迷い家 1

 気がついたら、池袋駅の雑踏の中、男はずっと俺の前を歩いていた。
 濃紺のウィンドーペーンのスーツ、ダブルの裾。焦げ茶のビジネスバッグと左肩のショルダーバッグ。
 あれだけの人混みの中で目に付いたのは、スーツや小物や、今風のカットとセットが施された後ろ頭のせいではなく、やや上に向けられた頭の角度のせいだろう。看板を見ながら歩いているのだろう視線の向け方や迷いながら進む足取りで、出張中のサラリーマンであることは容易に想像がつく。
 注視していたというわけではないが、ずっと眼で追ってはいた。真っ直ぐ進んでいるにも関わらずどこか危うい雰囲気の歩き方が、少しだけ引っかかったからだ。ふらついているわけでもないというのに、どうしてそんな印象を持ったかは分からない。
 途中、俺は男の頭を見失ったが、偶然にも俺が入った焼鳥屋の入口で携帯相手に声を荒げているのを発見した。
「はぁ? 来られねえってお前」
 低い、吠えつくような話し方がすっきり着こなしたスーツ姿とミスマッチなようで、そうでもない。
 スーツというのは不思議なもので、着慣れていれば誰でも似合う。逆に言えば、どんなに洗練された物腰の男でも、普段から着ていなければ似合わない。似合わない、というか、衣裳になる。男の口調は乱暴だが、スーツの着こなし方からして、会社員であることは疑いようもなかった。
「いや、いいけど。仕方ねえだろ、仕事なら。うん。行けるって、子供じゃねえんだから。電話番号も調べりゃ分かるし——うるせえよ馬鹿……ああ、分かった。またな」
 入口を潜る俺の耳に電話を切った男の悪態が届く。どうやら、連れが仕事に捕まったらしい。
 すいません、連れが来なくなったんでという男の声が聞こえてきて、カウンターの俺の横、ひとつ空けて隣の椅子が引き出されたと思ったらウィンドーペーンが視界に入った。
「何」
 目を向けたのに気付いたのか、男が俺に向かって低く問うた。同年代だし別に腹は立たないが、初対面でこういう態度を取る人間も珍しい。
 スーツからネクタイを辿って視線を顔に向けると、男はこちらを真っ直ぐ見つめていた。特別どうということもない、今時の若いサラリーマン。ただ、危ういと感じた足取りと同じように、やや目尻が吊り上がった気の強そうな目付きの奥に何か脆いものが一瞬仄見えて消えた気がした。
「別に。出張なのかなと思って」
 男は自分のショルダーバッグと俺の顔を交互に見て、興味を失ったように視線を逸らす。
「どこのひと?」
 話しかけたらうるさそうな顔をして横目で睨まれた。
 普段なら、見知らぬ人間と飲むなんてご免だと思うのは俺の方だ。仕事以外で飲む時まで腹の探り合いはしたくないし、下手に声をかけて気が合わなければ隣にいることすら苦痛になる。だから明らかに俺に対して気を遣っていないこの男になら話しかけてみたいと思ったのかも知れない。
 先に注文していたらしい男のビールと串の皿がやってきて、その後すぐに、俺のビールがやってきた。中ジョッキを手に取って、男の手元に軽く寄せる。そこはサラリーマン同士、多分男は無意識にジョッキをこちらに寄せて乱暴にぶつけ、しまったというように軽く舌打ちした。
「おつかれさま。で、さっき、入口で電話してんの聞こえたけど」
 男は煙草を銜え、火を点けながら斜めに睨み上げるようにして、訊ねた俺を一瞥した。
「友達? 彼女?」
「出張先でカノジョなわけねえだろ」
 必要以上に声が尖った気がしたが、何しろまったく知らない人間だ。これが彼の普段の話し方なのかも知れないし、煙草を銜えたままだから発音自体が不明瞭だった。
「じゃあ友達か」
「だったら何。あんたに何か関係あんの」
「別に」
「何なの、あんた」
「何でもないよ、別に。ただ隣に座ったからちょっと話しかけてみただけ。そんな邪険にしなくてもいいだろ」
 肩を竦める俺を一瞥して、男は小さな溜息を吐いた。
「……学生んときの友達。飲んだ後、ホテルまで連れてけって話してたんだけど」
「ホテル?」
「今日の宿のビジネスホテル。電車下りて直行なら地図見て一人で行けんだけど。そいつがここで飲みてえっつーから、終わったら案内させるつもりで。こっち側出たらどっからどう行きゃいいのかさっぱり分かんねぇし」
 確かに、旅行者なら出口をひとつ間違っただけで自分の位置を見失うくらいに、池袋の駅は広い。
 ホテルの名前を訊いてみると、春頃に出来た新しいビジネスホテルのことだった。確か東口側にあるはずだから、今いる場所とは駅を挟んで反対側になる。
 男は煙を吐きつつビールを飲み、あまり食欲がなさそうな顔で串を弄んでいる。実際スーツを着ていてもかなり細身で、無駄な肉は手に持った焼鳥以外どこにもなさそうだった。
「学生のときの友達って、あんたこっちの大学来てたのか?」
「俺、元々こっち。大学までずっと」
 意外な言葉に、俺は思わずライターを擦り損ねて男の横顔を見た。別に理由はないが、出張で来ているということは関東の出身ではないと思い込んでいたのだ。
「なんだ、そうなのか。じゃあ何で池袋分かんないんだよ」
「池袋なんか滅多に来なかったんだよ。大学もこのへんじゃねえから飲む場所も違うし」
「ふうん——で、何で東京出て地方行ったわけ」
 面倒くさそうな顔をしつつも男が答える。
「親父が定年退職したら地元戻りてえって、ずっと言ってて。もう何十年もこっちにいんのに戻りたい土地って興味ねえ? それで俺も行ってみっかなと思ってあっち就職したんだけど——」
 ビールを呷った男の顔が、まるで苦みが舌に残ったかのように微妙に歪む。男は煙草を持った手で前髪の上から額を擦り、カウンターに向けてゆるく煙を吐いた。
「親父さんの地元って?」
「札幌。……まあでも、来月には戻ってくるから。やっぱ俺、寒いとこ合わねえのかも」
 男は、そう言って頬を歪めて笑う。来月と言えば半月後だ。
「転勤?」
「転職」
 そう言われれば、俺の会社にも来月から中途採用の社員が入ってくると言っていた。女だと聞いたからこの男が実は同僚になるとかいう可能性は万に一つもないのだが、偶然というのはあるものだ。
「へえ。うちにも中途採用来るよ、来月。じゃあ、転職先訪問とか?」
「いや」
「引き継ぎ?」
「そう」
「一泊?」
「一泊」
「明日帰るのか」
「夜」
「あんた、単語しか喋らないのか」
「うるせえな」
 横目で睨んでくる目付きには、先程まではなかった鋭い棘があった。
「大体、何で初対面のあんたに質問攻めにされなきゃなんねえんだよ? 答える義理だってねえっての。尋問されんのは一週間に一回で十分」
 男は灰皿で短くなった煙草を揉み消した。すべてを放り出すように投げやりに言い、ジョッキに残っていたビールを一気に空ける。
「何だよ、尋問? 一週間に一回って」
「……俺、行くわ」
 男は伝票をむしり取るようにして掴むと突然立ち上がった。
「待てよ」
 男が僅かに目を瞠って、俺を見下ろす。咄嗟に出た言葉に言った本人も驚いたが、今更取り戻すには遅すぎた。
「連れてってやろうか、ホテルの前まで」
 勝手に行かせて、迷わせればいいじゃないか。
 そう思ったが、何となく引きとめた。暇だったから。多分理由はそれだけだ。

 東口を出て、東口五差路も越えて真っ直ぐ行く。陽が落ちているが、周囲は明るい。それでも、繁華街とは言えないこの辺りは駅から離れるにつれて暗く、静かになっていく。街路樹は暗がりにシルエットになって沈み、ビルの常夜灯やコンビニの灯りに一部分だけが浮き上がっていた。
 男は前方にぼんやり眼をやりながら、黙って俺の横を歩いていた。オフィスビルが多いから見るべきものは殆どないし、数年離れていたとはいえこちらの人間なら珍しいこともないのだろう。そもそも東京だってただの都市だ。地方都市に比べたら何でも規模はでかいかも知れないが海外というわけでなし、何故そんなに有難がられるのか、俺にはよく分からない。
「あ、コンビニ寄りてえ」
 全国の基準に照らしても小さなコンビニ——ここの上もビジネスホテルだ——の前で男は俺を振り返り、首を傾げて眉を寄せた。俺をじっと見つめる顔に、疑問符が浮かんでいるように見える。
「で、何だっけ。つーか、訊いたっけ?」
「は?」
「名前」
「俺の? 聞かれてない。鴻原——」
「コウハラ、ビールでも飲んでくか」
「は?」
 何を言っているのか分からずに訊き返すと、男は更に眉間の皺を深くした。
「俺がさっさと出るっつったから、あんた途中だったろ、食い物も酒も。悪いから、ビールくらい奢ろうかと思って」
「ああ……ここで?」
「んなわけねえだろ。コンビニ前で飲むかよ、ガキじゃあるまいし。ホテルの部屋に持ち込んで飲めばいいだろ。それともどっか店知ってんの?」
「いや、つーか」
「じゃあ買ってくる」
 吐き捨てるように言って、男はコンビニに入って行った。
 ついて行くべきか、ここで待っているべきか暫し迷って結局店に足を踏み入れた。スーパードライの六缶パック、チーズ、ミネラルウォーター二本、おにぎり二個と煙草をビニール袋に詰めてもらって、男はさっさと店を出た。
 確かにこいつのせいで俺は晩飯を食い損ねた。しかし、案内してやるというのがそもそもお節介なのだから、態度に似合わず律儀な男だと思う。年齢は俺と同じくらい、二十代後半だろう。子供のような大人のような、掴み難いような分かりやすいような、妙な男だと改めて思った。
 男はビニール袋を片手に無言で歩く。ガソリンスタンドの手前を右に曲がってすぐ、ホテルの小さな看板が視界に入った。
「見辛えな。分かり難いじゃねえか」
 確かに少々不親切なデザイン重視の看板に文句を垂れつつ自動ドアを潜ると、すぐに狭いが今風のフロントに辿り着いた。
 フロントの女の子は、部屋で飲むためについてきたというのが明らかな俺にはまったく注意を向けず、カウンターにコンビニのビニール袋を乗っけた男にカードキーを手渡した。ペン型の入力端末で宿泊カードを書いている男の背中を見て、俺は、世の中は進歩しているんだなと場違いなことを考えた。