一歩近づけば世界が揺れる 【side:薮内桑島】

「あれ」
 桑島は目を開け、天井を眺めながらぼんやりと呟いた。一瞬寝坊したかと思って心臓がひとつ跳ね、次の瞬間朝ではないと認識する。幾らカーテンを閉めていても、流石に朝はこれほど暗くない。
「大丈夫ですか?」
 いきなり掛けられた薮内の声に突然現実に戻らされた桑島は、思わず勢いよく身体を起こした。
「はいっ?」
「……はいって何ですか、はいって……」
 薮内は苦笑して桑島を眺めていた。ベッドの向かい、パソコンの載った机に灰皿を置き、折りたたみの黒い椅子に腰掛けて煙草を吸っている。食事の後、セックスの後、寝起き、仕事で煮詰まっている時。喫煙者と言うのは男女問わず、同じようなタイミングで煙草が欲しくなるらしい。桑島自身はたまに数本吸う程度なせいかそうでもないが、薮内は見事、パターンに嵌っている。
「辛いとこ、ないすか」
「はあ、まあ、その、何だ。……ありません」
 そんなことを訊かれても、女じゃあるまいし一体なんと言ったらいいのか、桑島は心底困惑しておかしなことを呟いた。薮内はおかしそうににやにやしていて、そのやたらと大人びた顔つきに更にどうしていいか分からなくなる。おまけに気づけばまだ薮内は素っ裸で、それは当然といえば当然なのだが、ああもう神様仏様、と桑島は口の中でぶつぶつ呟いた。
「桑島さん、何もごもご言ってるんですか。言いたいことは面と向かって言ってくださいよ」
「下着穿いて頂けますか」
「ああ、こりゃ失礼しました」
 桑島が棒読みで言うと薮内は更に笑いを大きくしつつ、それでも床の上に散らばった衣服を拾い上げて身につけ、桑島のものは軽く畳んで今まで座っていた椅子に載せた。
「後でね」
 手を差し出した桑島を一瞥し、煙草を消すと薮内はベッドの傍まで来て、桑島を見下ろした。
 見つめられると先ほどまでのことが不意に甦り、動悸がした。羞恥とか後悔とか、——薮内との行為はまだ片手の指にも満たない回数で、慣れたとも諦めたとも言えないだけに——様々な感情が去来する。
「桑島さん」
 薮内は身をかがめ、桑島の頭頂部に口付けた。長い指が髪を撫で、うなじから裸の背に下り、背骨を辿りながら移動した。
「くすぐったいからやめろよ、薮内」
「桑島さん、ちょっと寄って」
 薮内は手を離すといきなりベッドに上がってきた。狭いベッドに無理矢理潜り込むと桑島の横に身体を横たえ、腕を回す。しっかりと抱き寄せられ、桑島からは目の前にある薮内の喉元しか見えなくなった。
「やっぱり気持ちよくないですか。恥ずかしい? 痛くて辛い? 後悔してますか」
 畳み掛けるように吐き出される台詞に、口を挟む余地はない。疑問形で話しているのに、薮内は独白しているようだった。顔が見えないから分からないが、どこか緊張した物言いは、仕事のミスを報告する時の声によく似ている。先程までは甘い声で桑島の名前を囁いて、自信ありげに桑島を翻弄したくせに、こういうところは結局いつもの『可愛い後輩の薮内』そのものだ。
「俺、滅茶苦茶幸せです」
 薮内は低い、怒っているような声で呟いた。

 桑島の心臓が、また跳ねる。
 どういうわけか喉元までせり上がった熱い塊に、桑島は身を硬くした。後悔していないと言ってやれない自分が厭わしかった。だが、だったら以前に戻りたいかと問われれば、そんなことはまったくないと思うこの不可解さ。果たして何と伝えればいいか、それすら今の自分には見えては来ない。
「薮内」
「何です?」
「……いや」
 紡ぐ言葉が見つからず、眼前の喉に口付けた。薮内が息を詰め、桑島を抱く手が僅かに緩む。
「心臓がさ、こう、ものすごく早くなってな」
 桑島が呟くと、薮内が身体を離して顔を覗き込んできた。若者らしく精悍なその容貌に、言った傍から耳の奥に血が巡る音がする。
「お前が、近づくと。世界が揺れる」
 薮内は何も言わず、黙って桑島の目を見据えていた。桑島は目を逸らし、薮内の口元へ視線を彷徨わせる。自分を散々いいようにして乱れさせた唇は、今は引き結ばれて僅かに色を失って見えた。
「後悔はしてる。羞恥心も、迷いもあるし、不安もある。でも、お前が一歩俺に近づいただけで、俺の世界は、……変わる」
 薮内の指が伸びてきて、桑島の頬を包む。撫でるように動く掌に頬を押し付け、桑島は呟いた。
「それだけじゃ、駄目か」
 再び抱き寄せられ、薮内の震える身体に押し付けられた。喜んでいるのか、失望しているのか、泣いているのか。桑島には分からない。分かったところでどうしていいのか分からないのだから同じことだ。
 薮内が桑島の肩に唇を押し当てた。明らかに目的を持って動く唇に、抗議しかけて桑島は口を噤んだ。今、触れることで何かが伝わるのならそれもいい。

 一歩近づけば、世界が揺れる。
 親愛か、恋愛か。触れられるたびに湧き上がるのは愛しさなのかそれとも単なる欲情か。
 耳の奥で、頭蓋の内部で鳴り響く心臓の音が、これは何だ、どうにかしたいどうにかしてくれと視界を揺らすほどに桑島を責め立てる。
 薮内が、一歩近づくその度に。