knowing 2

 ぼんやりしていたら突然顎を掴まれた。
「──何考えてんだ、和伊」
「別に……っ」
 舌全体を擦り合わされるようにされ、ぬるりと滑るその感触に身体が震えた。投げ出されたままの和伊の指に指が絡みつく。忙しない呼吸の合間に、和伊、と低く呟く声が混じる。
 こいつはとてもキスが上手い。
 どんだけ経験を積んでるんだか、と呆れると同時に野郎同士として密かに尊敬したりもする。だが、そのエロいキスを食らわされる立場になってみたら、なるほどこうすりゃいいのかなんて考えている余裕があるわけがない。
「んっ──」
 キスだけでこんなふうになるなんて、井川と寝るまで知らなかった。
 初めてしたときからずっと。
 気持ちはどうあれ、井川に抱かれて身体は素直に喜ぶし、そんなに親しいわけでもないのに、素っ裸で井川の横に転がっていると妙な安心感がある。
 井川の肩に縋って舌を絡めながら圧し掛かる身体に身体を擦り付けて荒い息を吐く。ワイシャツの裾を手早く引っ張り出され、Tシャツを捲られてへそに井川の舌が触れた。
 あちこちに吸い付く唇に気を取られていたら下着ごとスーツのパンツを引き下ろされて、下腹に唇の感触が落ちた。
「井川……!」
 答えない井川の掌に膝裏を押し上げられ、尻の狭間に吸い付かれたから思わず声を上げて身を捩った。
「やっ──ちょっと待、てって、あっ!」
 濡れた舌が入口をこじ開け身体の中に触れたのを感じ、和伊は期待に甘い呻きを漏らして仰け反った。

「スーツ、皺になったな」
 井川は銜え煙草で和伊の着てきたスーツをハンガーに掛けながら、呑気に言った。幸い付着物はなかったものの──奇跡と言っていいと思う──上だけ着たまま一度目を終えたせいで、上着の背から裾は酷い皺になっていた。
「誰のせいだよ、馬鹿」
「俺とお前だ」
 素っ気なく答え、下着一枚の井川はベッドに戻ってきて腰掛けた。特別鍛えてはいないらしいが、学生時代陸上部で、今もランニングが趣味だとかいう井川の身体は引き締まっている。
 和伊に向けた背中も筋肉のかたちが明確で、人体の美しさとでもいうべきものがあった。和伊はそこに刻まれた瑕疵──いくつかの真新しい引っ掻き傷については気づかなかったことにして、足を伸ばして井川の腰のあたりを軽く蹴った。
「煙草くれ」
「ん」
 井川が差し出して寄越したのは和伊のものではなかったが、この際ニコチンでさえあれば何でもいい。
「どうも」
 和伊が一本銜え火を点ける間、井川は和伊の顔を見ていたが、和伊が目を向けるとさりげなく目を逸らした。
 整った横顔。顔がそっくり、とは思わないが、骨格が似ている。身体は井川の方が筋肉質だろうが、やっぱり元の骨組みが似通っているから、着衣のシルエットはそっくりだった。
 煙に紛らわせて溜息も吐き出し、和伊は紫煙を透かしてこっそり井川を眺めながら、井川に似た男とその妻に思いを馳せた。

 二ヶ月ほど前の話だ。和伊の元恋人であるいずみと、所謂親友である原田が結婚した。
 正直悔しさもあったけれど、二人が付き合い始めたのは和伊といずみが別れた後の話だし、どこかの知らない野郎に取られるよりはずっといいと本気で思った。
 結婚式の招待状が来ないことでも傷つきはしなかった。共通の知人が多いから、興味本位で色々聞かれるのは和伊だって嫌だったからだ。
 直前になって二人が直接招待状を手渡して寄越したが、それだけなら、別によかった。
「傷つけたくなかった」なんて言われるまでは。
 ちゃんと祝える。喜べる。
 大好きな二人の晴れの日を、どうして祝わずにおれようか。小さな嫉妬と羨望は確かにあるが、そんなのは当たり前のことだろう。それを、まるで俺が二人を恨んでいるかのように──俺を信じられないかのように。
 そんなふうに腹を立て、一人で飲んで泥酔し、電車で居眠りした和伊を部屋まで送り届けてくれたのが井川だった。
 原田によく似た、通りすがりの知らない男。
 人間関係や他人の心の機微に取り立てて鈍感だと思ったことはない。それでも、自分が原田に何がしかの感情を持っていたなんて、井川に指摘されるまで気が付かなかった。
 自分を誤魔化していたのかもしれないと考えてみたが、もしそうだったのだとしても、今更真実を知ったところで仕方がない。
 いずみを好きだったことには嘘はなかった。そうでなければ何年も一緒にはいられない。
 それでも、そのつもりで振り返れば、いつからか自分の一部が原田にもまた向けられていたのだと腑に落ちもした。
 原田を思わせる別の男に触れられ、同じように名前を呼ばれて昂るのは紛れもない事実。男に何かされたいなんて想像したことさえなかったのに、一旦触れられてしまえば、それは明確な欲望になって和伊の身体を拓かせた。
 井川に抱かれて乱れながら原田を想う。
 それはどこか現実離れした感覚だった。原田の笑顔を思い出す。和伊、と呼んで笑うときの屈託ない顔を。そうしながら身体に食い込み、目も眩むような快感を注ぎ込むのは井川だとはっきり認識しているのだ。
「灰が落ちる」
 井川の声で我に返り、和伊は差し出された灰皿の上に穂先の灰を落とした。
「悪ぃ……」
「いや」
 小さな事実と観察から、和伊本人より余程的確に状況を見抜いた井川とは、それきりにはならなかった。
 連絡先を交換したのがどうしてか自分でもよく分からない。結局は誘いが来れば飯を食いに行き、ホテルか井川の部屋に行く。井川の部屋に行くのは大抵今日のように金曜で、朝まで呆れるくらい何度も抱かれて、気が向いたときに帰るまでほとんど服も着ないで過ごす。
 あの日、お前を知りたいと井川は言った。実際に、井川はセックスするだけでなく、もっと話したそうな顔をする。だが、和伊はそれを察知する度、どうしていいか分からなくて顔を俯け、俺を知りたくないかという質問にもまた、答えていなかった。
「なあ、お前、次の金曜の夜って空いてるか?」
 井川がスウェットに足を突っ込みながら訊ねてきた。和伊がぼんやりしている間に、井川は煙草を吸い終えていたらしい。
「──今んとこ何もないと思うけど、何で」
「うちの会社が協賛した舞台のチケットがあんだよ」
「舞台ってなに。喋ってたと思ったらいきなり歌い出すみたいなやつ?」
「演劇って言ってたけど、歌うかどうかは知らねえ」
 外国人のように肩を竦め、Tシャツを頭からかぶる。途中で喋ったせいで、井川の声はくぐもっていた。
「顧客用に買ってたチケットが余ったからって上から貰ったんだけど」
 一緒に行かないか、と言われると思って構えたら、井川は全然違うことを言った。
「俺はそんなの興味ねえし。やるから、お前、誰かと行かねえか? 女とか」
 さっきまで散々和伊を啼かせていたくせにあっさり女と、とか言い出す井川にちょっと面食らう。とはいえ、別に付き合っているわけでもなし、当たり前と言えば当たり前か、と思い直した。
「俺だって興味ねえ。お前が女と行けばいいんじゃねえの?」
「寝ちまうよ、そんなん。そんで文句言われるとか俺はご免だ」
「要らねえからって押し付けんなよ。捨てりゃいいだろ」
「協賛してっからなあ。空席あると……仕方ねえ、誰か彼女持ち探して行かせるか。なあ、ラーメン食うか」
 あっさり話題を切り替えた井川に訊ねられ、和伊は素っ裸のままベッドから這い出した。
「食う。先にシャワー浴びてくる」
「分かった」
 冷蔵庫を開けながら井川が答え、和伊はすでに勝手知ったるバスルームに足を向けた。
 どうせ飯を食って暫くしたらまたやるだろうに何度もシャワーを浴びるのも水の無駄だなと思いつつ、身体に染みついた井川の匂い──体臭や香水のように明確なものではないが、ふと香る気配みたいなもの──が気になって、和伊は短い廊下を無駄に急いだ。

 和伊は大企業ではないが、中小企業というには若干規模が大きい会社で営業をしている。同年代の友人に比べて特別待遇がいいわけではないが、悪くもない。
 それに比べて原田は大手都市銀行勤めで将来有望株。おまけに高身長でイケメンとくれば、いずみが原田に乗り換えたのも仕方ない──というのが友人たちの見解のようだった。
 勿論面と向かって和伊にそれを言う馬鹿はいないが、言葉の端々から読み取れるし、同情心でいっぱいの顔を見たら、そんなことは丸分かりだった。
「あのな、島村」
「ん? 何?」
「お前のそのツラすげえむかつく」
「えっ」
「かわいそうな奴だから一所懸命慰めてやらないとなみてえなツラで俺を見んな馬鹿野郎」
 居酒屋で会うなり言ったら、友人の島村は暫し押し黙り、吹き出した。
「斉藤らしいなあ」
「うるせえよ、どういう意味だ」
「いや、すげえしおたれてたらどうしようって。けど、斉藤なら案外そんなんでもねえのかなとか思ってたりもしててさ」
「何かしらねえけど失礼だな、お前は。あ、すみませーん」
 店員を呼び、ビールと食い物をいくつか注文し、和伊は壁に背を凭せ掛けた。ベンチシートの背が壁のようになっていて、個室ではないが、背後の客は気にならない造りだ。
「で、どうよ?」
「何が?」
 煙を吐く和伊を見ながら加熱式煙草を吸いつけ、島村は首を傾げた。
「まだ落ち込んでるか?」
「いや──まだって言うか、最初から落ち込んでねえけど」
「意外とそんなもんか」
 店員が来てビールと突き出しの小鉢を置いていなくなる。
「そりゃ聞いたときはマジか! って思ったけどなあ……」
「結婚?」
「ああ、いや。じゃなくて付き合うって」
「原田から聞いたんだろ」
「そう。いずみと付き合っていいかって。付き合う前に俺の許可を取るとかさ……俺はいずみの父ちゃんかよって」
「原田ってそういう奴だよなあ」
 島村は頷いて小鉢に箸をつけた。
「学生んときからさ、一見傍若無人っぽく見えんのに実は全然だよな」
 島村の言う通りだ。原田は背が高くて顔つきがシャープなせいかきつい性格だと誤解されがちだが、実際は優しいし、人懐こくて穏やかだ。勿論ズルだってするし馬鹿もやるが、根は真面目、もっと言えばクソ真面目な男だった。
「でも、じゃあ最近会ってねえの?」
「会ってねえよ。多分まだ俺がへこんでると思ってるだろうし」
 和伊は店員が運んできた鶏の唐揚げに目を落として島村から目を逸らした。
 本当は、原田からは何度も連絡が来ていた。つい昨日きたメッセージにも早いところ新婚旅行の土産を渡してしまいたいとか書いてあったが、どっちにしろ今は会いたくなくて返信すらしていなかった。
「そっかあ。じゃあやっぱ違う奴か」
「え?」
 顔を上げた和伊に、島村は唐揚げをもぐもぐやりながら言った。
「いや、先週の金曜見かけたんだよな。駅前のあの店にいたろ? なんだっけ──」
 島村は和伊が井川と入った居酒屋の名前を言って続けた。
「俺もいたんだぜ」
「同じ店にいたのか。気づかなかった」
「会社の送別会で。結婚して旦那の転勤で辞める人がいてさ」
 ししとうの串にかぶりつきながら頷く。島村は右手で煙草を持っているが、加熱式煙草は銜えられないから、童顔と相俟って両手にスプーンとフォークを握りしめた子供みたいに見えた。
「奥の小上がりにいたから遠くてさあ。斉藤はこっち向いてたから、俺はたまたま振り返ったときに気づいたんだけど。で、連れの奴、最初原田だと思ったけど、なんか原田と話してるにしては斉藤の顔がちょっと違う感じだしさ」
「違わねえだろ顔は。俺の顔は取り換え可能じゃねえし」
「そういう意味じゃねえってー」
 島村は手を伸ばしてししとうがひとつ刺さったままの串を皿に置いた。
「原田とだったらもっと気安い雰囲気だけど、ちょっと緊張感あったからさ」
「まあ、そんな親しい相手じゃねえしな」
「え? そうなの?」
 不思議そうな顔をした島村は、ホルダーからヒートスティックを抜き、ホルダーを充電器に突っ込んだ。加熱式煙草のそういうところがいちいち面倒臭そうだと思うのだが、ガジェット好きの島村はその手順も楽しいらしい。
「親しそうに見えたけど」
「……だってお前さっき」
「いや、だからそれは、何て言えばいいかな──そりゃ原田といるときとは違うけど、別によそよそしくしてたよなって意味じゃなくて」
 言葉を探すように宙に視線を彷徨わせ、チキン南蛮と書かれた短冊の上で視線を固定すると、島村は店員呼び出しボタンを押した。
「なんだよ! なんか考えてるかと思ったらメニューか!」
「や、考えてたよ!? あっ、すみません」
 登場した店員にチキン南蛮を注文した島村は再度ししとうを取り上げた。
「うまく言えねえんだもん」
 島村は串を上下に振りながら「なんてーのかなあー」と間延びした声で言った。串の先のししとうがゆらゆら揺れて、催眠術でもかけようとしているのではと疑いたくなった。
「向こうが女だったら、てかデカかったから無理だけど、もしそうだったらアレだ、お似合いだぜっていうとこだな。原田とお前見ててもそんなん思わねえし」
「──意味がわかんねえ」
「俺も」
 うははと笑った島村はししとうを口に突っ込み、チキン南蛮が運ばれてきたのでビールのお代わりを頼んで何だか分からないけどまた乾杯し、話は別の友人の話題に移り、仕事の愚痴を垂れ流して時間は過ぎた。
 馬鹿話をして笑っている間は他のことは忘れていたが、それでもやっぱり頭の隅っこで、島村の言ったことが気になっていた。
 男と女だったらお似合いだ?
 だから一体なんだってんだよ。俺も井川も女じゃない。
 苛立ちを腹の底に無理矢理押し込め、和伊は新しい煙草を銜えて火を点けた。

 島村は飲み進むうち酔っ払って、結婚して辞めるという件の同僚へのほのかな恋心をぶちまけ始めた。
 彼女は年上で、仕事では厳しくておっかないくらいだが、毎日持ってくる手作り弁当がうまそうだとか、ふとした時の笑顔がかわいいとか。
 今更そんなことを言ったところで仕方ないだろうと思ったが、本人も分かっているからクダを巻いているわけで、和伊は溜息を吐きつつも、そうかそうかと頷いておいた。
 他人の恋愛話は無責任に楽しめるものではあるが、今はそういう話題は食傷気味で、結局和伊の酒はそこから進まなくなった。
 楽しくなかったわけではないが、何となく疲れた。飲み直す気にもなれず、駅に足を向けたところで呼び止められた。
「和伊」
「……あー」
 振り返ったら、井川が立っていた。上背があるから黒っぽいスーツがよく似合う。いつも通り、どこか冷めたような表情の井川の少し後ろには、同年代の女性が立っていた。
「彼女?」
 付き合っている子がいるとは聞いていなかったが、一応訊ねた。他意はなかったが、井川はちょっと眉を寄せ、しかし何事もなかったように首を振った。
「違う。同じ会社の──この間話したろ、舞台のチケット」
「ああ」
「結局全部捌けなくてな。せめても空席はなくせって業務命令が出て、見に来た」
「そうなんだ」
「二人で来たわけじゃねえぞ。あっちにまだ何人かいて、これから飲みに行こうかって」
「……なあ、井川。言い訳しなくたって別にいいんだぜ?」
 和伊が言ったら、井川は眉間に皺を寄せて数秒黙り込み、待ってろ、と言って女性のところに戻って行った。
 同僚だという女性と話している井川を見ながら、和伊はさっきまで一緒にいた島村の言ったことを思い出していた。
 井川は背が高くて、すらりとしている。背が高いと案外姿勢が悪い奴が多いのだが、井川は──原田もそうだが──姿勢がいい。
 まっすぐ伸びた背、その上に乗っかっているすっきりした輪郭の顔。少しだけ斜めに物を見ているような、冷たさを感じる一歩手前で踏み止まっている雰囲気。
 どう見たって、女にもてないとは思えない。例え今はフリーだとしても、その気になれば彼女なんていつでもできそうだ。
 そんな男と俺がなんでお似合いなんだ、と思う。どちらかが女だとしたって、似合いだとは思えない。
 ぼんやりと足元に目を落としたら、靴に汚れがついているのに気が付いた。タクシーに乗せる間際、ぐだぐだに酔った島村がよろけて和伊の足を踏んづけたので、そのときついた跡だろう。そう思ったら、島村が肩に寄りかかりながら言ってきた戯言が不意に蘇った。
「和伊はぁ、いずみちゃんじゃないほうがいいと思う!」
「──ああ?」
 一瞬何の嫌味かと思ったが、島村はそんな奴ではない。案の定、酔っ払いは恐縮し切った顔で「ごめんな気に障ったらごめんな」と頭を下げ、間近で顔を押し付けているので、和伊の肩に何度も頭突きすることになった。
「あのねえ、いずみちゃんはふわふわしすぎだろぉ。原田はいいんだ、アレは包容したいタイプだからな。お兄ちゃんキャラだから、彼女がふわふわでもいいんだ」
 確かに、原田にはそういう、言ってしまえばお節介一歩手前なところがある。
「でもなあ、和伊はなあ、お前は甘やかせるタイプじゃねえのよ、自分も他人もなあ。だから、いずみちゃんじゃないほうがいい! もっとこうがつーんと、ぶつかっちゃうようなのがいいの!」
「……」
「あーっ、俺も誰かに優しくされてえよう! 三国さぁん!」
 憧れの女性の名前を呼んで半べそになりながら、島村はタクシーで運ばれて行った。
 他人にも自分にも厳しいなんて、そんなこと思ったこともない。
 そうだとしても、だから井川がいいなんて──いや、島村はいずみのことに言及しただけで、井川について何か言ったわけではないのだ、と思い直した。
「和伊」
 物思いに耽っていたから、名前を呼ばれて少し慌てる。顔を上げたら井川がすぐ傍に立っていた。
「あれ、会社の人は? 飲み行くんだろ」
「別に特別行きたいわけじゃねえから、断った」
「でも──」
「お前といるほうが楽しい」
 直球を食らって打ち返せず、和伊はそのまま固まった。井川は目を細め、口の端を曲げてちょっと笑った。
 飯は島村と食っていたから、飯を食う井川に酒で付き合って、和伊はちょうどよく酔っていた。
 だから、同じタクシーに乗せられて、先週来たばかりの井川の部屋で降ろされても、まあ別にいいかと半ば投げやりに考えた。
 ドアを開けるなりキスされながら脱がされてシャワーに連れ込まれたときも、濡れたままベッドに押し倒されたときも、まあいいかと思っていた。
 井川に揺すられている真っ最中にベッド脇から着信音が聞こえたときも。
 井川がスマホを取り上げ、お前のだった、と呟いて画面をこちらに向けて寄越したときも。
 それが誰からの着信か認識するまでは、どうでもいいと思っていた。

 液晶画面に表示されていた名前は原田だった。
 こんな時に限ってアプリの無料通話を使わず電話をかけてきたもんだから、表示は電話帳登録されたフルネームで、和伊の交友関係なんか知らない井川でも誰だか分かる。
 とは言え、別に分かったところで関係ないか、と思ったが、そうではなかった。
 井川は、その辺に置くかと思ったスマホを突然持ち直して素早く画面をスワイプし、和伊が頭を載せている枕の端に無造作に置いた。
「和伊?」
 いきなりすぐ傍で原田の声が聴こえて混乱する。スピーカーにされたのだと気がついて、慌ててスマホに手を伸ばしたら井川に手首を掴まれた。ベッドに縫い留めるように押さえつけられ、思い切り押し込まれる。
「う……っ!」
 奥を突かれて和伊の口から我知らず上ずった悲鳴が溢れた。
「あ、あ──っ!」
「和伊? おい、大丈夫かっ?」
「──ん、ぁっ」
 濡れてそそり立つものを擦り立てられて、嚙み殺し切れない喘ぎが続けて漏れる。
 井川が出し入れする度粘つく音が立ち、まさかそんな微かな音まで拾いはしないだろうと思うのに、もし原田に聞こえたら、と考えただけで頭が真っ白になった。
「和伊──」
「悪いな、取り込み中だ」
 井川の低く威圧感たっぷりの声が響き、原田の声がぶつりと途切れる。
 通話が切れたと思い込んで気が緩んだ。中を抉られ迂闊にも甘ったるい悲鳴を上げた瞬間また原田の声がして、和伊はぎくりと身体を強張らせた。
「……あんた誰だよ!? 和伊に何」
 今度こそ通話の切れたスマホの電源を勝手に落とした井川は、薄っぺらな筐体を和伊の枕元に物も言わずに放った。
「井──おま、信じらんね……!」
 井川を睨みつけた自分の目が多分潤んでいたのだと、もっと、ずっと後で気が付いた。
 セックスの真っ最中の声を他人に──それが原田であろうとなかろうと──聞かれた羞恥に思わず涙が出てしまった、というだけだ。それ以上の意味はなかったけれど、多分井川はそう思わなかったのだということも、その時には分からなかった。
「井川……?」
 圧し掛かってきた井川は酷く傷ついた顔をしているように見えたが、錯覚だと思った。唐突に激しく抜き差しを再開されて、考える余裕はなくなった。
「ああ、あ、あぁ──っ」
 尻の奥を捏ね回され、同時に勃ち上がったものを擦られて淫らに濡れた声が漏れる。腹が立って堪らなかった。何に──誰に対してかは分からない。考えを纏められるだけの理性もなくて、湧き上がる怒りを全部まとめて井川に押し付けた。
 滅茶苦茶に乱れて、何だったら今から原田に電話して、全部聞かせてやろうかとかやけくそ気味に思いながら派手に喘ぎ、卑猥な言葉で井川を煽った。
 そうして散々快楽を貪り我に返ってみたら、誰に腹を立てていたのかはますます分からなくなっていた。

 電源を入れたスマホの画面は、着信履歴とメッセージのプレビューで上から下までびっしり埋まっていた。
「すげえ」
 横から画面を覗き込んで寄越した井川が銜え煙草のまま、唇の端を曲げて笑う。
「うるせえな。余計なことしやがって」
「鳴ってたら出るだろ、普通」
「出ねえよ!」
 怒鳴りつけたが井川はどこ吹く風で、コンビニに行ってくると言ってふらりと出て行ってしまった。さっき見た顔はやはり気のせいだったのだろう。
 もしかして気を遣ってくれたのだろうかと気づいたのは井川が出て行ったすぐ後だったが、和伊はそれから暫くの間、ぼんやりと、ライトが消え真っ黒くなった液晶を眺めていた。
 メッセージのプレビューは、「大丈夫か」とか「どこにいるんだ」の連投で、他には何も書いていなかった。最後のほうは諦めたのか「連絡くれ」が数回。それから暫くしてから思い出したようにまた電話が立て続けに何本かあって、それきり連絡は入っていなかった。
 和伊は子供のように抱えた膝にスマホを載せて溜息を吐き、両手で乱れた髪の毛を撫でつけた。向こうから見えるわけではないけれど、何となく。
 もう一度長い溜息を吐きながら着信履歴を開いてタップすると、まだワンコールも終わっていないのではないかと思うくらい素早く原田が応答した。
「和伊!?」
「あ? ああ、うん、俺」
「よかった──」
 原田は長い息を吐いた。何故そんなことを言われるのかは分からないふりをして、和伊は殊更明るい声を出した。
「何が? 今、家? いずみは? 元気か?」
「俺は家にいる。いずみは旅行のお土産渡したいって、友達と会ってる……恵子ちゃん、知ってるだろ。それより」
 原田は和伊が知っていようがいまいがどうでもいいと言わんばかりに話をぶった切った。
「お前今どこにいるんだ」
「いや、どこって……友達んとこだけど」
「友達って誰だよ、さっき電話に出た奴か? 全然出ねえし、つーかスマホ電源落ちてるみたいだし、なんかあったかと思って心配したんだからな!」
「ごめん──別に何もねえから」
 畳みかけてくるのをなんとか遮って口を挟んだが、原田に一蹴された。
「いや、顔見てちゃんと大丈夫だって分かるまで駄目だ。信じねえからな」
「顔なんか見なくたって分かるだろ」
「お前んとこ行くから。何時に帰れる」
 普段は人当たりがよくて穏やかなくせに、一旦こうなったら頑固なのは昔からだ。泊めてくれといえば勿論井川は泊めてくれるだろうが、明日以降もずっと原田を避けていくわけにはいかない。
「分かったよ。分かったけど、俺今留守番してるから」
「留守番?」
「友達んとこって言ったろ。その友達が出かけてるから留守番してんだよ。帰ってきたら……多分一時間半か二時間くらいしたら戻るから」
「分かった」
 原田は一転言葉少なにそれだけ言って電話を切った。原田に会うのが嫌なわけでは勿論ないが、気が重い。のろのろとバスルームに向かい、長めに入って出てきたら井川が部屋に戻っていた。
 ペットボトルから水を飲んでいた井川は、何か言いたそうだったが結局止め、テレビをつけた。かなり音を絞ってあるから、画面に映っているお笑い番組にはまったく意味がない。
 横暴と言っていいほど強引なところもあるくせに、井川はこういう気遣いをすることが多かった。最初の印象が強いから意外に思うが、考えてみたら、和伊は井川のことをまだほとんど知らない。
「帰る」
 着替えながら言うと、井川はテレビ画面から目を離さないまま頷いた。井川のことをよく知らないとは言え、怒っているわけではないことくらい分かる。
「……なあ」
「何だ」
 やはりこちらを向かない横顔をぼんやり眺めたまま訊ねた。
「何で俺に構うの」
 ようやく正面から見る顔は、どんな感情も浮かべてはいなかった。銜えた煙草の先から立ち上る細い煙が井川の頭上の空気に溶けて消えていく。
「前に言わなかったか?」
 低い声を聞きながら、原田の結婚式の後、初めて井川の部屋に来たときのことを思い出した。和伊が面白いから、と井川は言った。だが、どう考えても今の状況が井川にとって面白いとは思えない。
「聞いたけど、でも」
「──俺の勝手だろ。嫌なら嫌って言えばいいじゃねえか」
 放り出すように言った後、井川はまたテレビのほうを向いてしまった。それ以上何を訊いていいのか分からなくて、和伊は口の中でじゃあ、とか何とかもごもご言って、井川の部屋を後にした。

 部屋に戻って着替えたところでドアホンが鳴った。煙草を銜えて火を点けかけていたので、灰皿に戻してから立ち上がってモニターまで行く。
 狭い部屋でたったそれだけの行動をする短い時間にもう一度。まったく忙しないことだ、と思いながらモニターを見て、応答せずに直接玄関の鍵を開けた。
「よう」
 和伊がドアを開けた途端、原田は和伊を上から下まで無遠慮に眺め回した。勿論よれたスーツはとっくに脱いで、普段着に着替えている。
 スウェット素材のプルオーバーとデニム。お洒落ではないが、別に汚くもないはずだ。だとしたら、見ている理由はひとつだった。短い通話時間だったが、それなりに聞こえたに違いない。
 そんなことには気づかない──そもそも電話のことなんか忘れたふりで、和伊は素っ気なく言った。
「何じろじろ見てんだよ?」
「……いや」
「上がれば」
 三和土に突っ立ったままの原田を促す。冷蔵庫から二リットルのペットボトルの緑茶を持ち出し、グラスを二つ取って床に腰を下ろした原田の向いに座った。
 目の前に紙袋が差し出されたので、グラスを置いて受け取る。
「これ、お土産」
 おーありがとうな、開けていいか、いずみは元気か?
 言おうと思っていたことをひとつも言えていないうちに、原田は間に挟んだローテーブルに乗り出すようにして和伊の顔をじっと見つめた。
「本当に大丈夫か? 和伊」
「だから、何が。大丈夫じゃなさそうに見えんのかよ」
「……いや、見た目は別に」
「じゃあいいじゃん。なあ、それより新婚生活はどうだよ?」
「うん」
 緑茶を受け取った原田は頷いて、まるでアルコールを呷るようにお茶を飲んだ。
「うんって……あのさあ、原田」
 自分のグラスにも緑茶を注ぎながら、和伊は原田に声をかけた。
「別に遠慮しなくていいぜ? 俺、お前といずみには幸せになってもらいたいしさ、そりゃまだちょっとは悔しい気持ちもあるけど、でも──」
「電話に出た友達って誰だよ。結婚式の日に一緒にいた奴か」
 和伊が言うのを丸ごと無視して訊ねる原田の顔を見て、来たか、と思ったが、想定内だ。和伊は何でもない顔で問い返した。
「そうだけど、それがどうかしたか?」
「誤魔化すなよ、和伊」
 原田の声も、顔もひどく強張っていて、まるで怒っているように見えた。全部ではなくても、ある程度聞こえたなら何となく想像はついているはずだ。だが、だからと言ってあけすけに言えるものでもないし、そもそも原田がどこまで本当のことを知りたいのかだって分からない。
 本当のことは時に人を傷つける。子供の頃から嘘はいけないと教えられるが、嘘を吐かなければ誰かを傷つけることにもなると学びもする。
 だが、果たしてどこまでが優しい嘘と呼べるのか。一体何を基準に、誰を基準に考えるのが正解なのか。
 正解なんかないと分かる年になって随分経つのに、それでも誰かが決めた指標があればいいのにと、どうしようもないことを考えて溜息を吐いた。
「言いたくねえ」
「何でだよ」
「何でって……」
「何で言えねえんだよ? ちゃんと教えてくれ」
「……お前、マジで言ってんの?」
 唇を引き結んで険しい顔をする原田を見て、和伊は不思議な気持ちになった。
 こいつは一体どうしたいんだ。そんなことを訊いたところで、どんな答えが返ったところで、誰も楽にも幸せにもなれないのに。
「言いたくねえんだよ。あいつが誰だって、どうでもいいだろ。お前に関係ねえし」
「関係なくないだろ!」
 原田の手が伸び、グラスを弄んでいた和伊の手首を強く掴んだ。手首に食い込む指の力。そんなふうに掴むべきは、この手じゃないと分かっているに違いないのに。
「離せよ」
 掴まれた手を強く払って振り解く。原田はまるでそこについているのが他人のものだと疑っているような顔で、宙に浮いた自分の手に目をやった。
「原田、ちょっと頭冷やしてからまた来れば? てかさ、よかったら今度いずみも呼んで、みんなで飲もうぜ。中山とか、島村とか、他にも」
「ああ──」
 まだ自分の指先を眺めていた原田は、力なく手を下ろし、頷いた。
「そろそろいずみも帰ってくるんだろ? ほら、さっさと帰れ、愛の巣へ!」
 立ち上がって追い立てるようにしたら、原田は案外素直に立ち上がった。
「お土産ありがとうな。あとで見るから──」
 面倒見がよくて、穏やかで、優しい。でも一旦へそを曲げたら結構面倒で、頑固で、仕事の話になると嘘みたいに冷徹になったりする。和伊が知っている原田はそういう男だ。
 こんな暗い目をした男じゃない。
「原──!」
 壁に押し付けられたと思ったら、唇が重なっていた。
 舌が入り込んできて、和伊の舌に触れた瞬間驚いたように一瞬引き、すぐに絡みついてきた。吸い上げる力は少し強くて、隅々まで探るように這い回ることはしない。
 井川のやり方と違う。当たり前のことが、一瞬機能停止した頭の中で繰り返された。
「止めろ原田っ! 何考えてんだ!!」
 和伊は、思い切り腕を突っ張り目の前の身体を突き飛ばした。
 原田は数歩よろけて下がり、またあの目で和伊を見た。今まで見せたことのない顔。もっと早くそんな顔をしてくれていたら或いは、と一瞬考え、同じだけ素早くそれを振り払った。
「馬鹿じゃねえのか!?」
「お前こそ馬鹿じゃねえか、あいつ何なんだ!」
 原田が怒鳴り、一瞬あいつって誰だ、と真剣に考えた。
「はあ!? お前にはいずみが……って、何──?」
 また詰め寄って来た原田に両腕を掴まれる。もがいたが、原田の方が上背がある分膂力もある。
「電話に出た奴」
「……」
「和伊、あいつと何かあんのか」
「だったら何だ。お前になんか関係あんのかよ」
「そりゃあ……友達だし」
 腕を掴む力が弱くなったが、振り払おうとしたらまた掴まれた。下がったら壁に背中がついた。原田が間近で和伊の顔を覗き込む。
「関係ねえとかそういうこと言うな。お前あいつに何されてんだよ?」
 島村が言っていた。原田はお兄ちゃん気質なのだと。面倒見がいいのは昔からだ。懐に入れた奴には献身的で、親身になってくれる原田。そういうところが好きだし、好きだった。
 本心から心配している原田の顔。
 だが、違う。和伊が欲しいのはそれではない。
「和伊!」
「何されてんのか知りてえのか!? 俺がされてえって思うやらしいこと全部だよ!!」
 腹の底から怒鳴りつけたら原田は蒼白になり、囁くように、ゆっくりと言った。
「和伊」
「何だよ」
「……それは──その……、俺にされたかったことなのか?」
 どうしたら伝わるだろう。
 あの日まではそうだったのかもしれない。でも今更分からない。
 あの日、酷く酔っ払い、原田に呼ばれるように名前を呼ばれてキスされて興奮した。
 けれど、原田といずみの結婚式の後、井川の部屋で組み敷かれたあの時は、相手が誰だか間違えてなんかいなかった。
「わかんねえ。でも、今は違う」
 原田の目を見てはっきり告げる。原田はどうしていいか分からないような顔で視線を彷徨わせ、突然意を決したようにまた顔を近づけてきた。
「やめろっつってんだろ!!」
 押し退けたら、原田は呆気なく離れて立ち尽くした。
「お前が今感じてんのは、友達を取られたくないって独占欲だ! それ以上のもんじゃねえのは分かってるだろ!?」
「……和伊」
「つまんねえことすんなよ。いずみを泣かせるようなことしたら、一生許さねえからな」
 突っ立ったままの原田に近寄り、力なく垂れた腕を掴んで持ち上げた。左手の薬指には真新しいプラチナのリングが嵌っている。
 あの時も、今も。喜んで祝える。おめでとうと言える。心のどこかに刺さる小さな後悔は確かにある。だが、それはいずれ消えるだろう。
「帰れよ。お前のいずみんとこに」
「──分かった」
 原田は和伊から離れ、おとなしく靴を履いて、振り返った。
「和伊、ごめん」
「何謝ってんだよ?」
 笑ってやったら、原田は少しだけほっとしたように表情を緩めて、そしてまた眉を寄せた。
「……もし、困ってるなら言えよな」
「は?」
「だから、その──もし、ほんとは……止めたいなら」
 それだけ言って原田は踵を返した。ドアが静かに閉じた途端、和伊はその場にへたり込んだ。

 和伊は暫くその場で頭を抱えて座り込んでいたが、不意に立ち上がり、鍵を掴んで部屋を出て、思い直して財布とスマホを取りに戻った。
 今から走ったって焦ったって仕方ないのに、足ばかりが前に進もうとしてもがいている。駅の階段を駆け下りるのももどかしかった。改札機に財布を叩きつけるようにして通過して、幸いすぐにやってきた電車に飛び乗った。
 油断したら、檻の中に入れられた獣みたいにうろうろ歩き回りそうになってしまう。歯を食いしばって手すりにしがみつき、どうにか自分を真っ直ぐ保つのが精いっぱいだった。
 電話でもかければいい。そこにいてくれと、待っていてくれと言えばいい。そんなことは重々承知で、それでも電話ができなかったのは、まだ憶しているからだ。
 これが正しいのか分からない。すぐに失敗したと叫びたくなるのかもしれない。そんな気持ちを押さえつけて駅を走り出て、そうして目的地のドアホンを、拳を叩きつけるようにして押した。
「──和伊?」
 誰何されることもなくドアが開き、驚いた顔の井川が顔を出した。
 会ったばかりの原田によく似た、でも全然違う顔を。
 ついさっき別れたばかりだ。服装も顔も変わっているわけがないのに、変わっていなかったことに馬鹿みたいに安堵して、和伊は思わず身体を折り曲げ、自分の膝に手をついた。
「なんだ、お前自分とこに帰ったんじゃねえのか」
「帰ったけど──」
「大丈夫か? とりあえず入れば」
 促す井川に続いてドアを潜り、靴を脱いだ和伊は上がり框で立ち止まった。部屋に上がった井川が怪訝な顔をしてこちらを見ている。
「さっき、原田が来た。そんで──原田とキスした」
「……」
「会いてえっつーから会って──それはだって、友達だから」
「──そうだな」
「そしたらあいつ、お前に何されてんだとか問い詰めてきて、それで」
 井川が和伊の肩に触れる。思わず身を引いたら、井川の手はおとなしく離れていった。
「それで、あの男はどうすんだ」
「は?」
「だから、お前と嫁のどっちを取んだよ?」
「いや──そういう話じゃ──」
「キスされたんだろうが」
「されたけど」
「……まさかお前、愛人でいいとかそういう根性のねえこと思ってんじゃねえだろうな!」
 井川が血相を変えるから、何を言ってるんだ、と内心呆れた。こいつは原田と俺がうまくいけばいいと思っているのか。
「誰が愛人だ誰が! 大体俺に根性ねえとか言うに事欠いててめえ、つーかそういう問題じゃねえわ! 別にどうもならねえよ。俺はいずみに幸せになってもらいたいし」
「それは──」
「お前とあいつじゃ全然違った」
 井川はその場に立ったまま、何も言わずに和伊を見た。
 そりゃそうだろうな、と低く呟いた井川が打たれた犬みたいな顔をしたから、誰かに胃を引っ掴まれたみたいに息が詰まって、自分の言葉のまずさにやっと気づく。
「や、そうじゃなくて!」
 焦れば焦るほど、どんな言葉も頭の中から消えていく。うまく言おうとすればするだけ、三十年以上生きてきて積み上げてきた語彙の在庫が勝手にどこかに隠れてしまう。和伊はそれこそ犬みたいに荒い息を吐き、なんとか言いたいことを伝えようとして躍起になった。
「だから、確かに原田とお前は全然違ってて、それはだから、当たり前のことだから仕方ねえっていうかそうじゃなきゃいけないと思うし!」
「ああ──」
 井川が何を言おうとしたにせよ、ちゃんと伝わらなかったことだけは和伊にもよくわかった。
「お前のキスのほうが好きだった!」
 焦りの余り大声が出て驚いたのは自分だった。一瞬訪れた空白に発作的に笑いそうになる。ほとんどヒステリーみたいなものだ。
「……お前のやり方が好きだ」
 和伊は深呼吸して、唾を飲み込んだ。
「原田は友達だし、付き合いも長えし、だから俺、今はお前のこと全然知らなくて、原田のことなら大抵知ってる。でも、だけど分かったっつーか、分かったわけじゃねえけど何となく──何をどんだけ知ってるかが重要なんじゃねえよな? 何を知りてえかが肝心なんだって、俺……」
 まくしたてる和伊の頬に井川が手の甲で触れた。かさついていると言ってもいい肌が、頬骨の上を滑り、唇に触れ、また頬に戻る。
「俺、知りてえ」
「何をだ? 和伊」
 井川の低い声で和伊、と呼ばれ、身体中がぞわりと波立つ。
 井川に呼ばれるのが好きだ、と思う。甘ったるく、それでいて何かを眼前に突きつけるような厳しさを孕むその呼び方が。
「お前が俺の何を知りたいのか、それを知りたい──井川」
 和伊は井川の手を引き寄せ、頬をすり寄せた。
「全部見せたい」
 今すぐ見せろよ、と呟いた井川が小さく笑って、和伊の頬を優しく撫でた。