電車で10のお題 06-10

06 各駅停車

 気づけば高木は各駅停車の鈍行に乗っていた。間違った、と舌打ちしてももう遅い。行先は結局一緒だが、時間が余計にかかる。
 溜息を吐いてシートに凭れ、もう一度、さっきより長い溜息を吐き出した。
 終電の一時間前。
 車内の人はまだ多い。金曜の晩だから、飲んで帰ってきたサラリーマンの姿が目立つ。中には制服を着た高校生もまじっていて、自分の世界に没入し、一心に携帯をいじっている。周囲の大人も高校生と変わらぬ熱心さで、見知らぬ他人に鞄がぶつかろうと肘が当たろうと、手元の小さい画面に夢中だった。
 この一週間、高木はどこか上の空だった。原因は、古河にある。
 低く掠れた声で呟かれた懇願。深読みのしすぎだろうか。だが、古河のあの顔、あの台詞。あれはどう考えてもそういうこと——そういうことってどういうことだ。自分にツッコミを入れ、聴いてもいない音を鳴らし続けるイヤホンを耳からむしり取った。
 はっきりとは言えない。だけど、あの古河の顔は。

「つーか、何でお前ここに泊ってんだよ、高木」
 高木はあのまま眠り込んだ古河をベッドまで抱えて行って布団の中に荷物のように押し込んだ。何とも言えない複雑な心境でソファに寝転び、気づけばそのまま眠ってしまった。床に座って暫くぼんやりしていた高木に、いつもの古河の声が掛けられた。
 起きだしてきた古河は普段通り。寝癖のついた頭、よたったTシャツの襟元から手を突っ込んで鎖骨の辺りを乱暴に掻きながら、早速煙草を銜えていた。
「お前が鍵もかけずに寝たからだろうが。物騒じゃねえか、そのままにしてたら」
「ああ? 何でよ。盗られるもんなんかねえし、女じゃねえし。それよりお前朝飯食った?」
「いや。てかお前ん家の冷蔵庫何も入ってねぇ。有り得ねえぞ、食ってんのかちゃんと」
「食いに行こうぜ、食いによ」
「飯はまじめに食えよ。それ以上痩せてどうすんだ」
 昼も間近な陽光の下で見る古河はいつもと何も変わらなかった。男っぽい骨格、声、きつい目つき。
 高木はずり下がりかけたジャージの腰の辺りから何となく目を逸らし、掌で口元を覆った。
「……お前、寝癖ついてんぞ」
「マジ? 出らんねぇ感じ?」
「いや、お前がよけりゃ出てもいいけど、俺なら直す」
 そうかあ、と言って古河は片手で髪を適当に撫でつけた。
「いかにも寝起きっつー感じか」
「っていうより、いかにも事後の寝乱れっつーかな」
 言った途端、後悔した。古河はげらげら笑って、んな色っぽくねぇよ、ジャージだぜ、と言いながら寝室に戻って行った。クロゼットを開ける音を聞きながら、高木はくそ、と口の中で己を罵った。

 各駅停車の電車の中で、普段は通りすぎるだけの駅のホームを眺めながら、高木は本気で何かを悔いていた。
 あの日、古河に声を掛けたこと。
 定期入れをビルの管理室に届けず自分で返したこと。
 部屋に泊まるほど親しくなったこと。
 どこかの男の身体の下で乱れる古河を一瞬でも想像し、掌が傷つくほど指を握りしめて動揺を堪えたこと。

 知っているようで知らないホームが遠ざかる。名前だけは知っていて、その実何も知らない、そんな駅がまたひとつ。
 掌を開いて己の爪がつけた傷を見つめながら、高木は腹の底から長く、重い息を吐いた。

07 発車までしばらくお待ちください。

 電車の窓ガラスに映った自分の顔をまじまじと見て、眼の下の隈に今更気づいた。どうりで、今日は得意先の担当者が縮こまっていたはずだ。いつにもまして。
 その男は、高木より四つ上。三十になったばかりの主任である。その会社において主任がどういう位置づけなのかよく知らないが、少なくとも年下の営業をあしらう能力には関係がないらしい。
 高木は身長百八十を軽く超え、サングラスをかけて柄シャツを着ればいつでもやくざになれるとよく言われる。別にパンチパーマだとか眉がないとかいうわけではない。若い頃少々やんちゃだった面影が抜けきれないだけだ——と本人は思っている。
 自分でいうのも何だが女にはもてる。しかし、気の弱そうな線の細い女と、同じく気の弱そうな押しの弱い男には苦手とされるのが常だ。後者に分類されるその主任も今日はやたらと挙動不審だったが、どうやら隈のせいで数段怖い顔になっていたようだ。
 窓の外は既に暗い。外が暗いから、窓ガラスはまるで鏡だ。鏡の中の自分は不景気な面をして、目の下に青黒く隈を作って不機嫌そうに立っている。
 ガラスの中で、隣に立つ若い男と目が合った。金髪をおっ立て耳にでかいピアスをつけたその小僧は、酷く不自然に目を逸らした。
「ご迷惑をおかけしております。只今信号機の異常のため、停車しております。発車までしばらくお待ちください」
 何度も繰り返されるアナウンスに更に苛立ち、ようやく電車が発車した頃には、隣の男はいつの間にかいなくなっていた。

「お疲れさん」
 背後から掛けられた声に、思わず立ち止まる。
「何だよ、煙草とビールだけかよ」
 低く掠れた声が徐々に近づき、速度を緩めた高木の隣に並んで止まる。目を向けると、斜め下に古河の頭があって、高木の左手のビニール袋を覗き込んでいた。
「……うるせぇな、関係ねえだろうが」
「何だよ。ご機嫌斜めか? そういう時はな、きれいなお姉ちゃんに癒してもらえ。彼女どうした、この間の」
「もっと関係ねえ」
 古河はにやにやしつつ、まあそうだな、と言って一歩高木の前に出た。古河の左手に、鞄とともにぶら下がった見慣れないビニール袋。高木は何となくそれに目をやり、口を開いた。
「コンビニ?」
「あ? いや、上司と客んとこ行った帰りにデパ地下っつーのに寄った」
「上司って、なんだそりゃ」
「俺の上司、五十三歳のオバサマだっつったじゃん。遅くなったから晩飯になんか買ってくんだって言うから、お供した」
「へえ」
 何となく、親子のような二人が目に浮かんだ。
「で、買ってもらったってか?」
「自分の飯くらい自分で買うって。コンビニより美味そうな弁当多いのな。まあ、そりゃそうか」
「珍しいな、晩飯買って帰ってくるなんて」
 飲みに行かなければ面倒くさがって食わないことも多い古河の背中に声をかける。古河は振り返り、何でもない顔でビニール袋をちょっとだけ掲げて見せた。
「お前、食えって言ったじゃねえか」

 発車までしばらくお待ちください。
 アナウンスが耳の奥にこだまする。マジかよ。どこに向かおうって言うんだ、俺は? 勘弁してくれ。

 古河がじゃあな、と言って先にアパートの階段を上がっていく。古河のぶらさげた弁当の平和な残り香が、胸をざわつかせる高木の鼻先を掠めていった。

08 満員電車

 

 ラッシュを避けて早めの時間に乗っているのに珍しく満員になったのは、ばかでかいスポーツバッグを持ったジャージの一団が乗り込んできたせいらしい。
 どこかの高校の部活動か何かだろう。やたらと「チョー」とか「ウザイ」とかがつく間延びした会話の切れ端から、彼らが大会のために移動しているのだということだけは理解できた。
 それにしても、大会の運営側は何故社会人の出勤時間に合わせて移動するようなスケジュールを組むのだろうか。邪魔くせぇ、と顎の奥を軋ませながら呟くと、斜め後ろで馬鹿笑いしていた高校生の一人が高木のほうを向き、慌てたように眼を逸らした。図体ばかりは大人並の高校生は、混み合う車内で無理矢理高木に背を向けた。
「びびってんじゃねえぞ、ガキ」
 ぶつぶつ言う高木の前で古河か喉を鳴らして笑う。
「大人げねぇ」
「うるせえな。俺は立派に大人だ」
 ドアの脇の手すりに凭れた古河は、そういうところが大人じゃねえんだろ、と言ってまた笑う。
「お前さ、高校んときとか、何かやってたの?」
「何かって何」
「部活とか。背高えし、運動神経よさそう」
 どう見ても地毛の黒さではあるが、古河の髪は漆黒というわけではない。暗い栗色が窓から射し込む朝の光に透けて、黄色っぽく光って見える。
「何も」
「まさか運動苦手とか言わねえよな、その見かけで」
「馬鹿にしてんのか。部活動なんかダルくってやってらんなかったっつーだけ」
「何だよ、見た目通り悪かったのかよ。なあ、お前ら何部?」
 古河は突然高木の背後の集団に声をかけた。車内の目が一斉に古河に向く。古河はそれに驚くふうもなく、振り返った高校生達に目を向けた。
「……サッカーっす」
 高木から目を逸らしたやつがぼそりと答えた。
「へえ。そうなんだ。大会? 強いんだろ、すげえな」
「や、俺らそんな強くねえよな」
「国立とかマジで遠いよな」
 でかいなりの高校生は、口々に自分たちは強くないと言い始めた。
「てか強豪なら電車とか乗んねえっすよ。あいつら貸し切りバスだし」
「贅沢だろそりゃ。学生は電車乗れよなあ」
「そうっすよね」
「ねえ?」
「ハイ」
「頑張れよ」
 照れくさそうに笑う高校生に、古河は口元を歪めて見せた。
 人懐こいわけでは決してないのに、古河はするりと人の懐に入ってしまうようなところがある。
 高木に対してもそうだ。知り合ってから会わせた高木の友人の何人かとも、既に長年の知り合いのように自然に距離を詰めていた。
 電車が大きく揺れ、高木は思わずドアに手をついた。
 高校生がまとめてよろけ、その背が高木の背を押すように圧し掛かる。ドアの前に立っていた古河に覆いかぶさるように腕をつき、舌打ちしながらふと下を見た。
 古河が斜め下から高木を見つめていた。
 多分、意味などないのだろう。
 腕の力をわざと緩めると、押される身体が徐々に古河に近づいた。古河の目がちょっと見開かれ、ゆっくりと顔が背けられる。
 古河の頭の天辺に鼻先が触れる。たまたま古河の内腿に当たった膝をずらしてみる。撫でるように動かすと、古河は明らかに体を硬くした。
 高木は旋毛に向かって古河、と小さく囁いたが、古河からの返事はついになかった。

09 踏み切り

踏切を越えれば、新しい世界が広がっていると思っていた。
現実はそんなにドラマチックじゃない。踏切と線路の向こう、そこは、ただ線を越えただけの同じ世界だ。

「えー、何でぇ? 行こうよ~! タカキくん!」
 鼻にかかった甘い声は、確かアイコ、と呼ばれていた子だ。背が高くて痩せていて、会社勤めとは思えないほど化粧が濃い。密生した睫毛は瞬きの度に竜巻でも起こしそうだが、色っぽい唇は悪くない。
 アイコちゃん、その唇でしゃぶってくんねえかな。
「や、ごめん、ほんと。明日の朝いちの会議、マジで大事だからさ」
 内心とまるで関係ない台詞とともに、高木は手を上げ、集団に背を向けた。
 大学時代の友人主催の合コンは、珍しく女子全員が当たりだった。タイプの違いこそあれ粒揃いで、中身はともかく見かけだけならかなりのレベルだ。
 だが、酷く気乗りがしなかった。ジャージの集団との遭遇は昨日のことで、今朝、古河は電車に乗っていなかった。気分が乗らないのはそのせいに違いない。
 飲んでいる量はそれなりなのに、酔いはまるで訪れない。もともと強いせいもあるが、それにしたって楽しくなかった。二次会へなだれ込み、気が合えばお持ち帰り。そんな予想も今日は心を浮き立たせず、ありもしない会議を理由に高木はそそくさとその場を後にした。

「お、お帰り。飲み会?」
 四階から降りてきた古河とぶつかりかけ、高木はバランスを崩して階段の手摺を掴んで体を支えた。
「危ね——何でお前こんなとこにいんだよ!」
「お前んとこ行ったから」
 古河は手に持ったビニール袋を持ち上げる。
「実家からビール山ほど送ってきたから、お裾分け」
「何でビール……」
「知らねえ。どこかで貰ったかなんかしたんだろ。親父が焼酎派でビールあんまり消費しねえんだ、実家」
 古河は私服だった。ウォッシュドカーゴパンツに白い細身のカットソー。ディーゼルなんて着ている古河は、部屋にいるときのだらしない格好とはまるで違って、初めて会う人間のようにも見えた。
「——会社、休みか」
「は? ああ、うん。この間休日出勤したから代休」
 差し出された袋を一瞬眺め、高木はそのまま古河をかわして階段を昇りはじめた。このままビールを持って帰っても仕方ないと思ったのか、古河はすぐに後をついてきた。
「お前は? 飲みだったにしては時間早えよな」
「抜けてきた……つまんねえから」
 鍵を開け、真っ暗な玄関に足を踏み入れた。今朝出てきたままの、散らかった部屋。シンクの上に放置したままのスーパードライの空き缶。ビールを入れたビニール袋が古河の手の中でがさがさと音を立てた。

 踏切を越えたとしても、違う世界に行けるはずもない。
 自分の立ち位置を確かめて、ここからこっちがA、向こうがB。そう決めたところで、実際はAとBの違いなどそれほどない。決定的に変わるのは、線路を踏み越え向こう側に立ってしまったという自覚の有無、それだけなのではないかと思えた。
 暗がりの中、床に押し付けた古河の顔を見下ろして、高木はこれで俺は踏切を越えたのかと考えていた。床に転がったビールの缶が鈍く光を反射する。薄いレースのカーテン越しに射し込む街灯。古河の耳朶にごく小さな煌きを発見し、高木は眉間に皺を寄せた。
「……退けよ、酔っ払い」
 古河が、ゆっくりとそう呟く。
 遮断機が上がらないままのほうがよかったのかも知れないとぼんやりと思う。通り過ぎる列車が途切れなければよかったと。
「酔ってねえよ」
「嘘つけ。退けって」
 古河の僅かに上ずった声が、高木の頬を掠めていった。
「しゃぶってくれよ。あの子より、お前がどうやるか興味あんだよ」
 あの子というのが一体誰か、古河には分からなかったはずだ。だが、問い返すこともなく、古河の顔が夜目にもはっきりと青ざめた。

10 終電

 後ろから抱いたまま左の耳に吸いついた。古河の背が跳ね、逃げようと体を捩る。耳を舐め上げると、古河は堪え切れなかったのか長く引きずるような声を上げた。
 刺さったピアスごと耳朶を口に含みながら突く。そうすると古河が乱れるということを、高木は知った。

 最初のうちは抵抗した古河も、深いキスを何度かするうちに観念したらしい。
 そうなってしまえば、大人同士のセックスに障害は別になかった。古河が男であるということも、受け身の経験があるらしい古河相手だということで、障害にはなり得なかった。もっとも、高木がそう推察していることなど古河は知らない。今言うことでもないと、高木も敢えて触れることはしなかった。
 そういう目で見れば古河にはどこか放っておけない色気があると思うのは、盛った自分の錯覚なのかも知れない。特徴のある低い声が何度も掠れた喘ぎを上げ、錯覚だろうが何だろうが構いはしないと、高木は古河の脚を更に押し開いた。
 腰を押し付け、隙間なく押し込む。深すぎる、もう無理だ、と泣く古河の奥二重の目元は赤く染まって息は浅い。女相手にもこんなにがっついたことはない、と頭の隅で回顧する。いや、女相手になかったというより、古河だから、というべきか。
 女が好きだ。
 古河に突っ込みながら、古河にしてみれば噴飯もののことを考えた。好きだが、女にこれほど興奮することもない。本当は男のほうがより好きだったとかいうオチはない。ただ、普段とこの行為の最中のギャップという意味で、古河のそれは女より数段刺激的だと、そういうことだ。
 開かせた脚を押さえつけて古河の顔を見下ろした。焦点を結びきれていない視線が高木の鎖骨の辺りで彷徨っている。行き場なく揺れる指先を捕まえて握り込むと、縋るように指が絡んだ。
 同性の痴態なんて、見苦しいだけだ。そういう認識は覆され、欲に染まった脳みそはただただ本能のまま動けと信号を送る。
 例えゴムをつけていなかったとしても、人体の構造上決してそんな事態にはなり得ない。分かっていたが、悶える古河を見下ろしてこれで古河が孕めばいいとふと考え、不健全なその思考に頭の中が赤くなった。
 かけるべき言葉もなく、ただその中に突き入れて、高木は満足と後悔と解放感と得体の知れない感情に胸と声を詰まらせた。

「電車……」
 古河の声は、普段の数倍嗄れていた。うわ言のように呟いた単語に、高木は古河の胸に落としていた頭を持ち上げる。古河は高木の髪に多分無意識で手をやって、語を継いだ。
「お前、帰らないと、終電——」
 呟きながら少し意識がはっきりしたのか、古河は続きを飲み込んで瞬きした。まだ濡れたままの睫毛が眼尻に重そうに張り付いて、そうしてようやく持ち上がる。古河の視線が自分を見据える高木の顔にあてられて、僅かな間射るように鋭く投げかけられ、不意に緩んだ。
「……高木……」
 その声に、心臓がひとつ、跳ねあがる。
「そっか……——お前は、乗る必要ねえんだっけな、終電」
 嘆息とともに呟かれた古河の声に、高木は無言で頷いた。
 古河が目を細め、半ば夢うつつなのだろう、薄らと微笑んで瞼を閉じる。まどろみ始めた古河の頬をそっと撫で、額に掌を当て、僅かな時間手を止めた。抱かれたせいか、古河の体温は微熱くらいに高くなっていて、額はまだ汗ばんでいる。高木はゆっくりと身を起こす。終電にはもう間に合わない。同じアパートだから、それでもいい。
 満足したはずだった。
 電車で毎日一緒になる、それだけの男への些細な興味。
 名前を知り、部屋番号を知り、興味本位で身体を繋げて、それで満足したはずだ。
 本当に、それでいいのか。
 頭を抱えた高木の横で、古河は涙の跡を残したまま眠っていた。