迷い家 2

 大の男が二人詰め込まれると、流石にシングルの部屋は狭かった。
 部屋にあったリーフレットによると通常よりやや広い幅が売りらしいベッドは確かにそれなりに大きかったが、それ以外が妙に狭くて小さかった。今時のビジネスホテルはどこもこんなものだとは思うが、普通の椅子すらないとは思わなかった。ベッドの枠にベンチのような部分がついてはいるが、背凭れもないのでは却って座り難くて寛げない。
 ベッドの横、テーブルとは呼べないくらいのスペースには、女の化粧台にくっついているようなやたらと小さいスツールがひとつ。そちらはあまりにも低すぎて百八十ある俺はとても座ることができず、結局床に直接胡坐を掻いた。洒落たシャギーラグが敷かれているが、スーツのズボンに毛がつきそうで気になった。
 ラグの抜け毛をズボンから摘まんでいる俺を尻目にTシャツとボクサーパンツだけになった男は、ビールを一缶とチーズのパッケージを丸ごと放って寄越した。缶ビールを開けて一口飲んだ俺に、男はそういえば、と声をかけてきた。
「今更聞くけど、チーズ食える?」
「ほんと今更だな……食えるよ」
 口の端だけで笑い、男はベッドによじ登って腰掛けた。スーツを脱ぐと思った通り痩せている。俺より五、六センチ背が低いが、流石にあの子供用かと思うくらい小さいスツールに座る気にはなれないらしい。LANケーブルがあるところを見るとビジネスマンの客も当てこんでいるのかも知れないが、少なくともあのスツールで仕事をすることはどうやってもできそうにない。
「で?」
 見上げて訊くと、男は不思議そうに首を傾げた。
「でって何」
「尋問は一週間に一回でいいって、何それ」
「……そこ突っ込むのか」
「だって、気になるだろ。いきなり怒り出すんだから」
 男は煙草を銜え、髪を掻き毟るようにして溜息を吐いた。
「どうでもいいだろうが」
「まあ、そうだけど。酒の肴に」
 男はチーズがあんだろ、と吐き捨て一瞬俺を睨んだが、すぐに目を逸らして煙草に火を点けた。
「……同棲してた女が出てったんだよ。一ヶ月くらい前に」
 吐き出した煙のせいか、それとも女の思い出にか。眇めた目を煙の向こうで瞬いて、男はそのまま口を噤んだ。
 それが今の話とどう繋がるのか分からないから、俺も黙って手の中の缶を弄ぶ。本人はそれ以上話したくなかったのだろうが、俺が黙っていたからか、舌打ちしてまた口を開いた。
「他に好きな奴が出来たとかって——急に荷物も全部運び出して。出てっちまったのに騒いでもどうせ帰ってこねえんだろうなと思って、それ以上どうもしなかったんだけどよ」
 確かに、引き留めてほしければ先に荷物を運び出したりはしないだろう。男の判断は、多分正しい。
「丁度こっちの会社から声かかってたから、いい機会だし転職すっかなと思って、全部済ませたんだよ。そしたらあいつ、昨日の夜ふらっと部屋に来て、俺がこっち戻るっつったら転職先はどこだとか、どこに住むんだとか本当は元々こっちに女がいたんじゃないのかとか何だか知らねえけど根掘り葉掘り聞いてきて、東京行くなら先に言えとか言い出して泣くし、挙句の果てについて行くから結婚してとか冗談じゃねえよマジで、俺はあいつが出てってからも出てく前も女なんかいねえし風俗すら行ってねえし東京東京ってお前」
「息継ぎしろよ」
「うるせえよ」
 いざ話し出したら、溜まっていたものが一気に口に出たという感じだろうか。大きな溜息とともに煙を吐いた男は、瞼が痙攣するとか呟いて、左手の甲で乱暴に眼を擦った。
「それでイラついてんだ」
 どこか危うげな足取りは、そのせいだったのかも知れない、と腑に落ちた。
 例え恋人になったばかりの頃のように舞い上がってはいなくとも、一緒に暮らしていた人間が出て行くというのは多分応える。俺には正確に実感はできないが、実家を出た時と多少なりとも似通っているとしたら、生活の一部が切り取られる、そんな感じか。そこに欲求不満も加わるとなれば、イライラもしようというものだ。
「ほっとけよ、関係ねえだろ」
「関係はないけど——……あれ」
「何だよ」
「……名前なんだっけ?」
「……チーズよりよっぽど今更じゃねえ?」
 男は厳しい表情を緩めて吹き出し、煙草を灰皿に放り込んで思い切り笑う。笑うと意外に人懐こい感じになった。
 身体を捻って灰皿をサイドテーブルに載せた男のTシャツが捲れて脇腹が露わになる。同性の腹に興味はなかったが、細いくせに腹筋が割れているのが目に入った。
「腹」
「あぁ? 俺の名前は原じゃねえ」
「違う、腹、腹筋」
「は?」
「名前、何だって?」
「森島」
「モリシマさあ、痩せてんのに腹割れてんのな」
 俺は立ち上がり、ベッドのモリシマの隣に腰を下ろした。手を伸ばして腹を触る。モリシマは嫌そうに顔をしかめ、俺の手をさっさと払った。
「触んな、人の腹に。それに、腹筋てのは誰でも元々割れてんだよ」
「そうなのか?」
 初耳だ。
「だから、皮下脂肪が少なきゃ鍛えてなくても浮いて、割れて見えんの」
「へえ、知らなかった。じゃあ俺もそうなのかな、もしかして。今までは一応割れてると思ってたんだけど、腹」
 片手でワイシャツとTシャツの裾をズボンから抜き、モリシマの手を引っ張って、自分の腹筋に押し付けた。
「触って分かるかよ、そんなん」
 目を上げると、モリシマは眉を顰め、俺の腹筋ではなく顔を見ていた。
 俺はモリシマの手から指を離し、モリシマの言葉通りなら、脂肪が少なくて浮いているだけの奴の腹筋に再度指を滑らせた。その時、触れた指先から何かが香った。
 その時まで、おかしなことをするつもりは誓って——何に誓うのかはともかく——なかった。
 嗅ぎ慣れたそれに気付かなければ、その後の一幕は、幕が上がる間もなく終わったはずだった。

「これ何だ」
「腹だろ、俺の。だから触んなっつーの」
「腹なのは見りゃ分かる。そうじゃなくて」
 匂いが、と言いながら、俺は身体をずらして森島の腹に顔を近付けた。
「おい、何だよ。嗅ぐんじゃねえよ、勝手に」
「断ればいいのかよ。何つけてんの、トワレ」
 モリシマがトワレの名前を口にして、顔をしかめた。
「それが何だ」
「別に、ただ」
 自分の匂いが、他人から香るという妙な感じ。
 一番香りが強い部分が目の前にある。俺は衝動的に、腰骨の上の肉のない脇腹にゆっくりと歯を立てた。
「こら、何やってんだてめえ!」
 モリシマが平手で俺の頭を思い切り叩いた。衝撃で思い切り肉を噛んでしまい、モリシマは「痛え!」と喚いてもう一度俺の頭を叩いた。
「人の脇腹食ってねえで、チーズ食え、チーズ!」
「うん?」
「だから、オイ! やめ——」
 チーズより弾力のある肉を噛み、べろりと舐める。唾液に濡れた肌から立ち上る香りはやはり嗅ぎ慣れたものだ。シダーウッド、サンダルウッドとムスクの混じるラストノート。
 女のやわらかな肌とは違う。筋肉で張りつめた滑らかな皮膚が、舌で擽ると途端に強張った。
「あんた、俺と同じ匂いがする」
「はぁ!?」
 ひっくり返った声を出し、眉を吊り上げたモリシマの顔がおかしかった。
「だから、同じトワレ」
「ああそう、それはどうもよかったな! お揃いは分かったからだから退けって——」
 モリシマの肩に手を掛け、そこに体重を乗せるようにして起き上がった。俺とは逆に、押されたモリシマは仰向けにひっくり返る。モリシマをすかさず身体で押さえつけ、驚いたように薄く開いた唇に自分のそれを押し付けた。
「——……!!」
 俺を引き剥がそうとする手がワイシャツをきつく掴んで強く引っ張る。
 お互いの露出した肌を擦り合わせるようにして圧し掛かる。肌が直に触れているところが温かい。
 身体の間に手を差し入れて、モリシマの腹筋に指を這わせた。そのまま下腹へと指を滑らせ、下着のウェスト部分から僅かに指を潜り込ませる。体毛に指が触れるところで手を止めて、ゆっくりと円を描きながら指の腹で押し付けるように撫でてやると、合わせた唇の隙間から低く掠れた呻きが漏れた。
 ワイシャツが破れそうなくらい引っ張られたから渋々解放してやると、モリシマは荒い息をついてこちらを睨み上げてきた。
「酔ってんのか、あんた!?」
 中ジョッキ三分の二と、さっき一口飲んだ缶ビール。酔っていたという言い訳にはならない量だ。
「酔ってない」
「だったら余計わけわかんねえ——離せよ、何なんだよ」
 本当に訳が分からないといった様子のモリシマの顔に改めて目を向けた。
「マーキングしたいってのは、雄の本能なんじゃねえ?」
「何だって?」
「あんたが悪い」
「何が!? ふざけんなよ——」
「……俺の匂いなんかさせてっから」
 下着越しに触れると、意外なことにそこは硬くなり始めていた。
「ちょ……っ、てめえ!!」
 思い切り脇腹を殴られたが、悶絶するほどではない。
「ずっとしてないんだろ? キスだけでこんな反応してるんだもんな」
 モリシマが脅すように短く唸る。
「余計なお世話だ」
「女出てって一ヶ月っつったっけ? 欲求不満でイライラしてんのか」
「るせぇ……」
「出させてやるよ」
「——……!」
 下着の中に手を突っ込んで直に掴むと、モリシマは息を飲んだ。
「てめこの馬鹿勝手に掴むんじゃねえ!」
「触らせてください。断わった」
「そういうことじゃ……っ! あ!」
 掌で包むようにして動かしたら、モリシマは掠れた声を上げて俺の腕を押しやろうと力を籠めた。手を払い除け、覆いかぶさって耳を噛む。耳朶を舐め、首筋に喰いついたら手の中のモリシマの一物が顕著に反応した。
「……首弱いのか?」
「どこも弱くねえ!」
「嘘吐け」
「あ……や、やめっ、ちょ、マジで止めろってっ! ゲイなのかあんたっ」
「違う」
 首を噛み、舌を這わせて浮き上がった硬い鎖骨をしゃぶる。モリシマは俺の手の中で急速に形を変え、しわがれた声で激しく悪態をついた。