四百四病の外 1

「好きだ」

 衝撃的な台詞をクソ真面目な顔で吐き出すと、台詞を発した本人は表情を変えずに背中を向けて歩み去った。去年の今頃、成り行きで門間が選んでやったマフラー。梨本の背中で翻るそのこげ茶色が、網膜に焼きついた。

 門間が転職してもう一年が経つ。あっという間の一年で、気付けば過ぎていたと言うしかない。新卒で前の会社に入社したときに比べればまだいいが、それでも新しい職場は気も遣うし勝手も違う。仕事を覚え、人を覚え、社内のルールを覚え。慌しい毎日の中で、梨本の存在は門間の喉に魚の小骨のように刺さっていた。
 同期入社でひとつ年上の梨本とは馬が合って、かなりの時間を一緒に過ごした。お互いの彼女を紹介したり、酔っ払って公園で寝たり、馬鹿なこともやったりした。その存在が重石のように圧し掛かり、息苦しくなったのはそれ程前のことではないのだ。
 梨本は仕事とプライベートを区別する。その切り替えは正に見事と言うしかない。先程までお互いの立場を主張して怒鳴りあっていたかと思えば、何の含みもない笑顔で昼飯に行こうなどと言ってくる。それは別に門間が相手だからではなく、梨本はすべての人に対してそうだった。そんな性格に加え、人並み以上に回転の早い頭や端正な容姿が逆に誤解を招き敵を作ることもあるのだが、本人はそういったことには無関心で、去るものは追わない主義を徹底していた。
 そういうところが彼の長所でもあるのだが、仕事で散々やり込められ、五分後に笑って二人で酒を飲むという芸当が、いつからか門間には出来なくなってきた。入社したての頃はそれでもよかったが、社歴を積み上げて三十路を前にすると、出来る友人の背中を追いつつ笑って見せるのも複雑だ。それは単に下らないプライドでもあるのだが、偽らざる本心でもある。
 だから、転職することで、梨本が自分を追いかけてみればいいとそう思った。せいぜい俺を恋しがって泣けばいい、去るものを追う辛さを知ればいい、と。半ば子供の意地悪にも似たその願いが、こんな形で実現するとは想像だにしなかった。

「よ、主任!」
「何だよ」
 梨本は苦笑すると、マフラーとコートを丸めて畳に放り出した。ネクタイを緩め、おしぼりを差し出す店員にビールを頼むと門間に視線を戻す。整った顔には相変わらず刃物を思わせる鋭さが浮かんでいて、門間は思わず手を拭くふりをして目を逸らした。
「この間臼井と田中と飲んだんだ。お前昇進するんだろ? おめでとう」
「まあ、昇進ってほどの昇進じゃないさ。昇給は雀の涙だぜ? 名前だけだよ」
「それでもさ」
 快活に笑う梨本は、顔の造りだけではそれほどきつさを感じさせない。背も高く身体もがっしりしているが、造作だけ見れば特別鋭い顔つきと言うのでもない。門間のほうがよく猫のような顔だと言われるくらいで、吊り上った眦が性格に反してきつい印象を与えがちだ。梨本の二重の目は吊り上っても垂れてもおらず、丁度よい角度に収まっている。その、一見エキセントリックなところなど皆無と思わせる瞳でこちらを見つめる梨本の視線が痛いくらいに感じられ、門間は割り箸の袋を意味もなく折り畳んだ。
 転職したのを責められていないのは分かっている。転職後の仕事の成果を報告すれば、本当に嬉しそうに、我が事のようにして喜んでくれたことにも恐らく嘘はない。それでも、会う度に投げつけられるこの視線の何かが門間を言いようもなく不安にさせた。
「そういえばさ、総務のカナちゃん結婚するんだぜ」
「マジで!? じゃあ何、落合さんと別れたの」
「いや、落合さんと」
「へえ……じゃあ新婚でいきなり小学生の子持ちかよ」
 梨本が突然始めた古巣の噂話に、門間は安堵して飛びついた。本来噂話などまったく興味のない梨本がこんな話題を振ってくると言うことは、余程自分の顔が酷かったに違いなく、どこか申し訳ない気分にもさせられた。
「辞めた人とかいるの」
「お前の後か? あ、すいません」
 飲み物と料理を運んできた店員に愛想の欠片もなく頭を下げ、梨本は門間に目を戻す。それでも店員の女の子は名残惜しげに梨本の顔に視線を向けてはいたが。
「業務の佐藤さんが転職で辞めただろ……あと三井さんが定年退職したし、営業の河合も」
「そうなんだ。結構痛手?」
「いや、お前以外は」
 何でもないことのように、梨本はさらりとそう言うと、煙草を銜えて火を点けた。

 運ばれてきた蛸の唐揚げに添えられているパセリとレモン。鮮やかな色彩が、居酒屋のオレンジがかった照明に僅かに色を変えて見せる。暖かな色合いと微かに立ち上る湯気の温かさ。心を和ませるはずのそれらや、梨本の目の色がどうにも落ち着かない気分を助長した。
 先ほどから口に運んでいるビールとは名ばかりの発泡酒のせいか、いささか効きすぎの暖房のせいか、額にうっすら汗が浮かぶ。それとも友人を前にして何故か感じる緊張のせいか。
 梨本に感じる威圧感は、ある種の劣等感に近いのかもしれない。人間の種類が違いすぎて己と相手を比べることこそ無益だが、それでも折につけ感じるのは梨本のいっそ横暴とも傲慢ともいえる簡潔さと飾らなさに、自分のような人間は到底適いはしないということだった。
 仕事の席でミスを厳しく叱りつけ、そのショックも覚めやらぬ門間に屈託なく笑ってコーヒーを差し出す。その神経は門間のような小心な一般人には理解し難く、だからこそ憧れもしたし面白い奴だと思ったりもした。梨本は嫌われることこそないがやはり遠巻きにする同期も多く、大人しい臼井あたりは門間のことを猛獣使いなどと読んでふざけることもあるくらいだ。
 実際のところは猛獣使いどころか、久しぶりに相対した梨本と目を合わせることも出来ず、罪のない蛸を散々箸の先でつつくくらいしか出来はしない。梨本が無言で手を伸ばすとくし型に切ったレモンをつまみ上げ、唐揚げに絞ると残った皮を皿の縁に寄せて手を拭った。
「何だか不景気な顔してるな。久しぶりだっていうのに」
 メールや電話でたまに連絡を取ってはいたが、門間が梨本と顔を合わせるのは二ヶ月ぶりだった。
「いや、そういうんじゃないけど。なんか久しぶりに会うと緊張すんな」
「何だそりゃ。今更何を緊張するんだよ」
「緊張っていうか」
「じゃあ何」
「いや、だから…………」
「変な奴」
 変な奴はお前だろう、と返すと梨本はおかしそうに声を上げてひとしきり笑っていた。

 たわい無い会話を肴に飲み、二件目に向かった頃には結構な時間になっていた。結局さて帰ろうかと腰を上げたのは日付も変わってやや暫く経った頃、タクシーを拾える大通りまでの道すがら、人通りは既に普段の半分だった。
「なあ」
 いささか飲みすぎた門間は気を抜くとふわりと彷徨いだしそうになる意識の手綱を努めて締めながら、やや前を歩く梨本の横顔に声をかけた。
「それって、去年俺が選んだやつ?」
 梨本の首に巻かれたこげ茶のマフラーに見覚えがあった。確か買い物中の梨本と偶然出くわし、どれがいいかと訊かれて選んでやったものだ。もっとも既に梨本はその色と黒とチャコールグレイの三色に絞っていて、門間は単に三択に答えたに過ぎない。
「ああ、そう。よく覚えてたな」
「お前なー」
 門間は子供をあやすような梨本の口調に、腹を立てた振りをしてつっかかる。漫才のボケとツッコミのようなもので、本気でないのはお互いに百も承知だ。梨本が会うたびに時折見せる熱いような冷たいような何ともいえない眼の色が門間を不安にさせはするが、それでも気の合う友人であることには変わらないのだ。アルコールのお陰で無闇と明るい気分になった門間は梨本の腕をぱしりと叩いて語を継いだ。
「俺はそんなに馬鹿じゃないぞっ」
「あーはいはい、知ってるよ」
「何だよ、俺がいなくて寂しいくせに、平気な顔して。競争相手がいなくなって寂しいなら寂しいって言えよなー」
「んー?」
 苦笑する梨本の横顔に変化はない。門間は訳もなく悔しくなって、星の見えない都会の空を振り仰いだ。擦れ違ったカップルが、楽しそうに笑い声を上げ、遠ざかっていく。
「お前と仕事したくないと思ったって前に言ったけどさ、あれってお前がすげえってことで、そういう仕事を間近で見てられないってことのデメリットだってあるんだよな」
 僅かに醒めてきた酔いを感じながら、門間はそう呟いた。梨本が振り返って、何を言ってるんだと言いたげに片方の眉を上げた。
「俺、仕事ではお前の背中追いかけてばっかりだったから、お前が俺を追いかければいいと思った。お前にミスをどやされてむかつくのも、笑えないのも、俺の劣等感と力不足の問題で別にお前のせいじゃないし、やっぱりいい仕事はいい仕事だからさ」
「俺は真面目に仕事してるだけだ。いい仕事なんかしてない」
「わかんないけど、俺はそう思うから」
 足を止め、こちらを向いた梨本の端正な顔を、街路灯が照らしている。店の看板や、雑居ビルの窓の明かりを背にしょって、うっすらと、どこか苦悶にも似た表情を浮かべた梨本は門間を見据えて低く囁くように呟いた。
「好きだ」
「は?」
 門間の声は酷く間抜けな響きを帯びて、繁華街の路上に転がり落ちた。梨本の後方から急ぎ足でやってきた如何にも水商売のお姉ちゃんの靴先が、見えるはずのない「は?」を蹴飛ばした。そんな幻を見た気がして、門間は何度か目を瞬く。
「ずっと追いかけてたのは俺のほうだ」
 俺を恋しがって泣けばいい。
 不意に、あの時浮かんだ一文が頭の隅から飛び出して来た。俺が思ったのは、そういう恋しがるじゃないはずだ。
 呆然と立ち尽くす門間の頭は、その時は空白で、ショックであるとか困惑であるとか、具体的な感慨は何もなかった。頭の中の異様に冷めた一箇所だけが、ああ、梨本の視線の意味がやっと腑に落ちたと膝を打つ。
 梨本は一瞬浮かべた表情を綺麗に消して、その唇は笑みらしき形すら成していた。勿論、眼はひとつも笑んでなどいはしなかったが。
「本当に逃げ出したなら諦めようと思ってたのに、お前は——」
「……俺は」
「門間、お前が好きだよ」

 梨本の去った後、門間は機械的な動きで歩き出し、何も考えずにタクシーを呼び止めた。翌朝眼が覚めたとき、家に帰った後どうやって布団に入ったか、まったく覚えていなかった。