knowing

 会話している乗客は少ないのに、なぜか感じるざわめき。高く細いヒールがホームに降り立つ硬い音。吊革が軋む音。
 そんな音に混じって、どこ遠くから、アナウンスが聞こえる。
 井川はぼやけた頭でそう思った。

 よほど深く眠り込んでいなければ、自分が降りる駅のアナウンスが聞こえないことはない。覚醒が間に合わず、結果降り損ねたとしても。
 うっかり居眠りしていたそのときも、アナウンスは聞こえた。無意識に身じろぎし、気がついた。肩がやたら重たい。そして、あったかい。
 右の肩口を見下ろすと、知らない男の頭のてっぺんが見えた。井川から見えるほかの部分からすると同年代の会社員。
「すみません」
 声をかけてみたが起きる気配がない。
「すみません」
 もう一度頭のてっぺんに声をかけ、軽く肩を揺すってみた。声にもなりきらない小さな呻き声を発した男は、井川の肩口に額をこすりつけるようにして更に深く潜り込んでくる。
「おい、マジかよ」
 電車がホームに滑り込む。焦る井川を置き去りに、数人の乗客が立ち上がった。無理矢理立ち上がってしまえばいいのかもしれないが、この調子だと男は座席に倒れそうだし、さすがにそれは憚られる。
「なあ、ちょっと。起きてくんねえかな」
 今度は頭を押しやってみたが、もしや死体じゃないかと思うほど反応がない。そうこうするうち呆気なく乗降口が閉まって電車は発車した。
「何なんだよ……」
 今日は仕事で色々あって残業し、終電に飛び乗った。正直、不機嫌になる元気も残っていない。井川は肩——というか、もはや胸——に乗っかった頭を放り出して嘆息した。
 見慣れたホームが遠ざかる。知らない場所が目に映っているはずなのに、夜の景色はなぜだかどこも同じに見えた。
 ぼんやりしていたら停車駅のアナウンスが流れ、男がもぞもぞし始めた。井川の駅から三駅ほどか。どうやら降車駅らしい。男はようやく井川から離れたが、よほど寝ぼけているのか、誰かに寄りかかっていたという意識もないようだ。
 微かに酒くさいから酔っ払いだろうが、臭いがしないわりには相当深酒したらしい。男は項垂れたまま真っ直ぐ座ったが、立ち上がる気配はない。
「降りるんですか?」
 なにやら心配になって訊ねたが、反応しない。
「なあ、ここで降りんの?」
 もう面倒くさくなってぞんざいな口調で聞いたら、今度はこくりと頷く。女じゃないから放っておいてもいいだろうが、置いていくのも後味が悪いし、乗りかかった船だと思い腕を掴んで引き上げた。男にしては華奢な腕で、身体も軽い。これなら電車から降ろすくらいなんでもない。
 自分が酔ったときもそうだが、ホームに立たせてやればしゃっきりするに違いない。
 そう思ったのが、間違いだった。

 タクシーに押し込み、なんとか住所を聞き出し、オートロックを開けさせることができたのは奇跡に近い。奴——タクシー内で呼び方もあんたからお前になり、ここに至って完全にそういう扱いになった——を抱えるようにしてエレベーターに乗ったが、一旦降りた階はどうやら間違いだったと分かった。文句を言いながらまたエレベーターで下降するに至って、ようやく男が正気づいてきた。
「……あんた誰だっけ?」
「……」
「ここ住んでるわけじゃないよな?」
 不思議そうな顔で井川を見上げつつエレベーターを降りた。今度は正しい階だったらしく迷わず進んでいく。
「もしかしてバーにいた?」
「いや、電車で隣に座ってた。お前が俺にくっついて、顎の下にすっぽり入っちまって、しがみついて離してくんねえから俺は乗り過ごしてこうして酔っ払いの面倒見てる」
「うわあ」
 男は他人事のように驚いた顔で言った。
「俺今日はすげえ自虐的で自堕落な気分だったからさあ、知らないお姉ちゃんでもお持ち帰りしてやれと思ってたんだけど、お持ち帰りされたわけ?」
「自宅にな」
「は」
 男は気のない様子で短く笑い、意外に素早い動きでビジネスバッグの中から部屋の鍵を探し出す。井川は掴んだまま失念していた男の腕を離して一歩下がった。
「それじゃあ俺」
「今から帰んの? 電車ねえじゃん」
「タクシー乗るよ」
「勿体ねえだろ、泊まってけよ。なんか俺のせいみたいだし。名前聞いたっけ?」
「井川」
「イガワ」
 復唱した途端男はすごい勢いで部屋の中に駆け込んで行った。一瞬迷ったが、確かに給料日前にタクシー代が勿体ないと思って後に続く。知らない奴だが、危険そうにも見えないし。
 配置的に恐らくトイレであろうドアの向こうから、激しく嘔吐する音がした。

「大丈夫かよ?」
 男はさっきよりはマシな顔をしていたが、それでも若干ふらついていた。よろよろとソファに腰かけ、井川を見ると自分の隣の座面を叩く。
「どうぞ、お座りください」
「すみません」
 男は笑って煙草を取り出し、小さなセンターテーブルの上の灰皿を顎で指した。出かける前に吸ったのだろう、吸殻が三本、そのままになっている。
「吸うんだろ。どーぞ」
「どうも……名前聞いてねえよな?」
 煙草に火を点け、煙を吐き出しながら訊ねると、男はぷかりと煙の輪を吐き出して暫し放心した後、「カズイ」と言った。
 数井? 頭の中で字を当てたが、よくわからない。
「苗字?」
「あー、いや、苗字斉藤。斉藤和伊」
「ふうん。変わった名前だな」
「だろ? なんでイをつけちまったのか全然分かんねえよ。カズヤとかカズヒコとかでよくねえ?」
 まだ酔っているのか、微妙に回らない呂律で言って、小さく笑う。
「でもアレじゃねえ、サイトウって苗字多いから、同姓同名にならないようにって親心じゃねえの」
「ああそう、ほんとそうなんだよなあ。同じクラスとかに絶対何人かいるんだよ斉藤。だから俺はいっつも下の名前で呼ばれんだよ」
 悪い酒になるタイプなのか、酔っているわりにはちっとも楽しそうではない。吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付けて、カズイはのっそり立ち上がった。
「シャワー使うか?」
「借りていいのか」
「別に減るもんじゃねえし。着替えは……身長何センチ?」
「百八十ちょっと」
 井川が答えると、カズイはふうん、と気のない声を出した。
「十センチも違うってわけじゃねえし、俺のでもまあなんとなかなるな。タオルとか、入ってる間に出しとくから」
「家主差し置いてっていうのもちょっと気が引けんだけど」
「迷惑かけたの俺じゃん。それに俺明日の用意あるから」
 何の用意なのか知らないがそう言って、カズイはベッド下の収納をごそごそやり始めた。明日は土曜——日付が変わっているからもう今日——だが、出勤か外出の予定があるのだろうと勝手に納得し、親切に甘えて風呂場に向かう。
 ドアを開ける直前に振り返ったらカズイはでかい欠伸をしていて、シャワーを浴びて出てきたら眠っているかもしれないな、と何となく思った。

 シャワーから出たら、狭い脱衣所にはバスタオルと着替えが置いてあった。スウェットは足首が出たが、まあ穿けないこともない。髪を乾かして部屋に戻ると、意外なことにカズイはスーツ姿のまままた酒を飲んでいた。ローテーブルの上にはビールの空き缶がすでに二本置いてある。
「飲む?」
「ああ、いや、俺はいい」
「あっそう。イガワ、下戸?」
「違うけど。今日はなんか仕事で色々あって飲む気分じゃねえ」
「そっか」
 煙草を銜えて煙を吐き、次いでビールを呷り、カズイはどこか焦点の合わない目で井川を見た。落ち着かなくなるくらい凝視されてさすがに居心地が悪くなり身じろぎすると、ようやくカズイが目を逸らした。
「それよりお前そんな飲んで平気なのか? さっき吐いてたろ」
「出したら復活した」
「——まあ自分ちなんだから好きにすりゃいいけどよ」
「俺のさあ、別れた彼女がさ」
 カズイは唐突に言ったが、視線は手元の煙草に向けたままだった。
「俺の友達と結婚すんだよね」
「ああ——」
 よくある話といえばよくある話だ。そして大体、女を勝ち取る男は男の親友だかなんだかと相場は決まっているものだ。
「それ、すげえ仲いい奴?」
「うん」
 案の定、カズイはこくりと頷いた。
「明日結婚式。そいつらの」
「出んのか」
 明日の準備というのはそれだろう。そういえば多分明日は大安ではなかったろうか。カズイはビールの缶の縁を指で撫でながら出るぜぇーと間延びした口調で言った。
「それがさぁ、招待状、一昨日もらったんだよ」
「はあ? 一昨日?」
「うん。しかも新郎新婦揃って手渡し」
「どんだけ無神経な二人だよ、それ」
「俺を傷つけたくなかったんだってよ」
 カズイはへっ、と笑って煙を吐いた。
「だから、来てほしくて席は最初から決めてあったけど、でも俺が傷つくのも嫌で、迷ってたけどやっぱ出てくんねえかってさ」
「……」
「別に傷つかねえっての。あ、言っとくけど二股とか、浮気とかじゃねえよ」
 律儀に言うのは、別れた彼女を庇いたいだけなのか、本当に関係なかったのか、そこまでは今日知り合ったばかりの井川には分からないが頷いておく。
「俺と別れて暫くしてからあっちと付き合い始めたんだから、関係ねえじゃん? そりゃ、直後は気まずくて言えなかったってのも分かる。俺もさすがにすぐはちょっと落ち込んだもんな。でも俺と別れてもう一年以上経つんだぜ。もっと早く言やいいのに」
「……十分傷ついてるように見えるけど?」
 カズイは煙を吐き、煙草を持った手で前髪を乱暴にかき上げて井川に刺々しい横目をくれた。
「——ああ?」
「だから、別に恥ずかしいことでもねえだろ。付き合ってた女が結婚するんだから誰だって未練のひとつやふたつ」
 ぶん投げられた灰皿が激しい音を立てて床にぶつかり、灰と吸殻をまき散らして吹っ飛び流しの扉にぶつかって止まった。
「うるせえな!!」
 さっきまでのだるそうな顔をかなぐり捨てて、カズイは井川を睨みつけた。
「だから未練とかそんなんじゃねえよ! 二人とも俺のことよく知ってんのに、俺を信用しなかったから腹が立つっつってんだ!」
 憤然と立ち上がったカズイはシンクの中に煙草を突っ込み捻り潰し、拳で安っぽいステンレスを殴りつけた。べこりと情けない音がする。俯けたうなじに浮き出た頸椎の出っ張りが、彼をひどく華奢に見せていた。
「——喜んだのに」
 シンクの縁を握り締めるカズイの手の甲に筋と血管が浮いている。
「言ってくれれば、喜んだよ。駄目になったけど、好きだった女と、すげえ仲いい奴だぜ? そりゃちょっとくらい悔しいって思ったかもしれないけどちゃんと祝える。それなのに、俺が平気じゃないだろうって、そんなふうに勝手に——」
 くるりと身体を反転して、シンクに凭れたカズイは顔を上げた。顰めた眉の下の目は酷く険しくて、同時にどうしようもなく弱って見えた。
 こんなのは間違ってる。
 煙を透かしてカズイを見ながら、井川は小さく舌打ちした。
 結局お前を信用しなかった二人のために、平気だとか言いながら、結局傷つくなんて間違ってる。
「……だからか? 酔っぱらってどっかの女でもお持ち帰りして憂さ晴らししようって?」
 井川が短くなった煙草を手に立ち上がると、カズイは皮肉っぽい顔で笑った。
「なんか、平気なんだぜ馬鹿野郎って、見せつけてえなと思ってさ。いや、別に実際見せるわけじゃねえけど、俺の気持ちの中でってこと。馬鹿みてえだよな? でも酔ってたし、つーかまた酔ってっけど」
 カズイの前で足を止め、俯き加減の顔を暫し眺めた。他人に立ち入られて許せる距離を超えて踏み出すと、カズイが気づいて顔を上げる。肩を掠めるように手を伸ばすと、カズイは呟くように「何だよ」と言った。
「お前が灰皿ぶん投げちまうから」
「ああ——」
 シンクの中に吸殻を捨てる。井川から目を逸らし、足元に向きかけた顎を捕まえ顔を上げさせた。
「何」
 カズイは低い声でそれだけ言ってゆっくりと瞬きし、井川の顔をじっと見た。
「どっちでもよくねえか?」
「だから、何が」
「どっかのお姉ちゃんをお持ち帰りできなかったっつったよな。けど、俺に持ち帰られてんだから、別にそれでもよくねえか」
 怒りか、酔いか、悲しみか。何でなのかは知らないが、カズイの瞳は濡れていた。潤んだ瞳を覗き込みながら半開きの唇に親指で触れる。見つめ合ったまま歯列を割って口の中に指を押し込む。指の先が舌に触れた途端に、カズイがびくりと肩を揺らし、下がろうとしてシンクに阻まれた。
「井川」
 なんでこんなことをしてるのか。勿論、当然のようにそう思う。
 井川は殊更ゆっくりカズイのワイシャツのボタンを外し、襟で隠れる部分を吸い上げた。
「な、井川っ、ちょ……」
 押しやろうとする腕に構わず首筋を舐め回しながら脚を割り、自分の右脚を捻じ込んだ。シンクに押し付けられて逃げ場のないカズイの上体が反る。片腕を回して背中を支え、鎖骨にやんわりと噛みついた。
「い——あ……っ」
 上ずった声を上げたカズイがぶるりと震える。両手で尻を掴み、持ち上げるように引きよせて、腿でカズイの股間を擦り上げる。もがく身体を抱き締め顔を上げると目が合った。上気した首筋から頬の色、濡れた眼尻。酔っているかもしれないが案外正気に見えるその瞳が、尻から腰を撫で上げながらカズイ、と呼んだら不意に蕩けた。
「や——っ」
「ボタン留めりゃ見えねえし」
 囁いて頬に触れると、戸惑うように目を伏せる。耳元に口づけ、耳朶を噛み、カズイ、と囁くと溜息を漏らした。
「二次会はノーネクタイにして見せつけてやればいいんじゃねえか?」
 うなじを捕まえ引き寄せて唇を塞ぐ。角度を変えて奪う度カズイは震え、井川の腕に縋りついて、甘く濡れた喘ぎを漏らした。

 ワイシャツの襟を整え、シャワー浴びてくれば、と言って押しやったら、カズイは何の抵抗も見せずに離れていった。何をやってんだか、とまた思い、自虐的な気分に浸りながらソファに移動し煙草に火を点ける。銜えたところで灰皿のことを思い出し、溜息を吐きながら立ち上がって飛び散った吸殻と灰を片付けた。
 仕事で腹に据えかねることがあって一日中虫の居所が悪かったから、これは一種の八つ当たりかも知れない。それとも、それもまた言い訳か。
 敢えてそれ以上何も考えずに煙草を吸い終え、用を足して、用意されていた枕と上掛けを掴んで、テーブルを足で押しやりソファの横の床に転がった。ソファは井川には小さすぎるし、家主がいる以上ベッドは論外だ。
 あんなことをしておいて泊めてもらうのもどうかと思うが、今更出ていくのもまたどうかと思う。
 シャワーの水音を聞きながら目を閉じる。カズイの閉じた目蓋が不意に浮かんで舌打ちしながら目を開けた。井川はもう一度ゆっくり目を瞑り、眠気が訪れますようにと祈りながら溜息を吐いた。

 借りた服をどうするか暫く悩んで、結局ビジネスバッグに突っ込んだ。住所は分かっているのだから、届けるなり預けるなりすればいいだろう。肩越しにベッドの上の膨らみに目をやって、結局そのまま部屋を出た。
 カズイがシャワーから出てきたときには眠っていたから、あの男がどんな顔で床に転がる闖入者を眺めたのか、怒っていたのか気まずかっただけなのか、それは結局分からない。世の中には知らずに済むなら知らないほうがいいことだって山ほどある。ちっとも納得できないが納得したふりをして、井川は結局タクシーを捕まえ真っ直ぐ自分の部屋に戻った。
 また数時間うとうとして、飯を食って、学生時代の友人に呼び出されて部屋を出た。来月結婚するというその男の未来の嫁は、近くの店で衣装合わせをしているらしい。時間潰しに呼び出された上散々のろけ話を聞かされて、結婚ラッシュだなとうっかり呟き、誰が結婚すんだとしつこく聞かれて辟易した。
 そうして息子の父親みたいに彼女に会って二人と別れ、浮かない気持ちで歩いていたら名前を呼ばれた。都合のいい——いや悪いのか——偶然なんかそうそうあるわけないが、目の前に立っているそれは、偶然の塊みたいなものだった。
「なんでここにいんの」
 カズイはほとんど昨日と同じに見えた。
 スーツは黒っぽく、ネクタイはシルバーとアイボリーのストライプ。ビジネスバッグの代わりに紙袋を持っている。だが、違いはそれだけだ。昨日のように少し酔っ払った顔をして、カズイは井川の前に突っ立っていた。
 カズイの背後には結婚式の招待客らしき人間がぞろぞろと連なっていた。彼らはレストランらしき建物から出てくるから、そこが会場だったのだろう。
「なんでって……人と会ってて」
「そっか」
「借りた服、クリーニングして返すから」
「え? ああ、いや、それはいいんだけど——」
「斉藤、中山の連絡先、あとでラインしとくなー」
 背後から誰かがカズイを呼んで、カズイは振り返っておお、と返す。
 捩じった首元。ワイシャツに隠されて見えないそこに何があるか思い出し、井川はカズイから目を逸らした。淡いグリーンのワンピースを着た女と連れがカズイと擦れ違い、連れの男がカズイを見て立ち止まった。
「あれ、おい、斉藤? 中で原田といずみちゃんが探してたぞ」
「え? ああ、うん——」
 みんなカズイって呼ぶんじゃなかったのか。疑問が浮かんだと同時に人込みの一番向こうから「和伊!」と呼ぶ声がした。
 カズイの顔が一瞬引き攣る。井川が声のしたほうに目を遣ると、井川と背格好がよく似たタキシードの男が、レストランの入り口に立っていた。
「和伊、お前どこ行くんだよ? 二次会来てくれるんだろ? いずみも——」
 ぎこちなく振り返り、カズイは強張った笑顔で男に手を振った。
「原田、俺今日は帰るわ。今度ゆっくりお祝いしようぜ! いずみにも言っといてな」
「でも、和伊——」
「悪い、用事あるから」
 嘘か。それとも自覚がないのか。
 カズイ、と呼ばれて潤んだ瞳を思い出す。身代わりなんてご免だし、本人に自覚がないなら尚悪い。そう思ったのに、咄嗟にカズイの二の腕を掴んでいた。原田と呼ばれた男は井川の指に掴まれたカズイの腕から井川の指に視線を移し、自分に似た雰囲気の井川の顔に目を据えて、なんとも言えない表情を見せた。
 そんな顔をするくらいなら、自分で掴めばよかったのだ。
 多分二人が二人とも、思い至らなかったと、気づきもしなかったと言うのだろう。だったらそう思っていればいい。気付かないほどのものだったのだと思って忘れてしまえばいい。
 自分には関係ないはずなのに猛烈に腹が立ち、自分で掴んだくせに振り払うように手を離した。
「用事って何だ」
「別に——」
「……俺んとこ来るか」
 カズイは戸惑ったような、諦めたような顔をして、井川を見つめて頷いた。

 自宅のベッドに押し倒し、多分下ろしたてのネクタイを乱暴に引き抜いて床に放った。何時間か前に自分がつけた鬱血の上に歯を立てる。カズイは井川の髪を掴んで仰け反り、こちらがぞくりとするような声を上げた。
 どうしておとなしくついてきたのかとか、それから原田というやつはお前にとって何なのかとか、そもそも原田にとってお前は一体何だったのか、とか。
 訊きたいことはいくらでもあったが、井川はカズイの口を塞ぎ、ワイシャツのボタンを外してTシャツの下から手を突っ込み脇腹に掌を滑らせた。
「あ、井川、やめ」
「やめねえよ、今更」
「待てって——あっ!」
 ベルトを外して細身のパンツを引き下ろし、下着の上から食らいついた。
 腰骨を噛み、噛んだところに唇で触れながらカズイ、と呼んだら、一層切なげな声が上がる。下着の中に手を突っ込み掴み出して根元まで銜えると、カズイは喉を反らせて身体を震わせた。
「……なあ、何されるかわかっててついてきたんだろ?」
「え——?」
「子供じゃねえんだ。昨日あんなことされて、想像もしなかったなんて言うなよ」
「分かんねえよ、お前の言ってること」
 井川から目を逸らしたまま低い声で言い、井川の頭を押しやろうと力を籠める。それでも、拒否と呼ぶには、突っ張った腕の力は弱かった。
「そうやってずっと自分も誤魔化して?」
「だから何言ってんのか……っ!」
 散々舐め回してカズイを啜り泣かせ、身体をずり上げ耳朶に噛みつきながら言ってみる。
「入れてえ」
「意味がわか——」
 顎を捕まえ無理矢理こちらを向かせ、その目を覗き込む。昨日と同じ、酔っ払いと呼ぶには正気すぎる目が、井川を見据えて瞬いた。
「お前とセックスしてえ。そういう意味だ。言われたこと、ねえのかよ」
「女はいちいちんなこと——」
「男にだ」
 男としたことなんかないと怒ったように吐き出したくせに、カズイは井川のものに深く貫かれ、眉間に皺を寄せながらもびっくりするくらい艶めかしい声を上げた。
 これも嘘か。それともどれも嘘ではないのか。分からないことに苛立って、井川は押し込めていたものを荒っぽく引き抜いた。
「目ぇ閉じんなよ」
 抜かれる刺激に声を上げたカズイの顔を掴んでこちらに向ける。きつく閉じられていた目蓋が開き、潤んだ瞳が動いて井川を捉え、咎めるように細められた。
「俺は誰かの代わりにされるなんてご免だからな」
 カズイの目を見つめたまま、抜いたものを深く押し込む。
「誰がお前に入ってんのか、ちゃんと見ろ」
「あっ——くそ、やめろって……」
「誰が入れてんのか、言えよ」
 口元で囁いたら、カズイは歯を食いしばって低く呻いた。
「言いたくねえのか?」
「違——そうじゃね……!」
「じゃあ何だ」
 どういう意味なのか、涙目で首を振るカズイは今にも泣き出しそうな顔で違う、と言った。
「何が」
「え——?」
「何が違うって? カズイ——」
「あっ、あ——あぁ……っ」
 もう一度訊ねたが答えはない。
 抱え上げた脚を折りたたみ、圧し掛かるようにして何度も奥まで突き入れる。名前を呼ぶ度中をひくつかせながら身悶えるカズイは、意味のあることは何も言わず、ただ甘ったるい声で喘ぐだけだった。

 

「明日、用事は」
「……別に予定は入れてねえけど」
 何次会まであるかわかんなかったし、と呟くカズイのうなじに齧りつくと、肉のない骨ばった背中がびくりと震えた。
「ふうん」
「なんで」
「色々あんだろ。泊まってくなら、俺が出かけるときの鍵のこととか」
「——ああ」
 嗄れた声で低く答えるカズイの顔は見えない。
 何を考えているのか、終わった後も身体を預けもせず、かと言って離れて行こうともせず、痩せた背中は井川の腕の中にあった。
 本当に男との経験がないとしたら、余程あの男に惚れていたのか。名前を呼ぶ度蕩けたカズイはひどく乱れ、井川を入れたまま何度もいった。今まで抱いたどんな女より扇情的で、今まで抱いたどんな女より井川を見ていなかった。
 今は何も語らない背中が快感に震える様子を思い出す。どんなふうに背を撓らせ、どんな顔で身悶え喘ぐかは知ったけれど、それは知りたいことのほんの端っこなのだと今更思った。
「何か用事あるなら帰るし……てか別に泊まる必要もねえし」
「……用事なんかねえから泊まってけよ」
 うなじに鼻先を擦りつけながら囁くと、カズイの身体が僅かに弛んだ。どうしてなのか、訊いたら答えはあるだろうか。
「なあ、斉藤」
 肩口に噛みつきながら、多分その他大勢がそう呼ぶ名を呼んでみる。カズイは一瞬身体を強張らせ、少しだけ硬い声を出した。
「——何だよ、急に」
「知りてえなと思って」
「はあ? 何を」
「カズイって呼ばなきゃ感じねえかどうか」
「——」
 どうせこの先もお前に触れることもない誰かの残像の向こう側からなんて呼びたくない。そう思ったが、答えないカズイの背中を眺めていたらあっさり気が変わった。
「やっぱいい」
 もう一度うなじに噛みつきながら手を回して薄い身体を抱き寄せた。
「カズイ」
 カズイの身体がびくりと震える。
 俺が上書きすればいい。
 カズイ、と呼ばれて思い出すのが、俺の顔になればいいだけだ。
「カズイってどう書くんだ」
 腕の中の身体をひっくり返して訊ねてみる。
「それから、年はいくつだ。勤務先はどこで趣味は何で、好きな食いもんはなんで、喫煙すんのは見れば分かるからいいけど、あと何か先に訊いたほうがいいことはあんのか」
「何なんだ、いきなり色々——」
「何となく。お前面白そうな奴だと思って」
「はあ?」
「電車で寝ながらくっついてきて俺に運ばせといて、そんで突然吐いたり灰皿投げたり泣いたり飽きねえよ」
「いや泣いてねえから」
 呆気に取られたような顔に触れ、顎を捕まえる。唇が触れるくらいまで近づいて、カズイ、と囁く。震えた唇が誘うように薄く開いて、艶めいた吐息が漏れた。
「なあ——お前も俺を知りたくねえか?」
 間近で覗き込んだ濡れた目は、真っ直ぐ井川を見つめていた。