追いかける

 勘弁して欲しい。門間は目の前の酔っ払いを眺めてつくづくそう思った。絵に描いたような汚い路地裏。青い蓋のポリバケツがありそうな、飲食店の裏手だ。一本入っただけなのに、表通りと違って人通りなどまるでない。
 よく見知った酔っ払いの酒臭い息が顔に掛かった。

 「辞めるって?」
 梨本が素っ頓狂な声を出したのが、離れた門間の席からも聞こえた。嫌な予感がしてそちらを見ると、案の定梨本と、彼の周りの何人かの目がこちらに向いていた。
「わり、門間。言っちゃった」
 拝むように手を合わせる同期の臼井に手を振った。
「やー、どうせそろそろバレるからさ」
 何なに? と臼井の近くに座った女の子が言う。ええー、門間君、辞めちゃうのお? 彼女の甲高い声も、門間には耳に入らなかった。
 頭の中は、ただ。「やばい」その三文字がぐるぐると旋回しているだけだった。
 梨本崇とは同期入社だった。梨本が浪人しているので年齢は一つ違うが、気にしたことはない。
 門間が入社した年は何年かぶりに新入社員が多い年だったらしく、男七名、女一名が同期だ。同期は皆仲が良かったが、門間と梨本はその中でも何故か気が合った。
 しかし不思議なことに、仕事では何故か意見が合わず、始終衝突した。この間も、門間と梨本の両提案を社内コンペで競ったばかりだ。
 仕事は素晴らしくできるものの短気で気が強く、相手が友人であろうと決して妥協と言うものをしない梨本は、会社では物凄い剣幕で門間を怒鳴りつけたかと思うと、その後けろりとして飲みに行こう、などという男だった。
 門間は梨本が好きだったし、いい友人だと思ってはいた。だが、限界だった。

「二次会行くよ~!!」
 幹事の臼井の陽気な声に、あちこちから了解、はーい、と声が上がる。同期全員が集まれるのは久しぶりだ。門間たちより半年遅れの中途採用組も合わせて、総勢十二名の団体様は、ぞろぞろと居酒屋を出た。
 最後のほうに店を出ようとした門間の腕を、誰かががっしりと掴んだ。
「おい、門間」
 悪い予感だけは不思議と当たる。梨本が酒で据わった目で門間を睨みつけている。
 梨本は大声で「臼井!」と呼ぶと、「遅れていくから」と言い捨てて門間を強く引っ張った。
「わかったよー」
 臼井が真っ赤にした笑顔で大きく手を振る。
「じゃあケータイになー」
 何を勘違いしたか、周りの同期も手を振っている。
「もう帰んの、あいつら」
「や、違うって」
 騒がしい集団の声を背に、門間は肩を落とした。

 梨本はぐいぐいと門間を引っ張って先へ進む。まだまだ夜はこれから、という時間だ。おまけに花の金曜日で給料日と来た。
 表通りは混雑しているのに、店の裏側は誰もいない。飲食店の従業員も今日はちょっと一服、所ではないのかも知れない。
 そんな飲食店の裏手に連れ込まれ、梨本に前に立たれると、何も見えなくなった。
 いつの間にか煙草を銜えた梨本の据わった目が、無言の非難を込めて門間を圧する。
「辞めるって、何で」
 ぼそりと言われて、言葉に詰まった。まだ何と言ったものか考えあぐねていたから、すらすらと出てこない。
「そんな、大層な理由なんかないよ。——ちょっと前から取引先に引っ張られてたんだよな」
 門間が取引先の企業の名前を上げると、梨本は頷いた。
「待遇がいいのか?」
「いや、そんなに変わらないけど。悪かったよ、お前に言ってなくて」
 門間は自分より背が高い梨本の目を見た。
「相談して欲しかったわけじゃない。お前の人生だから」
 酒のせいか、梨本の瞼は重たげだ。
「だけど、何でだよ? 社内コンペで俺が勝ったからとか言うなよ」
「言わないって、そんな。ガキじゃないんだから」
 門間は苦笑して首を振った。
「でも、お前に相談できなかったのはそのせいかな」門間は続けた。
「悔しくて言った事なかったけど、お前の仕事、やり方は俺と合わないけど、だから尚更すげえと思う」
 無理矢理笑う門間を、梨本は穴の開くほど見つめた。
「もう入社して七年だろ? 三十を前にしていい転機かな、と思ったりしたし」
「俺はもう三十だよ」
 憮然とする梨本に思わず笑ってしまった。
「もうお前と一緒に仕事したくないんだ」
 気が緩んだ瞬間。止める間もなく、口から本音が零れ出た。やばい。さっきから何度目かになるその言葉が、またも脳内を駆け巡る。
 傷ついたような顔をした梨本が、手を伸ばす。ネクタイを掴まれ、間近に引き寄せられた。酒臭い息が顔に掛かる。目が充血しているのは、酒のせいか怒りのせいか。
「逃げるのか、俺から?」
 歯を剥いた梨本にネクタイを強く引かれて、首が苦しい。
「悪いかよ」
 こうなったらヤケクソだった。
「俺はもう嫌だ、お前の背中ばっかり追っかけるような真似は。お前は仕事と友達付き合いとを分けられるからいいけど、俺はそんなに器用じゃない。お前のすごい仕事見せられて、散々やり込められて、自分の駄目さ加減を痛感して、それでお前にへらへら笑えるほど人間でかくないんだよ」
 一息に喚きたてると、息が切れた。眦を吊り上げた梨本は顔を背けて煙草を吐き出すと、門間のネクタイから手を離した。

 梨本の両手が頭をがっしりと掴む。覆い被さる梨本の体を認識した時には、口付けられていた。
 コンクリートの壁に押し付けられて、背中が痛む。梨本の口は、酒臭くて煙草臭く、ざらりとした感触の舌は、酷く苦かった。
「……おい?」
 ぐったりとした梨本の体をゆする。
「おいっ」
 門間に覆い被さったまま、梨本は動かない。
「こらっ。馬鹿野郎、何やってるんだよ!」
 梨本は、立ったまま眠っていた。

「臼井、梨本が落ちた」
「マジで? 門間一人で連れてこれるか?」
「いや、無理。こんなでかいの持って行けない。誰か取りに来てくれよ」
「わかった。どこにいる?」
「さっきの居酒屋のすぐ近く。あそこまで何とか引き摺ってくから」
「じゃあ、ちょっと待っててな。なあ、梨本怒ってた?」
「あー、まあな」
 門間は電話を切った。地面に座らせた梨本の閉じられた瞳を眺める。さっき、唇の離れる瞬間。確かに言った。俺を置いていくな、と。
 門間は苦笑した。キスなんかされたのは心外だが、酔っ払いの行動に深い意味なんかないだろう。それより、初めて梨本に勝った、という気がした。
 せいぜい俺を恋しがって泣けばいい。今まで散々俺をやり込めたお返しだ。門間は晴れ晴れと笑った。
 今度はお前が俺を追う番だ。違うか?