迷い家 3

 鳩尾まで捲くれ上がっていたTシャツを更に押し上げ、唇を落とす。当然ながら平らな胸に、しかし嫌悪感は湧かなかった。唇と舌と歯で愛撫する。モリシマは呻き、胸を波打たせた。
「冗談にしちゃひでえだろこれ……っ」
「真面目だけど、俺は」
 顎を掴んで上を向かせ、唇を舐めた。それが文句を垂れ始める一瞬前に、舌を突っ込む。別の行為を連想させるような濃厚な舌の出し入れに、モリシマの眼の縁が見る見る真っ赤になった。
 黒いボクサーパンツを押し下げてモリシマの下半身を露わにする。体温が上がっているのか、細い腰からトワレが一瞬香って消える。俺は突如切羽詰まって、モリシマの舌を解放した。
「……勃った」
「……あ?」
 焦点が定まらない眼が何度か瞬きする。
「あんたの顔見てたら勃った、っつってんの」
 俺は、片手でベルトのバックルをゆっくり外した。
 ラブホテルより、自分の狭いアパートより更に狭いビジネスホテルのシングルルーム。
 ホテル自慢のポケットコイルスプリングベッド、幅は百四十センチ。糊のきいた白いシーツに落ちるオレンジ色の照明の光。カーテンが開いたままの窓から見えるのは、隣の建物ののっぺりとした壁だけだ。
 見知らぬ男を組み伏せて俺は一体何をしているのかと自問するには、そこは日常から遠過ぎた。
 硬くなったものを掴み出してモリシマの股間に擦りつける。モリシマの先端から漏れた体液で、触れ合う肌が妙に滑った。
「うわ!?」
 モリシマが素っ頓狂な声を上げた。
「や——待て、待てって、嘘だろ何で勃ってお前……んっ」
「何で? 別に不思議じゃないだろ」
 まとめて握ったお互いの器官が擦れ合う感覚。仰け反ったモリシマの喉を噛み、腰を前後に揺らす。モリシマの内腿が引き攣り、腰が浮く。モリシマの体液が、俺のものを伝って流れ落ちた。
「ん……、あっ……嫌だ——」
「何が嫌なんだよ」
 憤懣の色が濃く滲む瞳を見つめながら、俺はモリシマの先端を左手で撫でた。べったりと濡れた掌をモリシマの腹に擦りつけ、耳元に口を寄せる。
「濡らしてんじゃねえか、こんなに」
「違——」
「違わないだろうが。俺に触られてでかくして、言えよ、何が嫌なんだよ」
「この野郎……!」
 モリシマが歯噛みし、潤んだ目を眇めて俺を睨みつけた。
 初対面の俺に分かるくらい不安定な何かを滲ませて、それを認めずに毛を逆立てたモリシマは、まるでいじめられた犬のようだ。痛めつけられるのに耐えきれず、差し出された手に唸る怯えた犬。
 その目つきの刺々しさと痛ましさに、俺は思わず声を荒げた。
「女出てったの、辛いんだろ。転職だってほんとはどうでもよかったんだろ。逃げたかったんだろ。裏切られてきつかったんだろ? ほんとは寂しいって、その女がまだ好きだって、認めろよ!」
「う……るせ、てめぇ何様だ一体!? いきなり人のナニ掴んで説教かコラ!!」
 モリシマの怒声に負けずに俺は怒鳴り返した。
「説教なんかしてねえよ! 出させてやるっつったろうが!」
 眼を見開いたモリシマの多分怒りで青ざめた顔に、こめかみの血管が脈打った。
「出せよ、全部」
 顎を舐め、喉元に齧り付いた。モリシマの身体が飛び跳ねる。動かす度に手の中でぬるりと滑る他人の一部。耳元でわざと卑猥なことを囁いてやると、一層濡れた。
「……くそ……っ」
「認めろよ」
「ん、何をっ」
「全部だよ。俺がさっき言ったこと全部。辛いって言えよ。吐き出せよ、全部」
 俺は片手でモリシマの首を抱き寄せ、朝、トワレをつけた場所にモリシマの顔を押し付けた。
「……するか?」
 耳元に唇を寄せ、耳介をなぞるように舌を這わせながら訊ねると、モリシマが抵抗を一瞬止めた。
「——俺から、お前の匂いが」
 モリシマの耳朶をしゃぶりながら、俺はつまらないことを睦言のように囁いた。
 口付け、何度も角度を変えて喰らいつく。首根っこを押さえつけているから逃げ出すのは無理なのに、モリシマは往生際悪く俺の手を振り払おうと足掻いていた。
 歯列を舌の先で撫で、前歯の裏から口蓋へと移動する。舌先で優しく上顎のカーブを辿ると、モリシマの背が仰け反った。舌を往復させながら、そっとうなじから手を離す。モリシマは俺の手が退いたことに気付かずに、唇の隙間から忙しない呼気を漏らしていた。
 モリシマの右手を取って導いた。手を添え、俺が握っていた二人分のそれをモリシマに握らせる。途端に我に返ったらしいモリシマの手を覆うように掴み直し、ゆっくりと上下した。
「止め——離せ!」
 しわがれた低い声は、ほんの僅か震えていた。
「——冗談だろ。離すか、今更」
 重ねた指の間を、どちらのものか分からない体液が伝う。
 喉仏を前歯で擦りながら噛むと、モリシマは甘ったるく喘いだ。驚くほど艶のあるその声に、多分一番驚いたのは本人だったのだろう。ぎくりと身体を強張らせたモリシマに手を伸ばし、左手首を取って持ち上げる。されるがまま俺の肩に載った手は、意外にもそのままそこに在り続けた。
「お前、ほんとの本気で抵抗してねえだろ。なあ」
「な……って、ん——」
 扱き上げる動きに、モリシマの抗弁は溶けて消えた。
「いいんだよ、責めてねえよ——迷うなよ……ここまで来て」
 掴んだモリシマの手と、腰を同時に動かす。モリシマの唇の端から上擦りしわがれた声が漏れ、それはそのうち止まらなくなった。
 諦めたのか無意識なのか、手の動きに同調するように下腹がうねって腰が浮く。頸動脈を吸い上げ、口角に舌を這わせる。頬に、瞼に唇を落とし、平らな尻を掴んで引き寄せた。
 どうしてこんなことを始めたのか、切っ掛けも理由も言い訳も曖昧に消え、お互いの息遣いと粘つく音だけが思考を染めた。
「や……やめ、あ、あ」
「いい加減にしろよ——蕩けそうなツラしといて」
「して、ね……」
「してる。ここも——」
 耳の中に続きを囁いた。骨ばったモリシマの手を通して、握ったものがひくつく感触を鮮明に感じる。
「んあ、あっ——……」
 モリシマは多分無意識に俺の肩に縋って喘ぎ、達した直後に強く扱き上げられて、声にならない悲鳴を漏らした。首筋を歯で嬲る。モリシマの脚が俺の脚に絡みながら痙攣した。
 俺の下で身体を震わせるモリシマの顔を見下ろした。寄せた眉の下の瞼はしっかりと閉じられて、モリシマが見ようとしなかったものは何か知る前に、俺は自らも眼を閉じ達していた。
 俺の手と、奴の腹を濡らす二人分の生温い体液は、単なる体液でしかない。モリシマの腹の底に澱む何かが一緒に吐き出されたのかどうか、それを知る術は俺にはなかった。
 欲求不満の男を親切にも手でイかせてやった? 言い訳もいいところだ。
 挿入はしなかったが、それがこの行為のすべてではない。
 俺がモリシマとしたのは紛れもなくセックスで、それはいくら瞼を閉じてみても、誤魔化しようのない事実だった。

 ホテルのフロントは、一人で出ていくサラリーマンの客には興味がなさそうだった。
「行ってらっしゃいませ」
 こんな時間におかしな挨拶だと思ったが、向こうにしてみれば今が何時だろうと勤務中に変わりないし、戻ってくる人間だろうが違おうが、あまり関係ないのだろう。
 あの後、モリシマはのっそりと起き上がり無言でバスルームに入って行った。何か言うべきか、それとも追うべきか、いっそ朝までここにいるべきか。ほんの数秒悩んだが、結局俺はシャワーの音を聞きながら、身繕いして部屋を出た。
 携帯の番号を聞こうとか、出た瞬間自動的にロックされてしまったドアをやっぱりノックしようとか、思わなかったわけでは決してない。そうしてはいけない理由が見つからない。そのことが何故か俺を脅かし、逃げるようにしてその場を立ち去らせた。
 そうしてしまえば、二度と会えないのは分かっていて。
 駅に向かって歩きながら、俺はぼんやりとモリシマのことを考えた。
 乱暴な口調は元々だろうが、棘のある態度やイラついた仕草は多分落ち込んでいるからだ。行きずりの男に好きにされた、と思えば屈辱かも知れないが、ケツに入れられたわけでもなし、お互いにエロ本の代わりをしたとでも思えば笑い話になるかも知れない。そうやって今夜のことを笑ったら少しは気が晴れ、煙草を銜えた唇の端に、あの人懐こい笑みを浮かべられるようになるだろうか。
 道に迷った人間の前に現れるという迷い家。二度と辿り着くことができないその場所から持ち帰った椀が迷い人の家を幸福にしたという。モリシマが持ち帰る椀はそこにあるのか否か。それは俺には分からない。
 店じまいしたコーヒーショップの真向かいで、ストリートミュージシャンが下手くそな歌を歌っていた。幸せはマボロシだとか何とかそんな内容の暗い歌。気が滅入るから止めてくれと思いながら向けた視線に、歌う若造は何を勘違いしたものか、大きく微笑んで頷いた。
 大きな溜息を吐いてのろのろと歩きながら、俺は煙草を取り出した。

「そういうわけでぇ」
 月初営業日恒例の朝礼。営業部長が間延びした話し方でつまらない紹介をするのを、俺は口を開けてただ見ていた。
「誰だよ、中途入社、女だっつったの?」
 隣の刈谷が声を潜め、更に隣の江藤を肘でつついた。
「なんか斉藤が人事の書類の名前見て勘違いしたんだって」
 江藤も顔を動かさずに低く答える。俺は江藤と部長の顔を交互に見た。刈谷が江藤を横目で見る。
「何、女みたいな名前なわけ?」
「モリシマナオ、だって」
「あー、それは間違うかもな」
「森島奈生です。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げたモリシマ——森島奈生が顔を上げ、視線を巡らせた結果俺を認めて口を開け、そうして数秒固まった後、ようやく微かに笑みを浮かべた。
「……刈谷、あいつ今、こっち見て笑った?」
江藤が言い、刈谷が今度は俺を横目で見る。
「鴻原、お前、あれ知り合い?」
「——多分」
「多分って何だよ——鴻原?」
 俺は多分、余裕のない顔をしているんだろう。
 声も、多少震えているんだろう。
 森島の笑みに麻痺したようになった指先が、意思に反してぴくりと跳ねた。
 俺は知ってる。
 今は取り澄まして突っ立っているあの男が、女を想って口元を歪める顔を。
 切れた電話に当たり散らす悪口雑言のバリエーションの豊かさを。俺に触れられて漏らした煽情的な喘ぎ声を。潤んだ眼の縁を染める朱の色合いを。俺の肩に縋る指先の、切り揃えられた爪のかたちを。
 朝礼の終わりを告げた営業部長に頭を下げた森島がこちらを向き、僅かに首を傾けて会釈した。唇の端を曲げて浮かべたクソ生意気なその微笑みに一瞬息が詰まったのは、多分気のせいではないのだろう。

 勝手に行かせて、迷わせればいいじゃないか。
 池袋駅の雑踏の中であいつの頭を見つけたその瞬間、迷ったのは俺かも知れない。
 迷い家を見つけたのは俺だったのか。
 いつか幸福をもたらす何かを、俺は手にしているのだろうか。
 それはまだ、誰にも分からない。