をつきぐらぐらゆれる頭を支えた。
「——よくある話ですよ。友達に告白された……って、中学生の悩みみたいですけど」
「あーコイバナですか」
 妹尾はからからと笑うと、プラスチックカップを持ち上げた。喉が渇いていたのか席に着くなりアイスコーヒーを一気飲みした妹尾のカップに残っているのは殆ど氷で、軽そうな音がする。妹尾はちょっと待ってと言い残すと立ち上がり、レジへ向かった。戻ってきた手の中のコーヒーは先程よりワンサイズ大きくて、門間は思わず吹き出した。
「妹尾さん」
「いや、もう俺そういう話だいっすきなの。さ、どうぞ、どうぞ」
「……話していいのかどうか悩むなあ」
「そこまで言ったら最後まで言ってくれないと。今度は俺が悩んじゃいますよ」
「というか、戻らなくていいんですかねえ」
「大丈夫、俺たちには優秀な課長と部長がついている」
「こんな時だけ」
 妹尾を軽く睨み、門間は再度溜息を吐いた。妹尾は好きだしいい同僚だが、さすがに何もかも包み隠さず話すというわけにはいかない。それは梨本のためというより主に自分のためなのだが、だからと言って誰かに咎められることもないだろう。
「だから、まあ……好きじゃないけどすごく、——仲のいい……子に告白されて、でも俺はそんなふうに見たことなくて困惑してるという」
「まあよくあることだなー」
 妹尾は仕事中より余程目を輝かせてうんうんと頷いた。
「それってでもさ、恋愛の切っ掛けと思えばいいんじゃないの? 別に絶対駄目ってわけじゃないんだろ? あ、もしかして人妻とか?」
「いえ、独身です」
「じゃあさ、今までは友達だったけどこれから意識してみてもいいんじゃない。今彼女いないんだろ」
「いませんけど。でもなんて言うのか——」
 門間はストローでアイスコーヒーを掻き混ぜ、攪拌される液体と細かい氷をぼんやり眺めた。なんとなく、翻弄される自分のようで、氷が可哀相になる。そう思って手を止め、妹尾の甘ったるい容貌をぼんやり見つめた。梨本も、女好きのする顔をしている。しかし妹尾と梨本の雰囲気はまったく正反対と言っていい。
「門間?」
「あ……すいません」
 余程長い間そうやって見つめていたのか、妹尾が苦笑を浮かべ、目を細めてこちらを見ていた。門間の冷たくなった手のひらからプラスチックカップを引き剥がすと、テーブルの上に置いてくれる。
「ぼんやりしすぎだよ」
 紙ナプキンで門間の手をさっと拭うと、妹尾は上の空だなあ、と言って優しく笑った。こういう優しさが梨本にあればもう少し素直に聞けたのかも知れないと、埒もないことを考えて門間も笑う。
 そういう梨本であれば冷静でいられたのかと聞かれれば実はそういうわけでもないのだが、梨本の鋭さやある種の傲慢さが劣等感を刺激するだけに、今はそう思うほうが楽だった。
「門間さあ」
「はい?」
「——いや、いいや」
 妹尾は歯切れ悪くそう言って、自分のコーヒーを口に運び、子供のように緑色のストローの端を噛む。
「どうせ断るんですけど、友達としては失くしたくないし、付き合うのは考えられないし。そんなんで憂鬱になっちゃって。すいません」
「謝ることじゃないだろ、別に。でも勿体ない気もするなあ。俺なら取り敢えず付き合ってみるけどな。だって駄目なら別れればいいんだし。それは誠意がないとかそういうんじゃなくて——何て言えばいいのかよくわかんないけどね」
「妹尾さんの言っていることは分かりますよ。でも、そういうわけにもいかないんで……」
「ふうん」
 門間の顔色を窺うように見つめる妹尾の視線を避けて、門間はコーヒーに口をつける。攪拌しすぎて分離した水分がストローを通って舌の上に運ばれる。薄まったはずのコーヒーは、何故かやたらと舌に苦かった。

『お世話になっております、梨本です。先日は驚かせてしまったようで失礼致しました。ご返答は急ぎません。無理を申し上げているのは承知の上です。宜しくお願い致します。』
 会社のアドレスだというのを考慮してのことだろう、梨本からのメールはそれだけだった。携帯や自宅に送ってこないのは、見てもらえないことを予想してかも知れないし、違うかも知れない。
 溜息を吐いてメールを削除し、パソコンの電源を落とす。今すぐ部屋に戻って布団にもぐり、全部忘れてしまえたらどんなにか楽だろう。しかし幾ら眠ったところで目覚めれば悩みが消えているわけもないのだった。
 二晩考えても三晩考えても、うまい解決策など思いつくはずはない。だが、だからと言って考えることを放棄するわけにもいかない。門間は心底憔悴していた。
 あれから一週間近く経って、結局考えは堂々巡りを繰り返し、どこに行き着くこともなかった。妹尾も最初のうちこそ笑っていたが、短期間で明らかに頬がこけた門間に心配そうに声を掛けてくるようになった。適当に妹尾の親切を受け流し、梨本のメールは敢えて頭の中の受信箱に入れたまま放置した。
 梨本がしつこく電話を掛けてきたり、繰り返しメールを送ってくるような奴だったらどんなに良かったか。門間は心底そう思って半分残したホカ弁の蓋を閉めて溜息を吐く。梨本の自制心は誠意と本気の表れなのかと、そう思えば尚更胸が締め付けられた。

「門間君、ちょっといいかい」
 いきなり声をかけられ、門間はぼんやりと見つめていたディスプレイから慌てて顔を上げた。窓際の部長が席で手招きをしている。隣に立っているのは商品企画部長の小堀で、門間は殆ど口をきいたことのない人物だ。
 門間は転職前まで、今の会社の担当営業をしていた。もっとも主担当は別の先輩社員であったが、サブとして何かと顔は出していたほうだと思う。しかし、小堀は丁度門間が引き抜かれた頃に異動でやってきた部長なので仕事上の付き合いはまったくない。五十がらみの年齢相応の薄い頭と出た腹が、恐らく安くはないであろうスーツを安く見せている。
「何でしょう」
 門間が近づくと、小堀が訊いてきた。
「君、前の会社に吉岡君っていたかね」
「あ、はい、一期下に……」
「そうか。いや、今度担当変えがあってね、挨拶に来るっていうもんだから」
 一応どんな人物か訊いておこうと思って、と小堀は人柄のよさそうな笑顔でしきりと頷く。頷くのが癖なのだろうか。それにしても余りにも絵に描いたような善人顔で、これで世間を渡って行けるのだろうかと余計なお世話ながらも思わずにはいられない。
「そうなんですか。じゃあ山下さんと斉藤くんは外れたんですね」
 門間が言うと、小堀は大きな眼鏡のレンズの後ろで眼をぱちぱちさせて首を振った。
「いやいや、山下君はもう一年前に外れてるよ。うちの担当は君が来るちょっと前から梨本君だ。梨本君は知ってる? 斉藤君は彼のサブ的な立場じゃないのかなあ。あ、彼は吉岡君になっても来るって言うから」
 折角耳から入った声が瞬きするたびにそのまま抜けていくような、心許ない感覚に襲われた。吉岡のことをいくつか訊かれて答えたが、余り意識してはいなかった。なにやら世間話を続ける小堀と部長の前を辞して席に着く。気がつけばいつの間にかスタンバイ状態で黒くなったディスプレイに呆けた自分の顔が映っていて、門間は本気で驚いた。