群青走駆 10

「同じことだろ」
 ヴァレリーの声は僅かに震えていたが、それが何故なのか、カエンにはよく分からなかった。掴んだ腕の筋肉は固くこわばり、ヴァレリーの緊張を表している。
「何が?」
「あんた、何言ってんの。俺が殺そうが、ラキタイの兵士の矢に射られようが——死ぬことに変わりない」
「死なないと約束はできない。誰でもそうだ。分かっているだろう」
 カエンはヴァレリーの腕を掴んでその身体を軽く揺さぶった。誰もがいつか命を落とすが、それがいつかは分からない。戦場に立つ兵士は尚のこと。ヴァレリーをここに留めるため、安心させるために嘘をついても意味がない。
「だから、せめて俺のすべてをお前に預けると言っているんだ。それだけでは不満か?」
「何だよ、急に」
「お前が考えていたことに、ほんの僅かも気付かなかったのは俺の不明だ。そのことに関して言い訳する気はないが——知ったばかりでは重みがないか。幾らかの歳月、例えば二年、お前にはなにも告げずに悩まなければ信じてはもらえんのか。そうでなければお前を大事に思う権利もないか」
「そういうことじゃ——」
「お前に二度と会えないかもしれんと思ったら肝が冷えた。厩番に笑いかけたと聞いて腹も立った。誰にもお前の笑う顔を見せたくない、あれは俺のものだと思った。だから、俺の生死はお前に預けると言ってるんだ」
 手を滑らせ、ヴァレリーの手首の骨を握り締める。ヴァレリーはカエンから顔を背けたが、カエンは握る指に力を籠めた。決して華奢とは言えない、しっかりとした太い骨。だが、壊れそうなものなど欲しくはない。
 館の、どこか遠くで音がする。誰かがドアを開閉する。女たちの小波のような笑い声。客が軋ませる寝台の音。窓の外を駆けてゆく馬の蹄の音。様々に重なり合う微かな音が部屋を取り巻いていたが、カエンとヴァレリーの周りには音がなかった。お互いの微かな呼吸の音は、部屋の隅へと漂い消えて行く。
「カエン……あんた、ほんとに人がよすぎるよ」
 ヴァレリーは呻くように言って、背けた顔をカエンに向けた。真正面から睨みつけられ、口に出しかけた何かが喉の奥で痞え、止まる。ヴァレリーの口調はまるでカエンを憎んでいるかのように刺々しかった。
 不意に、ヴァレリーの目尻から涙が溢れた。目尻がつり上がり、こめかみに青筋を立てたその表情は憤怒と悲哀が混じり合い、いまにも崩れそうに危うかった。
「いっそこの手であんたを殺そうって……俺が一度も考えなかったと思う?」
 ヴァレリーは低い声で唸るように続けた。
「何度考えたか知れない。俺はそんなこと考え付かないと思ってたか? それとも、あんたが許可しない限り実行に移さないと? そう思うなら、あんたはやっぱり分かってない」
 流れる涙が顎を伝って胸に落ちる。
「やろうと思えばできたんだ。だってそうだろ、あんたはいつもすぐそこにいたんだから。実際、何度かやりかけたよ。でも、朝起きて隣に死体が転がってたら俺がやったってすぐバレるし」
 頬を歪め、からかうように笑った顔がすぐにまた暗いものになる。浮かんだ笑みは既に消え、諦念だけが目元に滲んだ。
「俺にはできない。あんたの死体を目にするくらいなら、この先二度と会えないほうがいい」
 涙で潤んだ目と視線が絡んだ瞬間に、腹の底で何かが弾けた。
 カエンを失うのが怖いから、先に死にたいというヴァレリー。カエンの下で身をくねらせ、喉を晒して喘ぐヴァレリー。表情一つ変えずに敵兵の内蔵を引き摺り出して踏みつけるヴァレリー。馬の背で揺られながら、仲間の冗談に笑うヴァレリー。
 様々な彼の顔がいっしょくたに目の前に浮かび、霧散した。
 力ずくで引き寄せた身体を押し潰すように圧し掛かる。抗議の声も出せずに目を瞠るヴァレリーの顔に、怯んだような表情が表れた。
「我が名はカエン・オル・スレン・アーハザード、カルグーン騎馬王国四宰相家の一、アーハザードの次男」
 ヴァレリーの顔を正面から見つめ、カエンは久しく口にしていなかった正式な名前を口にした。カーダン語で言った後、同じことをカルグーン語で繰り返す。同じ綴りをカルグーン語で発音すると、カエンはカイエーン、アーハザードはアーンハッザールド、と聞こえるらしい。かつて二つの音の違いに感じた違和感は既になく、今はどちらも紛うことなき己の名だ。
「……四宰相家? あのアーンハッザールド……」
 ヴァレリーはぽかんと口を開けてカエンを見た。
「そう、あのアーンハッザールドだ。アーンハッザールドの家名、もっとも偉大な父祖たちの名、そして上天の神に懸けて誓う」
「誓う? 何を——」
「ヴァレリー・ユーレフ、お前を殺す」
 ヴァレリーが口を開けて何か言いかけ、喉をつまらせたような音を立てた。

 月が雲間に隠れたのか、部屋が一時闇に沈んだ。
 ヴァレリーのシャツが僅かな光を映してぼんやりと浮き上がる。カエンは乱暴にそれに手を掛け、布を縦に引き裂いた。高価な布地が意外に甲高い音を立てて千切れる。手の中に残ったその切れ端を、呆気に取られて身動きしないヴァレリーの手首に巻き付ける。
「——!!」
 傭兵としての感覚が蘇ったか、ヴァレリーが膝を振り上げてカエンの急所を狙ったが、膝が身体に食い込む前にヴァレリーの腹に拳を叩きこんだ。咳き込むヴァレリーの手を無理矢理頭上に上げさせ引き裂いたシャツで縛り上げる。顎を上げさせ、後頭部を壁につけさせると、ヴァレリーは酷く下品な悪態を吐いた。
 ベルトに挟んである短剣を素早く取り出し、鞘を払って床に投げ捨てた。月光が戻り、短剣の刃が光る。ヴァレリーの目が見開かれ、カエンが押さえつける手首が石のように強張った。
 短剣の先で、ヴァレリーの首筋をなぞる。ヴァレリーは瞬きせず、混乱と、僅かな怯えを滲ませた瞳でカエンを凝視した。無残にも裂けた布地を刃の先で避け、鼓動を産み出すその場所へと滑らせた。
「カエン」
 ヴァレリーの囁きは平板で、唇は震えているのに声は強く澄んでいた。カエンはそれには応えず、カルグーンの言葉を口にした。完璧に覚えてはいないが、この際それはどうでもいい。低い詠唱が鎮魂の祈りにでも聞こえたのか。ヴァレリーが長く、ゆっくりと息を吐く。押さえつける身体から力が抜け、瞼がゆっくりと閉じられた。跳ね上がっていた鼓動が速度を落とし、ごく普通の間隔で打ち始めた。
 短剣を持ち上げると、ヴァレリーが目を開ける。穏やかな表情を湛えていたそれが、突然かっと見開かれた。
「ちょっと、カエンあんた何やってんの!!」
 カエンの短剣の先は、カエンの舌の上を滑っていた。
「俺を殺すって言ったろ! それは俺のじゃない!」
 ヴァレリーが喚くが、ヴァレリーの胸を刺し貫く気など元々ないし、自分の舌を斬り落とすつもりも勿論ない。表面を撫でただけだ。舌の上に血の線が盛り上がり、金気臭さが鼻腔に届く。嗅ぎ慣れた血の匂い。それは死の匂いでもあるが、転じて生の匂いでもあった。
「カエ……」
 血の垂れる舌を、ヴァレリーの胸の上に押し当てた。
 短剣の先で示したそこ、命を司る場所へ。舌を押し当てた白い肌のその向こう、ヴァレリーの体内で脈打つ力を確かに感じた。
「何——」
「本来婚儀の礼には家畜の血を用いるが、ここには家畜がいないからな」
「何が、何? 家畜?」
 カルグーンでは花嫁の婚礼の衣裳に家畜の血で印をつける儀式がある。古代からの風習で、夫が花嫁の所有権を主張するためのものらしい。かつては肌に直接血で文様を描いたという話だが、カエンが子供の頃に見た婚礼では、既に今の様式になっていた。
「婚礼の祝詞も自分で唱えるのはおかしいし……そもそも文句の半分は怪しいが、まあいいだろう」
 カエンは短剣を部屋の隅に投げ捨て、ヴァレリーの顎を掴んだ。
「お前は女ではないが、ヴァレリー・ユーレフ、お前を妻と同じに遇すると約束する」
「はあ? 頭おかしくなったんじゃないの!? あんた俺を殺すってさっき……妻って誰だ、何なんだ一体」
「俺の持てるものすべてを与える。その代わり、お前は生涯俺のものだ」
「カエン!?」
「また俺から逃げ出そうとすれば、殺す。もしも首尾よく逃げ出したら、地の果てまで追いかけて殺す。お前が敵の捕虜になったら、敵陣に忍び込んで殺す」
 ヴァレリーの耳朶を噛み、カエンは低く囁いた。耳の中に押し込むように続ける。
「俺が死ぬときは、その前に必ずこの手でお前を殺す」
「カエン」
 ヴァレリーの顔を覗き込むと、呆気に取られたのか、まるで子供のような無防備な表情がそこにあった。たったそれだけのことに、カエンの胸は酷く痛んだ。
「死なないと約束することはできん。だが、死の前に俺の手でお前を殺すと約束することならできる」
 実際のところは、死なないと約束するのとそう変わらない。それはよく分かっていた。ヴァレリーを顧みる間もなく、矢尻に首を射抜かれ斃れるかもしれない。それでも、カエンは必ずやり遂げるつもりでいた。己が最後の息を吐きだす前に、必ずヴァレリーの命を奪うのだ。
「だから、お前が俺を失うことはない」
「そんなの絶対無理に決まってる」
「決めつけるなよ」
「結局俺は毎日怯えて暮らさなきゃいけないんじゃない」
「慣れろ」
 カエンは言いざまヴァレリーを横抱きに抱え上げた。大股で部屋を横切り、乾草の束を投げるように寝台の上に放り出す。驚きのせいか声も上げないヴァレリーを仰向けにして圧し掛かった。
 鋭い灰色の瞳がカエンを射る。返り血を拭いながら見上げた薄暮の空。命からがら敵から逃れた茜色の夕空。陣形を整えつつ、馬上でくだらないことを言い合い、笑い合った朝焼けの空。数え上げれば際限なく思い浮かぶどの空の下でも、二年間常に傍らに在った男に感じていたのは、紛うことなき友情だ。しかし、今眼前にある男に感じるのは、きれいごとでは済まない何かに違いなかった。
 見知らぬ子供の拙い言葉に何故か溢れた涙のように、まったく唐突にどこかから湧き出した感情はカエンを面食らわせたものの、同時にいとも容易く腹に落ちた。清々しくもない、純粋でもない、いっそ忌むべきものとさえ思えるこれは、しかしヴァレリーが抱え込んだものと同じか、そうでなくても近しいものなのだろう。
「俺に想われることに慣れろ」
 呟くと、ヴァレリーの顔が歪んだ。月光に光る涙は宝石のように美しかったが、ヴァレリーとの関係は綺麗ごとでは済まないだろう。
「公にすることも、子を生すこともできない。それがいつかお前の重荷になるかもしれない。だが、それにも慣れろ」
 裂いたシャツの隙間から手を差し入れ、肌に触れる。ヴァレリーがびくりと震え、濡れた頬に髪がまつわりついた。

「いつかお前を連れて国へ帰る。カルグーンの空は、高くて青い。あの群青の空をお前に見せたい」
 切羽詰まって掠れた声が何か唱えたが、それが返事かどうか、そもそも言葉かどうかも怪しかった。括られたままの両手を頭上に掲げたヴァレリー本人も、多分分かっていないだろう。焦点を結ばない瞳はカエンを通り越して何か別のものを見ているようだった。
 淡い銀色の光に照らされ、汗ばんだ肌が光る。上下する喉仏、シャツの下で動く腕の筋肉、晒された内腿のやわらかな皮膚と、引き攣る筋。貫かれ、揺さぶられ、ヴァレリーは彼の神の名を呼んだ。
 ヴァレリーの肢体は、草原を駆ける馬体、躍動するその様を想起させた。白い肌は馬のそれとは似ていないはずなのに、カエンにとって愛してやまないふたつのものは、何故か互いを連想させる。
 ヴァレリーが何かを叫び、縛められたままの両手でシーツをきつく掴み、引っ張った。震え、強張る身体に圧し掛かり、まだ走れるはずだと彼を駆り立てる。耳の中で轟々と荒れ狂うのは風かそれとも身体を流れる血の音か、ヴァレリーへの抑え難い想いなのか。
 幾つもの光が爆ぜ、瞼の裏に焼けつき虹色の残像が躍る。暗闇の向こうの白い光、その中に、雄叫びを上げ、剣を振りかざすヴァレリーと彼を背に乗せ疾駆するアレクサンドラの姿が確かに見えた。
 生き生きと草原を駆ける彼と、並んで駆ける己の姿を確かに見て、カエンは口元に笑みを浮かべた。

 翌朝、ナットはカエンに首根っこを——文字通り——引っ掴まれたヴァレリーの無愛想な謝罪を受け入れ、老人には晴天が眩し過ぎると言い訳をして目尻を拭った。
 その日の昼、アナトールはカエンからすべての事情を聞かされ言葉を失い、カエンが立ち去った後も暫くその場に突っ立っていた。気が付いた時には頭に小鳥が止まっていたが、幸い糞は落とされていなかった。
 数時間後、アナトールはヴァレリーに向かって思わず結婚おめでとうと口走り、美しく、殺気を孕んだ笑顔でありがとうと返された。直後にどこかからカエンの悲鳴が聞こえたが、アナトールは聞こえないふりをした。
 そして数年後、カエンはヴァレリーを東方に伴うことになる。

 あの、群青の空の下へ。