君のすべて 1

「なかなか見つかりませんねえ」
「昔のものだからなあ」
 桑島はそう言って息を吐いた。隣で薮内が小さく呻く。
「……嫌いじゃないっすけど」
 桑島はうん、と頷き、やたらと重く感じられるビジネスバッグを持ち直す。
「腹いっぱいだな……」
「ほんとです」
「次、どこ?」
「三丁向こうの、ネットカフェの隣」
「暑いな」
「暑いっすねえ」
 夜になって尚サウナのような湿気が籠る夜空の下をとぼとぼと歩きながら、二人は揃って重い溜息を吐いた。

 事の発端は、ある人物の驚異的な記憶力と親切心である。
 桑島と薮内の同僚に新谷という男がいる。市の実行委員会が主催し、各企業が協賛する大掛かりなイベントの仕事を取ってきた新谷は、今売り出し中の女性タレントをイメージキャラクターに設定したキャンペーン企画を提案した。
 タレントの女性は二十代後半。元々女性向けファッション誌の読者モデルから芸能界入りし、ドラマの端役などから徐々に活動の幅を広げた。先日ゴールデン枠のドラマの準主役を演じたことから人気が出て、今は数本のCM、バラエティ番組のレギュラーを持っていた。
 年齢のわりにあどけない顔つき、モデル風というよりはお嬢様っぽい雰囲気を売りにしている彼女は、市の担当者のお眼鏡にかなったらしかった。新谷の企画はすんなり通り、CMやポスターの製作も滞りなく進んでいた、そのさなかのことであった。
「俺、この子見たことある気がして仕方ないんっすよ」
 新谷を捕まえて、デザインプロダクションの男はそう耳打ちしたという。
 昔、この女性をアダルトビデオの中で見た気がする。彼女の口元の黒子が当時振られたばかりの恋人と同じ場所にあったため、強烈に印象に残っているのだ、と。
 タレントは二十代後半だが、出演は未成年の頃と思われた。問題の作品はどう考えてもDVDではなくてビデオの時代に作られている上、プロダクションの男は主演女優が誰だかまったく覚えておらず、入手は困難と思われた。
 別にアダルトビデオへの出演が犯罪というわけではないし、若い頃はお世話になったのだから、桑島自身——勿論新谷も——それはそれで立派な職業のひとつと思う。だが、クライアントがそうだとは限らない。しかも相手は官公庁、事と次第によっては面倒なことになるのは目に見えていた。
 彼女の役柄は主演の友達の妹とかなんとかで、肌を見せるシーンはない一瞬の登場だったというが、確認せずに信じるにはリスクがありすぎる。
 泡を食った新谷は自力で探そうと試みたが、一人でどうにかなるようなことではなかった。会社をあげて捜索すれば案外すぐに見つかるのかも知れないが、今の段階では内密に探すのが一番いい。困り果てて頭を抱える新谷とうっかり喫煙所で一緒になった薮内が、先輩を見捨てられずに桑島を巻き込んだのは、昨日の昼の話である。
 それから一日半の間、桑島と薮内、新谷と同僚三名、合計六名でのアダルトビデオ捜索大作戦が始まった。インターネット上での検索を任された組もあるが、桑島と薮内は実店舗組だ。
 電話帳から拾い出した怪しげな試写室つきのレンタル店やら、アダルト専門の中古販売店。今時そんなもの絶滅しているだろうと思ったのに、軒数は意外に多い。回るだけでもかなりの労力を要する作業で、しかもタイトルすら定かでないビデオを見つけるのは不可能に近かった。分かってはいるが、他人事と放り出すのも気が引けて、既にお姉ちゃんの全裸の大股開き写真くらいでは瞬きすらする気にならない二人であった。
「難しいよねえ」
 長く伸ばした髪を一本にくくった男は、セルフレームの眼鏡を押し上げ、カウンターに肘をついただらしない格好で言った。黄色いウエスタンシャツの肘を捲り上げていて、その下には彫り物が見える。と言ってもヤクザのするそれではなくて、ファッションの一環だろう。くっきりした二重の、間が離れた彼の目はパグ犬を連想させた。
「ここ最近のものならともかくね。こういうのって使い捨てみたいなもんだし……余程の名作でないと残らないからねえ。タイトルと主演女優くらい分かると、ちょっとは違うと思うんだけど」
「それが、どっちも分からないんですよ」
 桑島は今日何度目かになる台詞をまた口に乗せた。薮内は疲れた顔をしてパッケージの並ぶ棚を見ているが、既に気力がないのは明らかだ。
「ごめんね。役に立てなくて」
「いえ、お邪魔しました」
 男に会釈し、背を向ける。ドアを開けると男が、お兄さんたち、と声をかけてきた。薮内は聞こえなかったのか店を出て行ってしまったが、桑島は立ち止まって振り返った。人懐こい笑みを見せ、男が手に持ったジャケットを振っている。
「自分の買いに来るときは寄ってよ、安くするから。ダウンロード販売じゃ買えないすごいの見つけてあげるからね!」
「はは。それは有難いですね」
 思わず振り返そうと持ち上げた手を引っ張られる。ありがとうございましたあ、という声を背中でききながら、桑島はつんのめるようにして店を出た。立ち止まって手を振りほどき、薮内の顔に目を向ける。
「安くしてくれるってさ」
「は?」
「今度買いに来るか?」
 ネットカフェの看板が照らす薮内の顔は、怒ったような表情を浮かべていた。
「俺だけじゃ十分じゃないんですか、あんたは」
「え? は?」
「……もういいです」
「何が? ちょ、薮内! 待て、おい!」
 歩き始めた薮内を追いかけながら、桑島は顔を俯け小さく、しかし長い溜息を吐いた。薮内の台詞の意味が分からなかったわけではない。勿論。当然だ。
 だが、分からないふりをする方がいいような気がしたし、そうするほかなかったのだ。

「コーヒーでも飲んでいくか」
「いいんですか」
「何だよ、駄目って言ってほしいのか」
 シートベルトを外しながら言うと、薮内はまさか、と言って笑い、エンジンを切った。
 ウエスタンシャツの男の店を出て、最寄りの一軒を見たところでビデオショップ巡礼は諦めた。薮内は翌日の早朝からポスター撮影の立会と打ち合わせがあったし、桑島もショップめぐりのせいで仕事が溜まっている。できれば始業前に出社して片付けたい書類仕事が幾つかあった。
 本当はすぐにでも寝たいと思ったが、帰りのことを考えてわざわざ車で通勤してきた薮内に悪いとも思ったし、薮内だって一休みしたいだろうと思ったのだ。
「こんな時間になっても暑いって最悪っすね」
「部屋も暑いぞ。倒れんなよ」
 鞄の中を探って鍵を取り出しそう言うと、薮内は仕方ない、と言いたげに片方の眉を上げた。ドアを開けて明かりを点ける。予想通り部屋は蒸し風呂、桑島は慌ててクーラーのスイッチを入れ、冷蔵庫から紙パックに入ったアイスコーヒーを取り出した。
 薮内はソファに腰を下ろし、掌で顔を擦りながら灰皿を引き寄せた。
「吸っていいですか」
「……どうぞ」
 薮内との関係は良好だ。職場の先輩、後輩としては——と内心で続けていることを知れば薮内は傷つくだろうし、だから、桑島も何も言ってはいなかった。
 滅多に煙草を吸わない桑島が、薮内のために用意した大きめの灰皿。その意味をお互いに考え、量りかねている。
 桑島は、薮内に対して好きだと口にしたことがない。意地になっているわけでも、照れているわけでもない。確信が持てないから言えずにいる。三十過ぎて恋愛中に軽い嘘のひとつも吐けないということではないが、女の子相手というわけでなし、そんな嘘に意味があるとも思えなかった。
「明日も暑いんだってな。天気予報で言ってた」
「ええ? ああ、そうっすね」
 薮内が真っ直ぐな目で桑島を見つめ、微かに首を傾けた。
「桑島さん?」
「……何だ」
 肩越しに冷蔵庫を振り返ったのは、氷を取り出そうとしたせいもあるが、何かを誤魔化したかったせいもある。ソファから立ち上がった薮内は、身体をかがめて煙草を灰皿に押し付けた。ゆらめく煙が薮内の横顔を這い上がる。心臓がひとつ鼓動を飛ばした気がして、桑島はそっと唾を飲み込んだ。
 ゆっくりと近づいてきた薮内は、桑島の目の前まで来て立ち止まった。薄いグレイのストライプが入ったワイシャツに濃紫と黒の渋いネクタイ。細身だがクラシックな仕立ての黒いスーツが、薮内を実際より大人びて見せている。黙っていれば年下だというのも分からない。近づいてきた指の先に目を奪われつつ、桑島はそんなことを考えていた。
 気温が高いせいか熱くなった指の先がうなじに触れる。熱い、と思った時には薮内の腕に抱き締められていた。身じろぐと、薮内の首筋に鼻をこすりつける格好になる。微かな香水の香りと人肌の匂い。薮内の手が伸び、桑島のうなじを撫でた。
「薮内……」
「帰ります」
 耳元で囁く声に、知らず指の先が痺れた。薮内の肩の向こうに寝室の入り口が見えている。今朝、自分が脱ぎ捨てた寝巻き代わりのスウェットが、ベッドの足もとに引っかかっているのが目についた。
「コーヒー」
「気持ちだけでうれしいから」
「送ってもらって茶のひとつも出さないなんてお前」
「何言ってんです」
 薮内の身体が微かに揺れる。多分笑ったのだ、と思うと何故か耳が熱くなった。
「コーヒーなんてどこでも、いつでも飲めますよ——長居したら結局二人とも寝不足になる気がするから、帰ります」
 どうして寝不足になるんだ、などと訊く気はない。何となく緊張した桑島の身体を一度抱き締め、薮内は身体を引いた。
「おやすみなさい、桑島さん」
「——ああ、おやすみ」
 薮内は大股で部屋を横切り、ドアを閉めながら振り返ってひとつ笑うと出て行った。少し経ってからかかった水平気筒のエンジン音。遠ざかるその音に、桑島は小さく溜息を吐いた。
 取り出した紙パックのコーヒーを片付けかけて思い直し、グラスを取り出して氷は入れずにコーヒーを注いだ。
 薮内と一緒に居ると安心するし、甘やかされるのは好きだ。薮内の妹の求めに応じて彼と別れるのは嫌だと思ったし、顔を見ると、抱き締められると心拍数が上がる。男同士のセックスという、桑島の人生においては異常事態と呼んでいい行為にもここのところ少し慣れてきた。
 だというのに、これが好きということなのか、それだけが未だに分からないのだ。
 女性相手でないから戸惑っているだけで、自分にとって薮内は特別なのか。それとも本当はこれは恋などではなく友情なのか、それが判断できずに辛かった。身体の関係を持って尚、自身の気持ちすら読めないというのはどういうことなのか。
 このまま成り行きを見て何がいけない。そう囁く自分と、そんないい加減な気持ちであいつの人生を潰すのか、と囁く自分。どちらも本心なだけに、二進も三進もいかなくなっているのは自覚していた。
 そのせいで、薮内への態度がまた曖昧になっているのも分かっている。薮内にしてみれば、ようやく受け入れられかけたのに裏切られたような、そんな気分になってもおかしくない。基本的に聡い男だし、そうでなくても自分はポーカーフェイスとは言い難い。桑島の逡巡を薮内はとうに察知しているに違いなかった。
 先程の一歩引いたような薮内の態度を思い返し、桑島は我知らず奥歯を噛み締めた。
 コーヒーのグラスを片手に、寝室へ向かう。五分寝坊したせいで整えてもいないベッドの端に腰かけてコーヒーを啜る。スーパーで安く買ったパック入りのアイスコーヒーは苦くて、やけに薄かった。