お前で10のお題 06-10

06 お前も一緒に

 ドアを開けた古河はジャージによれたTシャツ、寝癖のついた髪というだらしない格好だった。銜え煙草で、欠伸を堪えたようなおかしな顔をしていた。
「泊まったのか」
 掠れた声はいつもだから、寝起きなのかどうかは判然としない。しかし、奥二重の目が少し腫れているような気がするから、少なくとも朝早くから起きているというわけではなさそうだった。
「こっちのほうが近かったからな。新はまだ爆睡中なんだけど、折角だから帰る前に寄ってみた」
「汚ねえぞ、言っとくけど」
 古河はそう言って上がれ、というように顎を振る。榊はお邪魔します、と呟きながら靴を脱いだ。
「古河、昨日あれからすぐ帰ったのか」
「あ? ああ、帰って飯食って風呂入って、DVD見て寝た」
「DVDって何?」
「ユージュアル・サスペクツ」
「あ、あれいいよな。てか、金曜だっつーのにつまんねぇなあ」
「別に」
 古河の部屋は汚くはないが確かに取っ散らかっていた。二日分の新聞を勝手に避け、ソファに腰を下ろす。
 新の服は基本的にサイズが合わないから借りられない。散らかった部屋の中、ノーネクタイだがスーツの自分といかにも休日スタイルの古河の組み合わせは我ながら可笑しかった。
「何か飲むか」
「水貰える? 飲みすぎて喉渇いてさ」
「んー」
 気だるげな古河はのろのろと冷蔵庫を開けるとペットボトルを投げて寄越し、煙草をシンクの中で揉み消してトイレに消えた。  榊は水を一気に半分近く飲み干した。息をつき、煙草を取り出す。パッケージを破ってゴミを捨てようと屑かごを引っ張り寄せた。ティッシュやレシートの中に埋もれたコンドームの包装の端が、見たくもないのに目に入る。
 これは新が使ったものだろうか。そう思うと何となく子を心配する親のような妙な気分になった。勿論心配する相手は、長年の友人の方ではなかったが。
 水を流す音がして、古河が部屋に戻ってきた。
「お前も一緒に来ればよかったのに」
「昨日? 何で」
 床に直接腰を下ろし、古河はまた煙草を銜えた。灰皿を榊に差し出し、床に落ちていた携帯灰皿を足で引き寄せて古河は榊に視線を戻した。きつい視線は、古河の気の強さを物語る。あの新に平気で噛み付くというのだから、推して知るべしだ。
「新が荒れて面白かった」
「面白いで済むのか?」
「少なくとも器物破損とかはもうしねえから。昔と違ってあいつも丸くなったからねえ」
「あれでかよ」
 一瞬目尻に皺を寄せて笑い、顎を上げて煙を吐き出す。古河のこういう何気ない仕草は、確かに目を引くものがある。半開きになった唇から細く吐き出される白い煙。煙を何となく目で追いながら榊が八桁の番号を口に出すと、古河は訳が分からないというように首を傾げた。
「何だそれ?」
「頭に〇九〇つけたら、誰かの携帯番号」
 古河の顔色が傍目にも白くなった。目が微かに眇められ、眉間に深い皺が寄る。剣呑な色を帯びた瞳と、強張った肉の薄い頬。古河は笑っている時よりこういう顔の時にこそ、得体の知れない色気があるのかも知れない。
 だからと言って古河を抱きたいとはまったく、ほんの僅かも思いはしないが、新の気持ちは分からないでもなかった。決して屈服しそうにない、強情そうな鋭い顔。それでいて脆さも感じさせるアンバランスさ。だからこそ、新のような人間の征服欲を掻き立てるのか。
「新が呪文みてえに繰り返すから、俺まで覚えたんだよ。つったらあいつ、古河に教えてやれって」
「何であいつがそんなこと知ってんだ」
「知らねー。だって誰の番号かも知らねえもん、俺」
 古河は煙草を携帯灰皿に捻じ込んで、俯いたまま舌打ちした。
「余計なお世話だ」
「俺に怒るなよな。ま、あいつ酔ってたから、俺に言ったことなんか覚えてねえよ」
「…………」
「メモするなら紙と書くもの用意しろよ。もう一遍、番号言うから」
 榊の台詞に、古河はゆっくりと顔を上げた。

07 お前だってそうだ

 たまたま位置が悪かったのだ。
 高木の頭の上を、中吊り広告が行ったり来たり、とにかく落ち着かなくて仕方がない。誰かが開けた窓から朝の風が吹き込み、そよそよと何故か通常より縦長の広告を揺らす。こういうのには規制があると思うのだが違うのだろうかと見上げたら、単に外れかけているらしい。
 背が高いというのもこういうときは善し悪しで、頭頂に触れるか触れないかの紙の感触に朝から苛立ちが募るばかりだ。唸る高木を見上げ、古河は笑いを堪えようとして失敗した。
「擦れて禿げたりしてな」
「うるせぇんだよ」
「背ぇ高いから大丈夫だって。お辞儀しなきゃ見えねえよ」
「うるせえっつってんだろが」
 古河の向こうに立つ女が言い合いを耳に止めて小さく吹き出す。白地に青い柄が爽やかなワンピース。なかなかいい女だと思ったら、吊革を掴む左手の薬指にしっかり指輪が嵌っていた。
「お前のせいで笑われただろうが」
「俺のせいじゃねえよ。お前がでかいから」
 古河が言いかけたと同時に列車が駅に到着し、アナウンスとともにドアが開く。魅力的な人妻は他の乗客とともに降りていく。ざわめきの中古河の耳元に顔を寄せ、高木は低く呟いた。
「そりゃどうも。そんなに気に入ったか」
「…………そっちじゃねえ、馬鹿野郎」
 途端に不機嫌に顔をしかめた古河から視線を外し、高木は頭上の広告を左手で払い除けた。

 古河が高木の部屋に来ることは元々少ない。二階分の階段の昇降が面倒だというのが当初の理由だったが、今はそればかりではないのかも知れない。
 初めて古河を抱いたのは高木の部屋だった。それ以降何度か寝たが、初めの一度以外はすべて古河の部屋である。終わったらさっさと帰れ、という無言の通達のような気がしてならない。別に朝までいちゃつきたいとは思わないが、不満のひとつも感じないといえば、それは嘘になるのだろう。
 昨晩は、その古河が珍しく高木の部屋まで上がってきた。酔っているのは分かったが、身体の自由が利かないほど酔ってはいない。自分の行動が分からないほど酔ってはいないが、酔わなければできないことをするために酔ったというふうにも取れた。
 すっかり目が据わった古河に玄関先で押し倒された。鍵だけは何とかかけて体を入れ替え、その場で着ているものを剥ぎ取った。うなじの生え際に見つけた鬱血の痕。誰がつけた痕なのか、そしてそれを見た瞬間に滾ったのは一体何だったのか、分からない。
 風呂場に押し込んで身体を洗い、中まで洗って嫌がる古河をその場で犯した。寝室へ運び、殆ど悲鳴に近い啼き声を上げる口を手で塞ぐ。思いつく限りの方法で責め立てて、半狂乱になった古河が意識を飛ばすまで、手も身体も離さなかった。
 それでも気がつけば古河はいつの間にか消えていて、いつもの電車に、いつも通りの顔をして乗っているのが現実だ。あれは夢だったのかと、考えること自体馬鹿らしいことを考えて、窓の外を颯爽と歩いて行くワンピースの背をぼんやりと見送った。
「くだらねえな」
 古河の声がして、高木は視線を人妻から横の男へゆっくり戻した。
「何が」
「分かんねえ。全部」
 全部って何だ。そう訊きたかったが、電車の中で訊ねたところで満足できる答えが返ってくるとも思えなかった。
「ふうん」
 だから、問い返す代わりにそう答え、高木は吊革を握り直す。人が減った分スペースに余裕ができた。古河のほうへ半歩寄り、頭を掠める中吊り広告からやっとのことで自由になる。
「お前だってそうだ。俺と同じで、くだらねえことばっかり……」
 古河の掠れた声が低く呟く。
「だから、何がだよ」
 最後まで言い切らない古河に、高木はそう訊き返した。動き出した電車の窓ガラス。外が明るい今は、鏡のようにとまではいかない。それでも映る古河の顔をガラス越しにじっと見つめた。古河の、吊革を掴んでいた手が動いて自分の首筋を緩く掴んだ。
「何でもねえ」
「——なあ、見えるとこに痕つけるなんて、ガキくせえって言っとけよ」
 古河にだけ聞き取れる音量の囁きに、反応は何もなかった。残り二駅、黙って突っ立つ二人の上で、外れかけた中吊り広告がゆらゆら揺れる。
 高木を押し退けるようにして、古河は電車を降りて行った。改札を抜け足早に遠ざかる細い背中に、朝の、まだ高くなりきっていない陽光が当たっていた。

08 お前だけが

 優衣からの着信だ。
 靖人は、音楽を吐き出し始めた携帯をぼんやり見つめた。この曲は優衣のお気に入りの男性アーティストの曲で、優衣からの電話の時だけ鳴るようになっている。勿論、設定したのは靖人ではない。
 無視する気は微塵もなかったが、そんなことを考えながら聴いていたらいつのまにか鳴動は止まっていた。
 掛け直せばいいのだ。ほんの数分、いや数十分。もしかしたら数時間後。電話をとれなかったことを、優衣は許してくれるだろう。けれども、それ以外のことについては果たしてどうか分からない。靖人はそう思って溜息を吐く。四日前から、同じことばかり考えている。

 古河との再会は偶然で、そして、少なくとも靖人にとっては必然に思えた。
 だが、かかってこない電話を見つめて煩悶し、会社に電話をしては居留守を使われ、勤務先まで足をのばして遭遇すらできなかった時には流石に諦めかけた。だから、古河から電話がかかってきた時には嬉しいというより驚きのほうが勝っていたのである。大体において古河は公衆電話からかけてきたのだから、素直に喜べと言われても無理な話ではあったのだが。
「……友成さん」
「お前、会社まで来てたのか」
 前置きなしに話し出すのは変わっていない。玄関先で靴も脱がず、古河は強張った顔を靖人に向けて立っている。細身のアイスウォッシュのジーンズが細い脚を更に細く見せ、黒いルーズなニットの広く開いた襟元からきれいな形の鎖骨が見えていた。
「上がってよ。折角来てくれたのに立ち話なんて」
「すぐ帰る」
「友成さん」
 言いながら、手を伸ばして細くて骨ばった手首を強く掴む。一年ぶりの古河の腕の感触は、当然だが変わっていない。古河の身体が跳ねるように反応し、勢いよく振り払われた。
「靖人、もう連絡しねえ。もう全部なしだ。分かってるだろ? 面と向かってきちんと言おうと思ったから来ただけだ。誤解すんな」
 予想していなかったわけではないが、それでも酷く落胆した。
「何で」
「何でってお前」
「俺、今も友成さんが好きです」
「可愛い彼女いるんだろ、泣かせるなよ」
「何で俺じゃなくて優衣の心配なんかするんだよ!!」
 大声が出て一番驚いたのは自分だった。古河の顔が霞んだのは我知らず流していた涙のせいだ。それが何のための涙なのかも分からないまま、靖人は古河を無理矢理抱き寄せ、暴れる身体を力いっぱい抱き締めた。
 今はピアスの刺さっていない耳朶を舐めると、古河の身体が一瞬竦む。変わっていないのだ、とそう思う。このひとのどこをどうしたら、どんな顔で、どんな声を上げるのか。そんなことも、ひとつたりとも忘れてなどいないのに。
「靖人、離せ」
 低い声がもう終わりなのだと、いや、とうに終わっているのだと通告する。あの時の古河の甘く掠れた声が耳の中で甦り、冷静な今の声音と重なって頭蓋に響いた。
 腕で拘束したまま向きを変えさせ、玄関のドアに古河の額を押し付けた。うなじに鼻をこすりつけ、生え際を甘く噛む。強く吸い上げ痕を残して耳の中に囁いた。
「友成さん、好きだ。どうしたら戻ってくれるんだよ……俺にはあんたしかいないのに」
 古河が身じろぎ、靖人の腕の中で身を捩る。
「お前だけが……」
「友成さん」
「お前だけがそう思ってるんだ」

 どうやって古河を解放したのか、正直覚えていなかった。一人玄関に立ちつくす靖人の腕の中、古河の体温は跡形もなく消えていた。立ち去った古河が別れの挨拶をしたかどうか、それさえ記憶に残っていない。
 残ったのは抉られるような痛みと古河のうなじの感触だけ。そして優衣への罪悪感と、言いようのない何か苦いものだけだった。
 古河の言葉の意味が分からなかった。古河が自分のことを好きだと自惚れたわけではない。俺にはあんたしかいないのだと、そう言っただけなのに。それなのに、どうして自分だけがそう思っているなんて言うのだろう。
 今、靖人の唇に、四日前の古河のうなじの感触は既にない。一年前の汗ばんだ細い身体の熱さも、もっと以前の笑顔の温かさも。
 携帯電話がまた切なげな失恋のバラードをかき鳴らす。
 誰が錯覚だと言おうとも、関係ない。誰よりも古河が好きだ。こんなにも。
 靖人は掌で顔を覆い、こみ上げる嗚咽を噛み殺す。傾きかけた陽の光が窓から射し込み携帯の上にまろやかな光を零す。鳴り続ける美しい旋律は、靖人の耳には届いていなかった。

09 お前はいつも

「カウンターが塞がっておりまして」
 アルバイトと思われる女性店員が輝くばかりの笑顔でそう告げる。
「こちらにご案内します!」
 別に、カウンターがいいとは言っていなかった。週末の疲れたサラリーマンの二人連れにはそちらが似合いだと思われただけに違いない。
 店員と高木の後について通路を進む。通路に面したボックス席には、それぞれ薄い布が暖簾のように垂れていた。人影は見えるが、顔は見えない。だが、布はソファの座面までしか丈がない。膝から下が見えるので、どんな客かはすぐに分かる。手軽に個室の雰囲気も出せるしなかなか上手い方法だ、と古河は何となく感心した。
「こちらにどうぞ。先に、お飲物のご注文をお伺いします」
「生、中ジョッキ二つ」
 高木は古河に何も訊かずに無愛想に答え、煙草を銜えて火を点ける。愛想がないが男前な高木に笑顔を向け、お姉ちゃんは立ち去った。
「元気ねぇな」
 高木は古河の目を真正面から見てはっきり言う。臆することがないその視線に、古河はつい、目を伏せた。
「んなことねえよ」
「そうか?」
 黙り込んだ古河の旋毛の辺り。高木の視線を感じたが、顔を上げるのが嫌だった。
 靖人の顔を見たその日、苦い感情を酒だけではどうにもできず、高木の部屋を訪れた。酒の勢いにまかせて貪った快楽は、確かにその一時は古河の胸に澱む何かを根こそぎさらって無にしたが、一晩寝れば身体の重さと痛み以外、何も残してはくれなかった。一週間経ってしまえば尚の事、身体のあちこちにあった鬱血も今は見当たらず、高木に揶揄されたうなじの痕も、多分きれいに消えたに違いない。
「この間からずっと景気悪ぃ面してんじゃん」
「だから、そんなことねえって」
「最近、朝の電車でも全然喋んねえし」
 そう言って数秒黙り、高木はテーブルの上のメニューを手に取った。古河は内心息を吐き、ジョッキの表面に指を伸ばす。触れる指先が痛いほど冷えている。恐らく凍らせてあったのだろう、白い膜のような霜がガラスの表面を覆っている。それを爪の先で引っ掻いて、意味のない模様を描いた。
「何食う?」
「なんでもいい」
「やる気ねえな」
 目の前に差し出されたメニューのシーザーサラダの写真。一瞬見たその映像が古河の網膜に焼きついた。
 髪を掴まれ、引き摺られるようにされて上体がテーブルに乗り出す格好になり、古河は慌ててテーブルの縁を掴んで体を支えた。
 親愛の情を表すのでも、甘ったるい雰囲気を出すためのものでもない。身体の内側を直接攻撃するためだけのようなキス。もがく古河を押さえつけながら、あろうことか高木は店員を呼び出すためのボタンを押した。
「…………!!」
 遠くで間抜けな電子音がする。かぶせるように店員が今お伺いします、と叫ぶ声がした。

「お呼びですかぁ」
 暖簾が左右に勢いよく分けられて、若い男の店員が顔を出した。
「好きなもの頼めよ、古河」
 高木は今までのことなど夢だったかのように平然と煙草を銜え、煙を吐く。
 自分の顔がどんな表情を浮かべているのか古河にはさっぱり分からないが、店員は別に不審そうな顔もしていない。ということは、別にどうにも見えないということか。
「古河?」
 高木と、店員が揃って古河に視線を向ける。
「何だよ、お前。顔赤いぞ。一口で酔ったのか? それに妙に涙目だし、そんなに腹減ってんのかよ」
 にやにやしながら高木が言い、店員が何も知らずに朗らかに笑う。高木はメニューを手に取り、勝手に注文し始めた。店員が復唱するメニューを半ば上の空で聞きながら、古河は俯きおしぼりで顔を押さえた。
 俺の好きなものばかり。
 どうして高木がそんなことを知っているのか。どうして、そんなふうにするのだろうか。
 店員が暖簾の向こうに帰って行って、狭い空間にまた二人で取り残される。高木はメニューを戻し、煙を真上に吐き上げた。
「馬鹿野郎」
 古河の呟きに、真っ直ぐな煙がふわりと揺れる。
「ったく、一体何だっつーんだ、え!?」
「別に」
 高木は頬を歪めて笑う。
「高木、お前はいつも…………くそ、まったく、訳分かんねぇことばっかりしやがって……!」
「元気になったじゃねぇか、感謝しろよ」
 素っ気ない高木の言葉に言い返そうと試みたが、悪態が喉の奥にひっかかる。
「お前はそういうふうにしてるほうが可愛い」
 何を言えばいいか分からない。何を言われているのかも。
 失速した古河の怒りは床に落ちてどこかへ飛んで行った。何事もなかったようにビールを飲む高木の顔は、いつもとまるで変わらなかった。

10 お前が好きだ

「槙田さん!」
 古河が嬉しそうな声を上げ、犬のように男の傍に駆け寄った。

 高木も古河も外回り同士、どこかで遭遇してもおかしくないのだが、今まではそういうことはなかった。名前を知る前は会っていたのかも知れないが、数のうちに入らない。
 お互い客先から出て偶然会ったのがオフィス街のど真ん中、これから帰社するのはどちらも同じで、無駄話をしながら歩いていたら、誰かが大きな声で古河を呼んだ。

 あの大学生と会ったときとシチュエーションは同じだが、古河の反応はまるで違う。声の方に向けた顔がぱっと破顔した。初めて見る古河の全開の笑顔に、高木は思わず口を開け、正直言って真剣に見惚れた。
 マキタ、と呼ばれた男は多分四十になるかならないか。すらりとして背丈もそこそこ、趣味のいいなりをしているが、これと言って特徴のない顔立ち。ただ、古河を見て細められた目は酷く温かく優しげだった。
「古河、やっぱお前か。久しぶりだな、元気にしてるか?」
「元気ですよ、槙田さんこそ、飲みすぎてないですか? 相変わらず奥さんとラブラブ?」
「うるさいよ、お前は」
 男が高木に気付いて会釈し、古河に視線を移す。
「中途?」
「あ、違います。同じ会社じゃなくて、同じビルに入ってる別の会社の……たまたまアパート一緒で」
「友達か」
「はい」
「こんにちは、高木です」
 一応、頭を下げて名乗っておく。槙田はにこにこして頷いた。午後四時半の中途半端な陽射しを斜め上から浴びた顔は、善意と親愛の情に満ちて見えた。
「槙田です。古河が新人の時に同じ部でね、今は関連会社に出向してるんで、あのビルには勤務していないんですが」
 古河の頭に槙田の結婚指輪をした手が伸びて、柔らかい髪をくしゃりと掴んで撫でる。
 多分、愛犬か、子供を撫でるのと同じような感情が籠っているのだろう。撫でられたほうも嬉しそうに相好を崩し、見えない尻尾をちぎれそうなくらいに振っていた。

「ほんと、すっげえ久々に会った。元気そうでよかった」
 古河は槙田と別れた後も上機嫌で、エレベーターホールに向かいながらまた槙田のことを口に出した。
「そんないい先輩だったのか」
「ん? ああ、ああ見えて仕事もすげえしさ、なんて言うかな、人間として尊敬出来るっていうか。面倒ばっかかけたから槙田さんが本当は俺をどう思ってっか分かんねえけど、俺はすげえ好きなんだ。好かれてたらいいなと思うし」
「ふうん」
 古河はふわりと笑い、高木を見上げた。その腕を掴んで引っ張り、大股でホールを横切る。
「痛……高木!?」
 下層階専用エレベーターの前も通過して、人目から隠れるような場所にあるトイレに入る。節電で照明が半分になったトイレには誰もいない。個室に古河を押し込んで後ろ手に鍵をかけ、壁に押し付けるように口付けた。
「…………っ!」
 状況を把握できないらしい古河がもがき、鞄が便器の蓋に当たった。高木は自分の鞄を床に落とし、両手を古河の髪に突っ込んだ。柔らかい感触のそれを掻き乱し、何度も角度を変えて舌を絡め取る。
 身体全体を密着させ、古河を押し上げるようにして抱く。べったりと濡れた古河の唇から、掠れた呻き声が微かに漏れた。

「お前が好きだ」
「——…………は?」
 僅かに出来た唇の隙間。お互いの唾液が細く糸を引く。
 わざと口の中で呟いた高木の声は、古河には聞こえなかっただろう。高木が顔を離すと、眉間に深い皺を寄せた古河が低く問い返す。無意識に掴んだらしい高木のスーツの裾を握り締めたまま、古河は訝しげにもう一度訊き返した。
「何だって? 聞こえねえ」
「……お前のことが、好きなんだろ。あのマキタっておっさん。子供か犬見るみたいだったけど」
 一瞬黙り瞬きして高木を見上げた古河は、そっか、と呟いて嬉しそうに眼尻に皺を寄せた。
「お前にそう見えたならいいけど……ってコラ、何の真似だアホ!」
 突然今の状況に思い至ったらしい古河が高木の脛を思い切り蹴りつけた。
「いてっ!!」
「わけわかんねえことすっからだ!」
 蹲る高木を残して古河はさっさと個室から脱出し、まったく、とかぶつぶつ言いながらトイレを出ていく。たまたま用を足しに来た駐車場の係員が心配して声をかけるまで、高木はしゃがんで脛をさすりながら、綺麗に掃除されたトイレの床をぼんやりと見つめていた。