お前で10のお題 01-05

01 お前は知らない

「マジで?」
「マジで」
「げ」
 たった一文字だが、その一文字にはそいつの心境が端的に表現されていた。銜えた煙草の煙の向こう、ぼんやり霞む男の顔が酷く遠くなったような錯覚とともに、高木は目を瞬く。
 榊とは中学からの腐れ縁だ。サカキとタカキ、よく聞き間違えられ、取り違えられて教師に説教をくらったが、実のところ殆どは一緒にしていた悪さのせいだったから、怒鳴られ損の記憶はない。
 思春期の額のニキビの数、付き合った女の数から所有していたエロ本の冊数まで、とにかく知らないことはないくらい相手を把握している。別にしたくてしているわけではないが、とにかくその悪友は顔をしかめた後、テーブル越しに身を乗り出した。
「……古河?」
「な」
 んで、と続く二文字を飲み下し、高木は煙草を灰皿に擦りつけた。
 仕切りのないコーヒーショップの店内で、分煙とは名ばかりだ。榊の背後、通路を挟んだ禁煙席に座る気取ったおばさんのグループが、高木と榊の吐き出す煙を憎々しげに睨みつける。
「何となく」
「言っとくけど」
「誰にも言わねえよ、馬ぁ鹿。あ、別にお前のためじゃねえぞ。んなこと知れて困んのは古河だろ」
「……何で長年連れ添った、愛する俺にその優しさが向かねえかな」
「鳥肌立つから止めろ。俺の愛はおっぱいのついた人間のためにある」
「俺だってついてるぞ」
「平らだろ」
「悪ぃかよ」
「新(しん)、お前一遍死ね」
「うるせえ、お前こそ死ね」
 いい年をしたスーツの二人組の言い合いに、おばさん達が眉を顰めた。
「お前が男とねえ……」
「何で古河って」
 古河と親しくなってから、榊を交えて飲みに行ったことは何度もあった。古河はあの調子で気づけば榊とも旧知のように酒を飲んでいたが、少なくともその時には高木自身、古河に妙な下心を抱いてはいなかったのだ。
「だから何となくだって。よく分かんねえけど」
「女っぽくはないよな」
「全然。ただ、何ての、雰囲気っつーかさ——なんか、ちょっとした仕草が妙にそそるっつーの?」
「……」
 思わず見つめる高木の視線に、榊は嫌そうな顔をして椅子の背凭れに体重を預け、コーヒーを一口飲んだ。
「だからぁ、俺にそのケは微塵もございませんって。そういう趣味の奴はそう思うんじゃねぇのかって、そういう話」
「…………手ぇ出すなよ」
 低い呟きが、紙コップのコーヒーの水面を波立たせた。渦を巻くように流れている微細な泡。黒い水面が歪んだ己の顔を映していた。
「そういや、昔よく女取り合ったっけなあ?」
 榊の声に目を上げると、おっかねえツラ、と笑われた。
「惚れてんだ」
「違う」
「じゃあ何よ」
「何って、そのへんの女より数倍よかった」
「お前、相変わらずどうしようもねえな」
「今更だろ」
「ヘマすんなよ」
 榊はそう言って、女好きのする甘ったるい顔を曇らせた。
「何だ、ヘマって」
「…………あっちがマジに取るような、思わせぶりなことすんなってこと。お前はどうでもいいけど、古河が哀れだ」
「俺はいいのか」
 肩を竦め、榊はコーヒーのカップをテーブルに置いた。
 過去に、女を振ったことも振られたこともそれなりにあった。酷い捨てられ方をしたこともあるし、逆も然りだ。人並みよりはやや多いかも知れない恋愛遍歴を顧みて思う。古河に惚れている、という自覚は、はっきり言って今はない。
「男同士だぜ? まあ、お互いオトナなんだし、合意で遊ぶのは止めねえけどよ、古河を本気にさせんなよな」
「——分かってる」
 消したばかりの吸殻を指先で弄び、中の葉が飛び出すまで滅茶苦茶に捻り潰した。
 俺のことは何でも知っている榊、それでも多分お前は知らない。
 先に本気になるとしたら、古河ではなくて俺の方だ。

02 お前が呼ぶのは

「一ミリの煙草なんか、吸わないほうがいいんじゃねえの」
 人の煙草の最後の一本を吸っておいて、その言い草はなんだ。言いかけたが、どうせ何を言おうが聞かないと思い直して飲み込んだ。
 コンビニの中は、零時を回ったというのに昼間のように明るかった。当然と言えば当然だが、異世界に迷い込んだ気さえする。ふらりと現れた高木と少し飲んだらビールが切れた。買い出しに来たコンビニには、眼鏡をかけた若い店員が一人、暇そうに立っているだけだ。
「すいません、あとピーエムワンロングひとつ」
「ピ……?」
「フィリップモリス一ミリグラムの、箱の長い方」
「あ——すみません、こちらですね……っと、すみません」
 喫煙しないのだろう、大学生か専門学校生か、若い店員はようやく銘柄を理解したが、慌てて箱を取り落とした。高木が古河の後ろで鼻を鳴らす。喫煙しない男なんて信じられないとでも言いたげだが、どっちが健康的で、且つ女と世間に厚遇されるかは言うまでもない。
 ビールの六缶パック、柿の種とチーズ、ピーエムワン。ビニール袋のサイズが合わず店員がもたついている間に、一瞬背後の高木の気配が消えた。と思ったら、古河の肩の後ろからぬっと手が現れた。
「これも一緒に会計して」
 無造作に置かれたコンドームの箱に、一瞬コンビニ内の空気が全部固まった。
「聞いてる? これも一緒に会計して」
「あ、はい……」
「…………俺が払うのか」
「後で払うって」
 店員がぎこちない手つきでコンドームのバーコードを読み取った。
「何だよ、これだけ別に買うの面倒なんだからいいじゃねぇか。切らしてんだよ。俺はできちゃった、なんて女に脅されんのはご免なの」
 高木は相変わらず、男前だがどちらかというと怖い顔を面白くなさそうに歪めて言った。
 高木の言葉に、店員の顔がほっと緩む。店員は恐らくさっきの一瞬、脳内でこいつらそっち系か、と呟いたに違いない。古河も内心で息を吐き、財布から千円札を何枚か抜いた。
「ったく……女の部屋に常備しとけ」
 ぶつぶつ言う古河に釣銭とビニール袋が渡されて、店員がありがとうございましたと心なしか晴れやかな笑顔を見せる。角を曲がり、コンビニの明かりが見えなくなったところで思わず古河は溜息を吐いた。
「高木、お前ゴムくらい一人の時に買えよ」
「何で」
 見下ろす高木の顔は、さっきと変わらない仏頂面だ。きつい印象を与える切れ長の目が、夜の暗さをものともせずに古河を射る。
「なんか絶対誤解されたぞ、今」
「ああ? ゲイだってか? 普通思わねぇだろ、男が並んで立ってるからってよ」
「一緒にゴム買ったら思うだろ、普通」
「俺はゲイじゃねぇよ。一緒に買ってねえし」
「買わせたじゃねえか。俺だって違うからな」
「違うなら別にいいじゃねえか。金は払うって言ってんだろ」
「よくねえよ」
「わかんねえ」
「だから、本当はどうかってことじゃねえだろ! どう思われるかって話だろ。まったく、んなもん女と通販ででも買っとけ、大量に」
「誰、女って」
「だから」
 高木の手が伸び、古河の手からビニール袋を奪い取った。
「なあ、部屋に戻ったらやろうぜ」
「…………」
 高木が何を考えているのか、古河には今一つ分からない。高木とは二度寝たが、それは別に、特別な感情があるからというわけではなかった。一体何がきっかけかは知らないが、高木は興味本位なのだろう。思ったより楽しめたから、というところか。では自分はどうかと自問しても、それも今一つ分からなかった。
「そのために買ったんだけど? それとも生でやっていいのか」
「やりたきゃ女呼べ、馬鹿」
「……古河」
 高木は低い声で、甘えるように古河を呼んだ。
「女は呼ばねえよ」
 古河は言い返しかけ、言葉を探しあぐねて溜息を吐いた。高木は目を細め、唇の端で微かに笑う。
 お前が呼ぶのは、俺なのか。
——どうして?

03 お前、馬鹿だよ

 誰だって、これが運命の相手だ、と思ったことはあるだろう。その相手が真実運命の相手かどうかはさて置いて、そんなふうに考えたことが多分誰しもあるはずだ。
 古河も、かつてある女性に恋したときにそう思った。今思えば青臭い感傷に過ぎないが、当時は真剣にそう思っていたことは否めない。そして、眼の前の人間が、一時自分をその「運命の人」とやらに指定していたことも確かだった。
 土曜日の街中、暇だけは有り余っている若者だらけの雑踏。立ち止まった人間などそこに存在しないかのように、色とりどりの男女が足早に通り過ぎていく。人の流れの中で偶然こちらを向いたその顔に、気づかなければよかったと本気で思った。
 立ち止まった古河に高木がぶつかった。
「急に止まんな、古河」
 舌打ちとともに掛けられた声に我に返る。それは相手も同じだったらしく、一瞬無音になった世界に驚いたようなその表情が、慌てて平静という仮面を被るのを確かに見た。
「こっちでいいのかよ。お前道迷って…………知り合い?」
 気付かなかったふりをして通り過ぎるタイミングを逸した古河に、頭上から高木のいぶかしげな声が降ってきた。

「お久しぶりです」
 靖人は、彼女と思しき女の子をちらりと見て、古河に勢いよく頭を下げた。
「あー……、久しぶり。元気そうだな」
「はい、お陰様で。ほら、前に話した古河さん」
「あ、こんにちは!」
 後半は女の子に向けて靖人が言った。女の子のアッシュ系の茶色に染めた髪が風に揺れる。濃すぎない化粧、趣味のいい服。ついでにいうなら足が綺麗で、胸はやや小さい。挨拶に付加された可愛らしい笑顔もあって、総合点で九十点。
「可愛い彼女だな。大学でちゃんと勉強してんのかお前」
「真面目にやってますって! やだな」
「冗談だって」
 拗ねたように目を逸らす靖人の顔に、胸の奥の一部がしくりと痛む。
 正直言って未練はなかった。当然だ。靖人が知れば怒るのかも知れないが、これは本心に間違いなかった。だから、痛んだのは、多分何か別のものなのだろう。
「じゃあな、勉強頑張れよ」
うまく笑えた、と安堵した。強張りそうになる身体と表情を、制御できたとそう思った。
「——友成さん!!」
 靖人の声が背中に響き、急ブレーキのかかった足に、つんのめりかけてたたらを踏んだ。肘を掴んだ腕を本気で払い除けかけ、それが高木のものだと気付き狼狽した。
 見上げた高木と目が合った。強い視線に身体が竦む。ゆっくりと離された手は、何事もなかったような声とはまるで違って熱かった。
「転ぶぞ」
「友成さん」
 高木は素知らぬ顔で身体を避け、高木の向こうから現れた靖人が眼の前に立った。高木より僅かに低いが、すらりと背が高い。清潔に整った細面は、可愛らしい彼女を連れて歩くのがよく似合う。
「連絡取りたいんですけど。ずっと迷って——悪いかなと思ってて、出来なくて。俺」
「…………」
「俺の番号、覚えてますか」
「いや——電話帳からも消したから」
「じゃあ俺が掛けます。携帯、変えましたよね」
「……変えた」
「番号教えてください。いいでしょ?」
「嫌だ」
 靖人の顔を見られなかった。
 一刻も早くこの場を立ち去りたかった。何か言う靖人の声も、高木の声も聞きたくなかった。
 やだぁ、マジでぇ。付き合っちゃえばいいじゃん、マユコ!
 甲高い女子高生の声が頭の中で鳴り響く。携帯の着信音、誰かの笑い声、人ごみで歩き煙草をしている非常識などこかの誰か、母親を呼ぶ幼児の声。
 頭が割れそうに痛かった。胸の奥も痛かった。決して靖人のためではない、自分のための痛みがどうしようもなく疎ましかった。青ざめた靖人の顔が蘇る。好きだ、と繰り返し呟きながら抱き締める靖人の腕の感触も。
「お前、馬鹿だよ」
 立ち止まり、足元に吐き出した。
 お前というのは誰なのか。この期に及んで連絡を取りたいと言った靖人か、それとも動揺しているだけの情けない自分なのか。
 ふらふらと百貨店に入ってそこにあった椅子に座った。ジーンズの尻ポケットで携帯が震えている。靖人からの筈はないのに、笑えるほど手が震えた。古河は、歯を食いしばりながら携帯を取り出し長いこと見つめた後、通話ボタンをゆっくり押した。

04 お前の唇で

 古河の知り合いがやっている革小物の店があるというのは前に聞いて知っていた。昨晩、いつものように古河の部屋で飲みながら小銭入れが壊れた話をしていたら、古河が明日行くかという。自分から言った割には店の場所をうろ覚えだったらしい。何本か道を間違った挙句の遭遇だった。
 会話の内容から、そいつは大学生なのだと知れた。そして多分、古河の寝言の原因だということも。
「おい、どこにいんだよ」
 歩きながら電話を掛けた。呼び出し音が暫く続き、ようやく繋がった電話の向こうから声はしない。あの小僧が携帯の番号云々と言った途端古河はあっという間にどこかへ消え、小僧は呆気にとられた顔を何とか笑みの形に復元した。
 古河さんに、連絡くださいって伝えてもらえますか。感じのいい笑顔と携帯番号を書いた飲食店のレシートをその場に残し、大学生は可愛い彼女を連れて歩き去った。
「——悪ぃ。ちょっと、具合が」
 思わず舌打ちが出た。古河の言葉が途切れ、沈黙が落ちる。高木はもう一度舌打ちして三歩戻り、ファッションビルの洒落たガラス戸を押し開く。銀色のごみ箱に、握り潰したレシートを躊躇なく放り込んだ。
「あ、そう。で?」
「…………」
「黙ってんじゃねえよ」
「店の場所さ、電話して聞いとくわ。明日出直さねえ? あ、お前に用事なかったらだけどな」
「俺は別にいいけど」
「……靖人」
「は?」
「さっきの奴は」
「もういねえよ。お前がいきなりいなくなったから口開けて固まってたぜ。彼女とどっか行った。当り前だろうが」
「だよな。…………何か言ってた?」
「お元気でってよ」
 古河の沈黙の意味は分からないが、レシートを捨てた罪悪感はまるでない。
「高木、悪いけど俺」
「帰んのか」
 左右を見回しながら古河の消えた方向へ大股で歩を進めた。交差点をひとつ渡り、百貨店の前に出る。ガラス戸の向こう、親切にも待ち合わせをする客のために並べられた椅子がずらりと並んでいるところに古河はいた。紙袋をグレーの膝下ストッキングに包まれた脚の間に置き、虚ろな顔で座っている老婆の横に項垂れた古河の旋毛が見えた。
「熱っぽいから、お前ひとりで——」
「さっさと立て」
 ガラスのこちら側で立ち止まり、高木は言い捨てて電話を切った。古河の頭が弾かれたように跳ね、真っ直ぐ高木の視線を捉える。
 奥二重のきつい目が苛立ったように刺々しい色を見せ、数秒後、古河はゆっくりと腰を上げた。

 古河の舌がぞろりと皮膚の上を這う。
 もっと強く。注文をつけると古河は悪態を吐き、罵りながら高木の望むようにしてみせた。口腔内が熱いのは、本当に熱があるのか。いずれにしても知恵熱のようなもので、風邪というわけではないだろう。
 腕を掴んで無理矢理身体を引きずり上げる。古河は眼の縁を赤く染め、瞳を潤ませそれでも濡れた唇の間から歯を剥き文句を並べて高木の腹を蹴飛ばした。
「この野郎……!」
「なあ、入れてえ」
「さっさと入れりゃいいだろうが!」
「ゴム」
「何だよ!」
 喚く古河の鼻先に、袋から取り出したゴムをつきつけた。
「つけてくれよ。お前の唇で」
 瞬間的に古河がかっと来たのがよく分かった。目の色が変わり、欲望が吹っ飛んで怒りが表情を塗り替える。あの大学生に抱かれたときも、こんな顔で苛立つことがあったのか。そもそも、男が好きというわけでもなさそうなのに、何故そんなことになったというのか。
「……お前、俺以外の男とやったことあるんだろ?」
 高木の台詞に、古河は目を眇めて何か言いかけ、結局止めて身を屈めた。唇が粘つくラテックスを高木の上に伸ばしていく。被膜越しに感じる口内の温度は、さっきまでとは少し違った。
「誰と」
 寝たんだ。訊きかけた高木の口を、古河の口が噛み付くように塞いで言葉を封じ込める。余程質問されたくないのか、舌を絡ませたまま古河は高木を迎え入れた。
 合わせた唇の隙間から、古河の掠れた喘ぎが漏れ始める。膝の上の古河の身体が痙攣するように何度か震える。放熱しない直腸の温度は、薄い隔たりがあって尚、直に絡み合う口の中よりほんの少しだけ高い気がした。

05 お前を探して

「古河ぁ、電話。回すか?」
「誰から?」
「キハラさんだって。男」
「……もう帰ったって言ってもらえますか」
「はいはーい。もしもし、お待たせしましたぁ。申し訳ありません、古河ですが——」
 同僚のやたら勢いのある声を聞きながら、古河はパソコンの電源を落とした。靖人から電話が来るのは、あれから二度目。一週間に一度のペースだ。今の携帯と自宅は知らなくても勤務先は知っているのだから、別におかしいことはない。営業職の古河にはどこから外線が入っても誰も気にしないということも、靖人は当然知っている。今まで掛かってこなかったのは、靖人の言うとおり、彼が迷っていたからに過ぎないのだろう。迷惑になるほど掛けてこないのは気遣いなのか、それとも単にその頻度でしか思い出すことがないからなのかは分からない。
「お先します」
「お疲れさん」
 自分も机を片付けながら部長が返す。更衣室に向かう経理の女の子が頭を下げ、お疲れ様でしたぁ、と明るく言う。何となく沈んだ気分で彼女に手を振り、古河はエレベーターホールに足を向けた。

「あ、古河じゃん」
「あれ」
 ビルの入口に立っていたのは、高木の友人の榊だった。タカキとサカキ、名前が似ていて何となく紛らわしいが、外見はまったく違う。
 男前ではあるがどこか威圧感のある高木は全体的に鋭いイメージがあるが、榊はまるで少女漫画に出てくる男のようだ。華奢な骨格に柔らかそうな髪、甘ったるい顔は女にした方がいいくらい男臭さが希薄である。勿論、中身と外見が必ずしもイコールとは限らないのが人間というものなのだが。
「高木待ってんの」
「そう。飲みに行くかーって。お前も行く?」
「いや、今日はいい。疲れたから帰って寝る」
「まだ八時だぜ」
「飯食って風呂入ったらいい時間になんじゃねぇ? 高木すぐ来んの」
「ああ、何か歯磨き粉切らしたとかつってそこのコンビニ行ってる。明日の朝ないと気持ち悪いから買ってくんだって」
「何だそれ」
「一日くらい水で磨けばいいと思わねえ? あ、来た。新——」
 高木は大股でこちらに歩み寄り、古河の手首を掴んで物凄い勢いで歩きだした。呆気にとられて固まっていた榊が走って追いつき、何なんだよと高木の脚を蹴飛ばした。
「おい、新。古河は今日帰るって」
「高木! 痛ぇ! 離せアホ!」
「会社、知ってんだな」
「は?」
 ようやく振りほどいた手をさすりながら高木から距離を取る。
 高木の背後、ガラス張りの大型書店の照明はまるで真夏の陽光のように眩しく、それでいて無機的だった。逆光になった高木の顔は、黒っぽい影に遮られてよく見えない。榊がいぶかしげに高木と古河を交互に見た。
「お前を探して、来たんだろ」
 何を言いたいのか分からなかった。質問しかけ、さっきの電話を思い出す。
「今、コンビニであのガキ見かけた」
「さっきの電話——」
 考えるまでもない。会社の名前が分かっていれば、所在地なんてものの数秒で調べられる。
「携帯に?」
 高木が何を訊きたいのか分からない。古河はぼんやりしたままの頭を横に振った。携帯がどうしたというのだろう。靖人が、古河の新しい携帯番号を知るわけがない。
「いや、会社に……」
 高木は小さく息を吐き、前髪をかき上げた。榊が古河を見て、心配そうな声を出す。
「古河、疲れてんだろ? 帰ったほうがいいんじゃねえか」
「あ? ああ、帰る」
「携帯、知りてえか?」
 突然の高木の台詞の意味が理解できずに古河は目を瞬いた。まるで高木が異国の言葉を話しているように頭が意味を理解しない。榊の色素の薄い髪が店内の照明に透けてきれいな色に煌めくのを目の端で何とはなしに追っていた。
「誰の」
「あのガキの」
「何で」
「……覚えるんじゃなかったぜ」
 古河には意味の分からないことを言って、高木はあっとう間に踵を返し、歩き始めた。榊がじゃあな、帰ってゆっくり寝ろよ、と大声で言い、手を振りながら高木の後を追っていく。
 書店の壁面の形に照らされたアスファルトが、まるでスポットライトの当たる舞台のようだ。訳も分からず引きずり上げられた舞台の真中で台詞を忘れた役者のように佇みながら、古河はまたひとつ新しい溜息を吐き出した。