リアル

 別れは、いつだって悲しい。永遠に続くものなんかなくて、恋はいつも不確かだけれど。

 彼女の香水の匂いとか、いつも食べるパンとか、好きなケーキの名前とか。
 俺の中で炸裂するいくつもの感情は、吹き出る前に細かく千切れて、煙草の煙と一緒になる。
 キスした時の口紅の味とか、胸の皮膚の嘘みたいな柔らかさとか、ふくらはぎの感触とか。
 俺の下で薄く開く唇と、そこから覗く歯並びのよさ。
 もう自分のものじゃないなんて、どうやっても実感できない。たとえ以前のように恋しくないとしても、それでも。
 妙にまずい煙草を、拷問みたいに沢山吸った。彼女が俺に投げつけた、ピンク色の煙草の箱。
 次々と、消してはまた銜え、銜えた端から消してゆく。火災報知機が鳴ったら困ると、ふと思いつく。開いた窓から吹き込んだ風が、部屋の煙と、俺の胸をかき乱した。

「そりゃお前、お前が悪い」
「いや、そう言いますけどねえ、正直言って女はわかんない。もーほんと、不可解!」
「そこがいいんじゃない」
「うん、それはそうだ」
 俺は呂律の回らない舌と、揺れるような頭をなんとか——片方は回し、片方は止めようと、カウンターの縁をつかんで目をつぶった。右手の指が熱い。目を開けると、短くなった煙草の火が、すぐそこまで迫っている。
「おっとお。熱いと思った」
「何やってるんだよ」
 俺の隣で彼がおかしそうに笑う。社会人とは思えない栗色に染まった髪と、細身のカーゴパンツにベロアのジャケットのお洒落な格好。彼は目の前のグラスを持ち上げ、喉を鳴らして飲み下した。動くたびにウォレットチェーンと、ぶら下がった鍵の束がじゃらりと鳴る。彼は、——彼は。
 誰だっけ。
「誰だっけ」
 彼の顔を凝視しながら心に浮かんだ単語をそのまま口に出すと、彼はええ? と間抜けな声を出し、怒ったような顔をした。
「……むかつくな、その台詞」
「ああ、すいません」
 見たことはある。しかし、いつから隣で飲んでたっけ。俺は彼の整った顔をぼんやりと見た。産まれてこの方、女に不自由したことない、と体全部で主張している。いわゆるカッコイイ、女の子が騒ぐタイプの男。
「——お前、自分の名前わかる?」
「ええ? 俺? 佐久間です」
「そこまで酔ってはいないんだな。職業は?」
 彼の意図が分からないまま、酔った俺は素直に答える。
「アズミ酒造の営業マン」
 そう言いながら、何となく霧が晴れてきた頭でぼんやり思った。彼はどう見ても俺より年下に見える。それにしちゃ何だか随分偉そうだ。大体、お前なんて呼び方が既に傲慢だ。そして、この態度のせいで彼が誰だか分からない気が——。
「あー!!」
「思い出しましたか、お客様」
 その口調が、一気に記憶を呼び戻した。

 アズミ酒造はもともと日本酒メーカーだったが、時代の流れに素直に流され今では何でも作っている。焼酎からスーパーで売る安い缶のカクテルまで、扱いは幅広い。酒を扱う他に料理酒を始めとする食品部門もある、まあまあ名の知れた会社だ。
 俺は特に焼酎、リキュールなんかの類を飲み屋に仕入れてもらうために外回りする、靴底が磨り減る営業をやっている。飲み屋相手の商談だから、自腹で飲むこともないとは言えない。誰だって、お金を落としてくれたやつに優しくしたいのが当然というものだから。
 そして、隣の彼は、昨日回ったそんな店の一軒、あるバーのバーテンダーだった。
「何だよ、覚えてなかったのかよ」
 眉を顰める彼に、なぜかとても悪いことをしたような気になった。
「ちょっと挨拶したら元気~なんて言うから、覚えてるのかと思った」
 肩を竦める彼に、俺は仕方なく頭を下げる。記憶はないが、もしそんなことを言っていたとしても、それは彼を覚えていたからではない。俺は恐縮して謝ったが、彼はまあいいや、と言って空いたグラスを振って見せた。
「そんなに酔うってことは、——女に捨てられた?」
「……」
「お、図星ぃ? そりゃあ気の毒だな」
 げらげら笑って、近寄ってきたこの店のバーテンダーに同じもの、とグラスを指す。彼は振り向いて俺を見ると、にっこり笑った。
「お前も飲むだろ? 女に振られたら飲んで忘れる、それは正しい」

 結局、その後自分が何を話したのかも記憶が曖昧だった。立て続けにグラスを開け、心にもない彼女の悪口と、これは本心の会社の愚痴を垂れ流したような気がする。
 終電はとっくに発車し、なぜかバーテンダーを引き連れて深夜の道を歌いながら歩いた。途中で電信柱に胃の中身をぶちまけた。……ような気がする。
 やっと治まった吐き気が再度攻撃を仕掛けてこないように、俺はのろのろと体を起こした。首の周りのネクタイが拘束具のように感じられ、やっとの思いで首を抜く。
「サラリーマンって嫌だよなあ。ネクタイって首輪みたいな感じしない?」
 バーテンダーは人の家ですっかり寛いでそう言った。どこから見つけてきたのか、予備の灰皿を膝に乗せ、ちゃっかりテレビなんかつけている。
 あの後俺が連れまわしたらしいし、取引先の従業員だし、(おまけにゲーゲーやってる背中をさすってくれたらしいから)泊めてやるくらい造作もないことだけど、それにしても感謝の念が感じられない。
「うるさいよ」
「そんなトゲトゲしなさんな。失、恋、したからって」
「失恋を強調すんなよ、嫌なやつだな」
 バーテンダーはチャンネルを回しながら陽気な笑い声をあげた。この時間、たいしたものはやっていない。羽毛布団のテレフォンショッピング。ああ、今すぐ寝たい。
「ま、若いんだしそんな落ち込むなよ。女なんて沢山いるから」
 バーテンダーは事も無げに言う。若いお前に言われたくない。
「お前みたいな見かけならな」
「いや、そりゃ俺はいい男だけど、あんただって悪くないじゃん。——あれだ、ほら、テクニックに磨きをかけて頑張んなよ」
「——余計なお世話だ」
 別に精力絶倫というわけでもないし、どっちかと言えば俺は淡白だ。だからって人より下手かどうか知らないけれど、失恋したばっかりの俺にそういう話題は痛すぎる。まったく、どこまでも遠慮会釈のないやつだ。
 段々頭痛がしてきた。如何にも色事全般に強そうなバーテンダーとこんな話をしているせいか、それともかなり前倒しの二日酔なのか。頭を押さえて呻いた俺に、煙草を消したバーテンダーが寄ってきた。
「なあ、なあ、やってみ、俺に」
 向かいにしゃがむとにやにや笑って唇を指す。
「はあ?」
「練習練習」
 気持ち悪い。何を言ってるんだ、この男。
 その思いが俺の顔全体に表れたのだろう。バーテンダーはおかしそうに大声で笑い、掌でばしばしと床を叩く。
「キス位でホモになるわけじゃないっての。俺が直々指導してやるって言ってんの。これも何かの縁だからさあ」
 酔いの醒めきっていない頭に、ふざけんな、と悪態が浮かんだ。まったく、日々あくせく働くサラリーマンの、せこい悩みと失恋の痛みがイケメンバーテンダーに分かるはずもない。
 やけくそになってバーテンダーの顎をつかむと、手でぴしゃりと叩かれた。
「馬鹿、女だと思ってやるんだよ。優しく、優しく。女はな、優しくされすぎってことはないの、一連の流れの中では」
 一連の流れ、何てバーテンダーの口から出ると冗談みたいだ。俺は渋々、精一杯優しく手を伸ばす。勿論、なるべく彼を見ないようにして。
 お化けを見たくない子供のように目をつぶり、恐る恐る口付ける。彼の乾いた唇は、女の子のものとは違って、なんだかちっとも気持ちよくない。
「そんな舌の入れ方じゃ女が攻撃されてると思うだろ!? ほれ、そっと、そっと」
 しかもいちいち煩い。
「そーそー、……って、痛えよ! AVじゃないんだから、きつくすりゃいいってもんじゃない!」
 厳しいコーチは、容赦なく傷心の俺を鞭打った。なんだか彼女が去ったのは俺のキスが下手だったからなんじゃないかという気さえしてくる有様だ。
 決して興奮したわけではなく、スパルタ教育に顎が痛くなり、俺はぜえぜえと息を吐いた。間近にしゃがんだバーテンダーは、栗色の髪の間から俺を見て、うんうんと頷いた。
「まあ、そんな感じだな。じゃあ最初からやってみろ」
「もういい……」
「勉強は復習が大事なんだよ、佐久間くん」
 多分俺より勉強したことがないんじゃないかと思われる彼は、鹿爪らしい顔で指を振った。キスって、楽しいものじゃなかったんだろうか。これじゃあただの拷問だ。
 自分の狭い部屋の真ん中で、名前も知らないバーテンダーに指図されて、テレフォンショッピングをBGMに、男相手にキスの特訓。
 俺は一体何をやっているんだろう、と思って息を吐く。バーテンダーは膝立ちになると、はい、本番、と言って俺に手を差し伸べた。

 よくよく見ると、本当にいい男だ。昨日——もう一昨日だ——はろくに顔も見ていなかったけれど、間近で見ると改めてそう思う。女の子が羨ましいと言いそうな濃くて長い睫毛。全然女っぽくはないけれど、睫毛だけは女のようだ、と俺は思う。
 バーテンダーが目を閉じる。閉じられた瞼の薄い皮膚に、細く青い毛細血管が透けている。それは、彼女の瞼によく似ていた。
 思わず瞼に唇を寄せる。バーテンダーはぴくりと動いたが、それだけだった。ええと、どうだっけ。優しく、男はとかく力を入れすぎるから、物足りないくらい優しく。だったっけ?
 両の掌で頬を包んで、唇をなぞった。舌の先で、かすかに触れるように、ゆっくりと。薄く開いた唇の裏側。柔らかな濡れた皮膚も、触れるか触れないかくらいに辿っていく。
 舌を口に含んで、味わうように愛撫する。それは煙草の味がした。目を閉じれば誰のものともわからない、ぬるりと温かな感触。それだけが、やけにリアルに感じられた。

 ゆっくり開いたバーテンダーの眼は、僅かに焦点がぶれていた。
「——やべえ」
「……は?」
 頬を挟んだ俺の手に両手をかけてゆっくりと外す。何がやばいのか一瞬考えて、思い至る。やばいって言えば、そうだよな。そうだろう。そりゃそうだ、男だからな。正直言って、俺もやばいよ。男ってやつは、本当に即物的な生き物だ。
「……合格ですか、先生」
「指導者が優秀だから、当然」
 にいっと笑ったバーテンダーが、立ち上がって伸びをした。テレフォンショッピングは、真珠のネックレスについて説明し始めた。俺はなぜか、床の上にへたり込む。体に力が入らない。頭が割れるように痛むのは、断じてキスのせいじゃない。バーテンダーは煙草を銜え、眠たいな、と言って煙を吐く。たゆたう煙が真綿のように俺をくるんで、悲しみを麻痺させる。
 彼女がいなくて彼がいる。現実味のないこの部屋で。