君のすべて 2

「おはよう。早いな」
 背後から人事の畠山の声がした。振り仰ぐと、暑さに顔をしかめた畠山がまさにそびえ立っている。畠山は桑島の同期だが、百八十も後半に近い長身は、座ったままで見上げると首が痛くなってしまいそうだ。
「書類たまっててさ。経理につつかれてんだ」
「ああ……あれか? 例のタレントの件で」
「そうそう。結構時間取られててなー。どうしても色々後回しになって」
 畠山は桑島の膝の上に鞄を置き、上着を脱ぎ始めた。
「うわ、重てえ。何入ってるんだよ、お前の鞄」
「この間買った単行本、読み掛けだから。そういえば薮内も昨日早く来て伝票片付けてたな」
「そうか」
 脱いだスーツを左手に提げ、鞄を持ち上げて畠山は一瞬周囲を見渡した。総務には年配の女性部長がいるが、薮内の回りはまだ誰も出社していない。
「お前ら、うまくいってんの?」
 社内で唯一——というか、当人たちと薮内の妹を除いて唯一——桑島と薮内のことを知る畠山はそう訊いてきた。
「……うまくいってるって、どういうことを言うのか分かんないんだけど」
「そういう答えになるってことはうまくいってないのか」
 眉を顰め、畠山は長身を屈めた。
「あのな、お前のツラ、ここんとこすげえ暗いぞ。俺が気付くんだから薮内も気付いてんだろ。余計なことだけど」
 そう言って、畠山は自席へ向かった。
 桑島は、手元の領収書に目を落とし、畠山の言葉を反芻して息を吐いた。

 朝からたまっていた書類をやっつけ、経理に領収書を提出し、桑島は昼休みが終わる頃に席を立った。客先へ届け物をして、チェーン店の丼物屋でようやく昼飯にありつく。大して美味くもない牛丼を食い終え、席を立ったところで携帯が鳴った。
 液晶に表示されたのは薮内のフルネーム。こうして画面を見るたびに、薮内ってこういう名前だったっけ、と改めて思う。考えてみれば自分は薮内のことをあまり知らない。それは自分の腰が引けているゆえの怠慢だと分かってはいるのだが。
「出先ですか?」
 薮内の案外低い声が耳の中に響く。桑島は店の自動ドアを潜って街路樹の下の日陰に立った。直射日光は濃いネイビーのスーツの背中を炙るように強い。
「うん」
「今休憩中なんですけど、どうも会議が長引きそうなんですよ。それでアポを順繰りずらしてもらってるんで、俺今日はビデオ屋回れないかも知れません」
「それは仕方ないだろ。自分の仕事優先でいいって。今日は俺、一人で探してみるから」
「すいません」
 桑島はどこかほっとしている自分に後ろめたさを覚えつつ頷いた。足早に通り過ぎていく会社員たち。誰もが忙しそうで、目的ありげに歩いている。俺も他人から見るとあんなふうに見えるのだろうか。
「いいよ。じゃあ俺もこれから客先だから」
「桑島さん」
「ん?」
「ちゃんと昼飯食いましたか」
「食ったよ、牛丼」
「また野菜不足なメニューですね。本当放っておいたらそんなんばっかりなんだから」
 薮内の甘やかすような物言いに、胸が詰まる。
「外歩きまわるんだから、水分もちゃんと摂ってくださいよ」
「分かってるよ」
「桑島さん?」
「何だ」
「夜、寄ってもいいですか」
「……いいよ」
「じゃあ、終わったら一応電話します。途中で落ち合えるかも知れないっすから」
 薮内は、特別感情を伺わせない冷静さで「後で」と告げると電話を切った。桑島は陽射しの下に踏み出した。食べたばかりの牛丼が、突然胃にもたれ始めた。

 昼に食った牛丼のせいか、それとも他に原因があるのか。
 桑島は胃の重さをもてあましながらどうにか一日を終えた。ビデオショップは仕事の合間に二件寄ったが収穫はなく、期限は迫るばかりだった。新谷はそろそろ諦め顔で、薮内が退社するときには自席で大きな溜息を吐いていた。
 八時はまだ宵の口だ。これから帰宅するサラリーマンで人通りが増えるであろう歩道の端を、駅に向かってぼんやりと歩く。真正面から何故か全力疾走してきた若い男を避けて仲通りに一歩踏み込み、踵を返し掛けて薄汚れた看板に目がとまった。ビデオ、とだけ記載のある看板は毒々しいピンク色。電話帳には載っていなかったが、どう見てもハリウッド大作を置いている店ではない。
「……一応寄るか……」
 ポケットの中の携帯電話をもう一度確かめ、桑島はどぎつい看板へと足を向けた。

 ピンク色の看板が出ている店は、この手の店の例に漏れず、外からは店内がよく見えない作りの薄汚い建物にあった。ガラスのドアの向こうは棚の側面が見えるだけで、店員の姿も客の姿もない。もしもどちらかがいるとしても、外から見えないところにいるのだろう。
 桑島がドアを押し開けると、いきなり女性の盛大な喘ぎ声が響いて驚いた。別に悪いことをしているわけではないのだが、つい左右を見回して身構える。店の右隣は何と読むか分からない横文字の名前の店舗だが灯りが付いておらず、左隣は鍼灸院と書いた硝子戸の上から鉄格子に似たシャッターが下ろされていた。
 いかにもアダルトビデオ──しつこいようだが、ビデオテープではないのにどうしてビデオというか疑問だ──の音声が響く店内は他に物音がない。取り替えたばかりなのか、病院を思わせる蛍光灯の白い光がやけに眩しい。店内が煌々と照らされているのが却って棚に並ぶDVDパッケージのいかがわしさを助長する。
 すごくいい、いっちゃう、と棒読みの台詞がしつこく反復され、ここのところそういう台詞に食傷気味の桑島は耳を塞ぎたい衝動とどうにか戦った。
 店の奥には店員がいるに違いない。棚の間を縫って、間口の割には奥行きのある店内を進んでいく。思った通り一番奥には即席のカウンターがあり、その奥には男が一人座っていた。
 キャスター付きの抽斗のようなものに合板を渡しただけのカウンター。その向こうのパイプ椅子に男が一人だらしなく座り、足をカウンターの上に乗せている。その男が、近づいて行く桑島をまじまじと見つめていた。
「すいません、あの」
「諒」
 突然名前を呼ばれ、桑島は驚いて固まった。
 ピアスをしている。最初に目に入ったのはそれだった。特別大きくも奇抜でもない単なるピアスに反応したのは、日常生活でピアスをした男性と接することが少ないからだろう。
 ピアスをした高校生が信号待ちの交差点で目の前に立ったりはするが、話をすることはない。仕事で付き合いのあるクリエイティブ職には数名いるが、仕事をしているときに相手のアクセサリーなんか見ていない。薮内は仕事内容に夢中になるあまり、アクセサリーどころか顔すら記憶にないのではないかとまでいうが、さすがにそれは言い過ぎである。
「諒だよな? 桑島諒」
 男がもう一度口を開き、桑島は男のピアスから顔に注意を戻した。
 決して華奢ではないが手足が細く、全体的に尖った印象だった。顔つきは男っぽいが、くっきりとした二重で睫毛が濃く、女の子にもてそうだ。店内がクーラーで肌寒いからか、Tシャツの上に長袖のチェックのシャツをひっかけている。
「ええと……失礼ですが」
「ひでえな、お前……。優しそうなツラして、案外そうでもない奴だとは思ってたけど」
 顔をしかめた男が顎を上げて前髪を払う。すべて露わになった顔に、桑島はようやく男が誰だか思い出した。
「曾山!」
「思い出すの、おっせー……」
 その男——曾山は不機嫌な顔で鼻を鳴らし、一瞬後には満面の笑みを浮かべて見せた。